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ロベルトとクララ

「それで? アマネちゃん、締め出されちゃったのぉ?」


 律さんがフルーテガルトに移住してきた日、私は引っ越しのお手伝いと称して新居にお邪魔していた。


 昨日返ってきたユリウスは、ぎゅうっとただいまのハグをしてくれたのだが。


「すまんが忙しいのだ。王都に行くまでにやらねばならぬことがある」


 そう言って私を部屋に返した。


「封書が溜まってたものねえ。あれを片付けてから王都に行きたいんでしょうね」

「たぶん……」


 ユリウスがテンブルグに行って留守にしていたのは3週間とちょっとだ。毎日数通ずつ溜まっていったユリウス宛ての封書は、木箱いっぱいに収められていたのだ。


「デニスさんも私も絶対に開けるなって言われてて……」


 手伝えれば良かったのだが、ユリウスはテンブルグに発つ前に封書は開けないように厳命していったのだ。


「律さん、せっかくこっちに来たのに、ヴィムも明後日から王都ですよね」

「でもぉ、聖ニクラスのお祭りには戻ってくるって言ってたしぃ」

「じゃあその日は私とジゼルの2人になるのかしら?」


 聖ニクラスのお祭りのパレードは王都で行われるのだが、ユリウスとヴィムはそれを見ずに帰ってくるようだ。私は前の晩にマリアの靴下にお菓子を入れるという重要任務を仰せつかっている。見つからないように真夜中にこっそりと入れなければならないのだ。


「でもぉ、アマネちゃんもお仕事忙しいんでしょう?」

「アマネちゃんは即位式の楽譜を完成させないとね。聖ニクラスの日までに出来ていないとクランプスが来ちゃうわよ」

「う、がんばります……」


 忙しいユリウスに構ってもらえない私は、まゆりさんと律さんに甘えたかったのだが、そうは問屋は降ろさないようだ。というか本当にそろそろ楽譜を仕上げなければまずい。


 仕事しないと、と城に向かうべく外に出るとラウロが宿屋の護衛たちと話していた。つい最近までヴェッセル商会で働いていた護衛たちは、宿屋に活気が戻り始めたことで復職となっていた。


「久しぶりですね。どうですか? 宿屋の方は」

「ああ、アマネさん、おかげさんで宿屋街も賑わってましたよ。ちょっと待っててくださいね」


 宿屋の女将に呼ばれて護衛の1人が走って行く。


「俺らも余分に報酬をもらったんすよ。おかげで安心して冬を越せます」


 もう1人は笑顔で懐を叩いた。私としても嬉しい話だ。毎日誰かしらレッスンを受けに来るとはいえ、一番賑わっていた時期に比べればまだまだ少ないのではないかと心配していたのだ。


「これ、女将さんから差し入れだそうです」


 女将に呼ばれた護衛が戻って来てりんごを2つ手渡してきた。


「わ、おいしそう! ありがとうございます」


 宿屋の入り口を見れば女将が手を振っていた。私も手を振り返して護衛たちと別れて城に向かう。


 途中、今度は東門の兵士たちに呼び止められた。


「寒いのに大変だなぁ。雪が降っても通うんだろ?」

「ええ、そのつもりです」

「俺らも雪よせを手伝うから頑張んな。おい、あれ持ってこい! 昨日もらったの」


 そう言って手渡されたのはまたしてもりんごだ。結構な数が袋に詰まっている。北館のみんなにも分けられそうだ。カスパルがりんごが好きだと言っていたので、きっと喜ぶだろう。


 礼を言って城への坂を上っていく。りんごの袋はラウロが持ってくれた。


「ふふ、なんか嬉しいですね。事務所に着いたら食べましょうね」

「俺が剥く」

「私だって剥けますよ!」

「アンタが剥くより俺の方が早い」


 確かにそうなんだけどね。すみませんね、不器用で。


 ラウロはアマリア音楽事務所のロゴマークのハンコを掘ってくれたことからわかる通り、手先がとても器用だ。


「ラウロは前はルブロイスの商会で働いていたのですよね?」

「ああ」

「どうして辞めちゃったんです?」

「忙しすぎたからだ」


 ルブロイスはノイマールグントの大領地だが、ヤンクールとヴァノーネに接している。ラウロによれば、店自体はルブロイスにあったが、ヤンクールやヴァノーネにも行くことが多く、いつでも忙しかったらしい。


「うちも結構バタバタしてますけど」

「王都ぐらいなら問題ない」


 半日くらいの旅程ならば別にいいらしい。基準がよくわからないが、だとすればヴィムのようにヴェッセル商会で働くのは大変だろう。


「護衛は増やさないのか?」

「いい人がいれば増やしたいですけど……すみません、あまりお休みを上げられなくて」

「それは問題ない。だが城は広すぎる。見回りを増やすべきだ」


 それは頭の痛い問題だった。エルヴェシュタイン城の裏側は山で崖が聳え立っている。北側は川で南側は崖の下にエルヴェ湖だ。簡単に侵入されるような作りではないのだが、絶対に安全というわけでもない。


「エルヴェ湖沿いに小道がある。入ろうと思えば東門を通らずに入れるぞ」

「今は使われていない南門の外にある道ですね」


 南門はエルヴェシュタイン城が出来た時に封鎖されたと聞いた。もともと南門は街の人々が近道として使っていたようだが、狭い道なので馬車が通れない。街が潤うにつれて馬車を購入する者が増え、南門を使う者も減っていったため封鎖されたという。


「馬車が通れませんから問題ないですよね。生徒さんたちは必ず街を通らないと城へは来られませんから」

「生徒ではない。賊の話だ」

「賊、ですか?」

「前国王の殺害犯も南の小道を通ったんじゃないか?」


 ヴィーラント陛下が事故ではなく殺害されたというのは表向き秘されている。だが街の者たちの噂話ではそれなりに語られていた話だ。ラウロが事件のことを知っているのは意外ではあったが、特に問題という訳ではなかった。


「ラウロが言っているのはユニオンのことですか?」

「そうだ」

「ユリウスが何か言ってました?」

「気を付けろと言われている」


 そうだったのか。でも城は城壁が一応あるのだし北と南は崖になっている。そう簡単に侵入されないと思うのだが、ラウロはそうは考えてはいないようだった。


「本気で城を守るつもりで作ったとは思えない」


 とはラウロの弁だ。まあギルベルト様もそんな感じのことを言っていたのだが。


「でも護衛を増やすにしてもあの広さです。かなりの人数が必要なりますよね。現状では難しいでしょう」

「演奏会だけでも増やすべきだ」

「…………考えてみます」


 ラウロがここまで粘るのは珍しい。少し甘く考えすぎていたかもしれない。王族が見に来るのだし、その時だけでもギルベルト様や王宮から人手を借りられないか、検討することにした。






 ◆






 結局、ゆっくり過ごす時間がとれないままにユリウスが王都へ行ってしまった数日後、ようやく即位式の楽譜が完成した。


「待ちくたびれたよ、マイスター」

「すみません。写譜をお願いしますね」


 クリストフが総譜を写譜して王都に送り、OKが出たら総出でパート譜づくりに取り掛かることになる。


「アマネちゃんはちょっとはゆっくりできるんじゃない?」

「そうだといいんですけどね……」


 即位式の件は一段落だが、ピアノ協奏曲の練習をしなければならないし、もう一つ私にはやるべきことがあった。


「クロイツェルがまだなんだよね……」


 マリアとユリウスの誕生日まであと3日だ。ユリウスと約束したクロイツェルは仕事とは別なので家で作業を進めるつもりだったのだが、即位式の件が終わらないことには手がつけられなかったのだ。


 聖ニクラスの祭りがある明日はユリウスが王都から帰ってくるが、今度は私がカンヅメでゆっくり話をする時間はなさそうだ。そして、来週にはユリウスはいよいよスラウゼンへ向かう。


「3徹でなんとかしよ……」


 出来れば誕生日までになんとかしたい。


 まずは昼間のうちにピアノ協奏曲の練習をしなければと、私はレッスン部屋へ向かった。今日は早めに終わらせて、マリアの靴下にプレゼントを入れるという重要任務があるのだ。


 協奏曲の演奏会で演奏するのはロベルト・シューマンのピアノ協奏曲だ。シューマンはピアノ用の作品をたくさん残しているが、ピアノ協奏曲は今回演奏する1曲しか作らなかった。


 シューマンは大学時代に後に妻となるクララと出会っている。ピアノの師の娘がクララで、出会った時の彼女はまだ9歳だったが、その年にクララはピアニストとしてデビューを果たしている。


 シューマンは若い頃は自堕落だったらしく、浪費癖もあり夜ごと飲み歩いてはパーティーなどに顔を出して女の子を侍らしたりしていたようだ。


 しかし、その後シューマンは指の病気でピアノが弾けなくなり、作曲家を志すことになる。


 シューマンとクララは、おそらくは最初は兄弟のような関係だったと思われる。それがどういう経緯か次第に恋愛へと発展していくのだが、シューマンの過去の自堕落っぷりにクララの父でありピアノの師であったヴィ―グは反対して2人の間を妨害したようだ。


 最終的には訴訟まで発展し、シューマンが勝訴してめでたく結婚となった。


 クララとシューマンは結婚後は交換日記を付けるような仲良し夫婦だったらしい。子どもも8人と多く生まれているが、その家計を支えたのはクララだったようだ。育児に家事に演奏に、きっと目が回るような忙しさだっただろう。


 ピアノ協奏曲の第一楽章は、クララとシューマンが結婚した翌年に作られている。冒頭は身を引き裂くような和音だが、それに続くオーボエのメロディは、シューマンらしいロマンティックな甘くて美しい旋律だ。


 第二楽章と第三楽章が書かれたのはその4年後だ。実際にどうだったのかはわからないが、第二楽章を聞くとクララの子ども時代を描いているのではないかと思えるようなかわいらしいメロディで、第三楽章は堂々としていてベートーヴェンを思わせるような風情がある。


 ちなみにこの協奏曲の初演はクララが務めている。この2人、本当に仲良し夫婦で、それまでフラフラしていたシューマンが、クララのためにめちゃくちゃ頑張って作った曲なんじゃないかなあと、私は夢を膨らませたりしている。


 ガッツリと時間をかけて練習をしてラウロと共に部屋から出ると、アロイスとクリストフが待ち構えていた。どうやら即位式の楽譜で読みにくいところがあったらしい。


「すみません。待たせてしまいましたか?」

「問題ないよ。マイスター、ピアノ協奏曲、とてもいいね。僕は第一楽章が好きだな」

「冒頭はオーボエの見せ場があるので、クリストフのあま~い演奏を期待してます」

「それは僕もしっかり練習しないとね」


 クリストフが珍しく真面目な顔で言う。協奏曲の演奏会ではナディヤは出演しない。劇場のオーボエ奏者が1人加わるが、葬儀の演奏時に加わっていなかったことを考えれば、おそらくクリストフが冒頭部分を演奏することになるだろう。


「アロイスのヴァイオリン協奏曲はどうですか? 夜に練習していると聞きましたが」

「まだ全体をさらった程度ですが、早くオーケストラと合わせたいですね。あの曲はオケとのバランス次第で随分印象が変わるでしょう」


 アロイスのヴァイオリン協奏曲は、タブレットの音源をいくつか聞かせた上で、彼自身が選んだものだ。アロイスが言う通り、独奏楽器が突出しすぎない点が高く評価された協奏曲だ。


「それがわかっているのなら、さらった程度と言いながらだいぶ弾き込んでいるのではないですか? 私も負けていられませんね」


 協奏曲の演奏会は4か月先を予定している。しかし、ピアニストというわけではない私にとってはその4か月でどれだけ弾き込むことができるかが重要なのだった。


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