エルヴェ湖への音楽奉納
ベルノルトの容姿は別人のように変わった。
茶色の髪は金へ、こげ茶の瞳は青へ。しかし体系は前と変わらずちょっと小太りなおじさんのままだ。
ジゼルはベルちゃんかわいいと頭を撫でていたけれど、若い子の感性は私にはさっぱりわからない。まゆりさんに視線を送ってみたけれど、たぶんまゆりさんもわかっていないと思う。
ベルノルトは容姿が変わったことに伴い、エグモントと名乗ることになった。これは本人の希望でもあった。
それにしてもカルステンさんはやっぱりすごい! さすが私の惚れ込んだ男だ。
どうやって容姿を変えたのか、私は部屋の外で待つように言われたのでわからないけれど、ほんの数分でこんな風に変わるなんて驚くしかなかった。
その日の夜、カルステンさんは宿屋に泊るとおっしゃったのだが、アロイスやクリストフ、ダヴィデが引き留めて北館に泊ることになったため、私たちは南1号館でカルステンさんをもてなすことにした。アロイスやクリストフは元は宮廷楽師仲間だし、ダヴィデも含めてカルステンさんを父親のように慕っているようだ。
せっかくの機会なのでとヴェッセル商会にマリアを迎えに行くようラウロに頼んだところ、マリアだけでなくユリウスとパパさんまで来て驚いた。ユリウスはともかくパパさんはなぜ?
馬車から降りてくる3人を見て目を丸くしていると、ユリウスが私を担いで馬車に逆戻りした。
「え、ちょっと! ユリウス?」
「すぐ戻る。ラウロ、出せ。エルヴェ湖畔で適当に止めろ」
いつもの幌馬車は前も後ろもカーテンが開きっぱなしで、マリアとパパさん以外のみんなが驚いているのが見えた。いや、カルステンさんの表情は普段通りか。私はと言えばユリウスの膝の上でポカンとするばかりだ。
「エルヴェ湖についたらお前は歌え」
「ああ、カルステンさんが言ってた音楽の奉納?」
「聞いたのか…………アマネ」
真面目な声で名を呼ばれ、一体何なのだとユリウスを見れば、ユリウスは真顔でじっと私を見ている。
「どうしたの?」
「いや…………ただいま」
「おかえり。ねえ、何かあったの?」
「おい、着いたぞ」
そうにもユリウスの態度が引っ掛かって問いかけると、ラウロの声がした。あー……、なんか気まずい。前も後ろもカーテンは開いているし。ラウロは護衛なので私が女であることは予め言ってあるのだが、それにしたって気まずいことに変わりはない。
「降りるぞ」
「ちょっと! 自分で歩けるってば!」
再びユリウスに担がれて馬車を降りる。繁みの隙間を縫って進むとエルヴェ湖が見えてくる。湖面は静かで波一つ立っておらず、夕暮れの空を映している。
少し開けたところでユリウスは私を降ろし、手を伸ばしてきた。
「手を」
「う、うん」
外でこんな風に手を差し伸べてくるなんて珍しくて困惑するが、どうしてだか懇願されているような気がした。それにユリウスはなんだピリピリしていて、どうにも雰囲気に飲まれてしまって反論も質問もできない。
戸惑いながらも湖に体を向ける。今日もあの遠くの鐘のような音は鳴っている。なんとなく励まされているようにも聞こえる。
どうしよう、何を歌おう? 短くてもいいよね?
思い付いたのはマリアがレオンとエルマーに歌ったイタリア歌曲『側にいることは』だった。
愛する人の側にいることは
最も素晴らしい愛の喜び
恋焦がれる人から離れていることは
最も悲しい愛の苦しみ
たった4行の歌が湖に吸い込まれていく。相変わらず音は響かないけれど、頭の中に音が静かにゆっくりと沈んでいくようなイメージが湧いてきた。水底に届いていたりするのだろうか?
歌い終わってなんだか不思議だなと思った時、それまで鏡みたいに滑らかだった湖面に、さあっとさざ波が立った。周りの木々や草は音もなく静かに佇んでいる。
繋がれた手がぎゅっと握り締められる。ユリウスを見れば、祈りでも捧げているような厳粛な表情で静かにエルヴェ湖を見つめている。
今のエルヴェ湖は夕暮れを映しているというのに、角度で色を変えるユリウスの目は夜みたいな青色に見えた。
◆
事務所に入るとまゆりさんが困ったような顔で笑っていた。
「待たないで先に始めちゃってたわよ」
「なんかすみません……」
「気にしなくていいわよ。ユリウスさんのお父様がフォローしてたから」
パパさんが? 驚いてユリウスを見れば、ものすごーく眉間に皺が寄っていた。
パパさんが余計なことを言っていないことを祈るばかりだ。ちなみに私が女であることを知らないのはテオとジゼルとエグモントの3人だ。
テオとジゼルはともかくとして、エグモントにバレるのはまずい。あんなおしゃべりマシーンに知られた日には世界中に知れ渡りそうだ。せめてエルヴィン王子のお相手が決まるまでは隠さないと困るというのに。
慌てて席を設けてあった部屋に入ると、マリアがカルステンさんの頭を撫でているのが見えた。どうしてそうなった。ていうかマリアずるい! 私だって撫でたいのに!
「しかし、見違えましたねえ、エグモント殿」
「不思議なものですね。どうなっているのでしょうか?」
「吾輩も驚いたのだがどうしてこうなったのかさっぱりわからぬのだ。なにせあっという間のことであって、それこそ瞬き一つでこのような有様。しかし鏡を見ないことには変わったということを忘れそうになるものであるな。話し出せばこの通り声が今までとは違うので……」
マリアを見て脱線しそうになった私だが、パパさんの声を聞いてハッとする。ちょうどパパさんがカスパルとエグモントと話している。
カスパルは事務所で働いているわけではないが、意外にもエグモントと馬が合うらしく、せっかくの機会なので今日の席にも呼んだのだ。
「お話し中すみません。パパさん、ちょーっといいでしょうか?」
「アマネちゃん、寒くなかったかい?」
「パパさんっ、ちょっとこっちに来てくださいってば」
エグモントをカスパルに任せ、私はパパさんを引っ張って部屋の外に連れ出す。
「パパさん、私が女だってことはくれぐれも話さないようにお願いしますね」
「わかってるよ。ユーくんにも散々言われたからね。それよりアマネちゃん、ユーくんから聞いたかい? エルヴェ湖のこと」
エルヴェ湖? カルステンさんが言っていたことだろうか。
「ああ、カルステン殿から聞いていたんだね」
パパさんによると、エルヴェ湖に音楽を捧げなければならないという言い伝えは、随分と昔に廃れてしまった話らしく、パパさんもユリウスもカルステンさんに教えられたそうだ。
「じゃあ、カルステンさんがユリウスに話があるって言ってたのは、そのことだったんですね」
「それだけという訳ではないみたいだけど、まあそういうことだね」
「他にもあるんですか?」
「僕も途中までしか聞いてないんだよ。途中でラウロが迎えに来たからね」
それでパパさんも一緒に来たのかと納得する。それ以外の話はユリウスに聞いた方が早いとパパさんが言うので部屋に戻ってユリウスを探せば、カルステンさんやダヴィデと話をしているところだった。
「カルステン様、王都でベルトランに会いませんでしたか?」
ダヴィデがカルステンさんに尋ねるのが聞こえてくる。
ベルトランってトラヴェルソのだよね。ルイーゼがテンブルグに帰ってしまったから、ベルトランも諦めてヤンクールに帰ったのかと思っていた。
「会ってはいないが、王都にいるとは聞いている」
「それは良かったです。俺にはテンブルグに行くようなことを言っていたんですけど、ルイーゼ嬢は全然脈がなかったでしょう? テンブルグに行くよりも王都で仕事をしたほうがいいって薦めてたんです」
「ルイーゼ君はプリーモ君と婚約したと、ナディヤ君から聞いているよ」
カルステンさんの言葉にはアロイスやクリストフも驚いていた。私もびっくりだ。
「マイスターは聞いていたかい? ルイーゼと仲が良かっただろう?」
「聞いてませんよ」
「ベルトランとプリーモが揉めていたことがありましたね」
アロイスに言われて思い返してみれば、大聖堂でマリアの歌をアロイスと2人で聞いていた時、ルイーゼがベルトランから逃げて来たことがあった。
「でもお似合いですね。ルイーゼの花嫁姿はかわいいだろうなあ」
「貴女の花嫁姿もかわいらしいと思いますよ」
「ちょ、アロイス! エグモントさんの前でそういう話は……」
意外なところに伏兵がいて焦ってしまう。アロイスはくつくつと笑いながら言った。
「エグモント殿も気付いておられますよ。なにせクリストフと同類ですからね」
「それは……まずいですね」
「大丈夫でしょう。彼も仕事を失いたくないでしょうから」
そうだとしても、あのしゃべりっぷりを見ていると、うっかり口を滑らせるのではないかと心配だ。
「エグモント殿には私が悪い子にならぬよう釘を刺しておきましたから問題ありません」
まあ、カルステンさんがそう言うのなら。それにしてもカルステンさんはすごいなあ。こういう方を深謀遠慮というのではないだろうか。さすが私が見込んだ男だ!
「アマネ、顔が緩んでいるぞ」
ため息を吐いたユリウスが言った。すみませんね、変な顔で。
「レッスンはどうだ? 順調か?」
「うん。そっか。ユリウスは開校の日に王都に行ったんだっけ」
「フルーテガルトの街の皆も喜んでいたよ。僕も宿屋の知り合いから礼を言われてね」
パパさんの言葉にみんなが安心したように笑みを零した。考えてみれば全員フルーテガルトの出身ではないのだが、この街のためになっていると言われればやはり嬉しいのだ。
「ミヤハラ殿の試みは興味深いですな。私も何度かここを訪れて気に入っておりましたから、頑張っていただきたいものです」
カルステンさんに褒められた! ニマニマとますます顔が緩んでしまう。何故かユリウスの眉間の皺が深くなったけど構っていられない。
「あのっ、カルステンさん、よろしければピアノを弾いてみませんか?」
「よろしいのですか?」
「もちろんです!」
明日も朝からレッスンの予約が入っている。今を逃すとカルステンさんがピアノに触れる機会がないのだ。
その後はオルガンの経験があるカルステンさんの伴奏に合わせてマリアが歌ったり、クリストフがオーボエを吹いたり、ジゼルが踊ったり、楽しい時間を過ごしたのだった。
◆
エルヴェシュタイン城からヴェッセル商会に戻り、私はユリウスの書斎に呼ばれた。随分遅い時間になってしまったが、例のアルフォードからの預かり物を入れるロケットを、ユリウスは見つけて来てくれたのだ。
そのロケットは正円で真ん中に丸くて青い石が嵌め込まれていた。石の周りは鎖のような意匠が施されている。
「これって……ユリウスの魔力の結晶?」
「ああ、急遽作らせたからたいした装飾が付けられなかったが」
「ううん。きれい…………」
つやりとした青い石は夜を固めたみたいな深い青だ。
「アマネ、俺は怒っているのだ。なぜ誕生日を教えなかった」
ユリウスはどうやらまゆりさんに聞いたらしい。
「仕方ないじゃん。自分でも忘れてたんだもの」
「まったくお前は……ぼんやりのほほんにもほどがある」
「うぅ、久しぶりに言われた……」
でも本当に忘れていたのだから、仕方がないではないか。困ってユリウスを見上げれば盛大なため息を吐かれた。
「お前が逆の立場だったらどう思う?」
「……うん、ごめん」
そっか。そうだよね。もしユリウスの誕生日を知らないまま過ぎてしまっていたら、私もがっかりしてしまうと思う。
「このペンダントはちゃんとした物を用意するまで祝いの品ということにしておけ」
代金を準備していたのだが、こちらから言い出す前に釘を刺されてしまう。しかし、ちゃんとした物って……これで十分なんだけど。
「ところで、エルヴェ湖の話だ」
「パパさんからちょっと聞いたよ? カルステンさんからも」
「なるべく多くと言っていただろう? 出来るだけ行って演奏するなり歌うなりしておけ」
パパさんは言い伝えがだいぶ昔に廃れたと言っていたから、何十年も捧げられていないということだろう。
「もし音楽を捧げなかったらどうなるの?」
「……知らん。だが何年も放置されていたのだから、多いに越したことはない」
まあ広い場所で自然に負けながら演奏するのは嫌いではない。別に毎日行ったっていいかな。寒くなければだけれど。
「カルステンさん、他にも話があったんでしょう?」
「ユニオンの話だ」
「ユニオン? カルステンさんとユニオンって何か関係があるの?」
意外な内容で驚いてしまうが、ユリウスの話を聞いてさらに驚いた。
「ゲロルトが潜伏していた宿屋があっただろう? お前が囚われたところだ」
「うん。カルステンさんのお知り合いって聞いたけど?」
「あの宿屋はユニオンの穏健派の商会が経営しているのだが、ギルドに復帰したいらしい。それでカルステン殿にうちへの取り成しを頼んだそうだ」
驚きはしたが納得もした。ゲロルトたちを潜伏させておきながら、ライナーが逃げる手助けをしたのだ。ゲロルトの仲間というわけではないのだろうなとは思っていたが、穏健派だったとは思いもしなかった。
「ユニオンの穏健派をギルドに引き入れたいと考えてはいたが、取っ掛かりが無くてな。ギルドの説得も上手くいっていなかったが、ゲロルトを王都から追い出した一役を担っていたとなれば引き入れやすい」
「カルステンさんに感謝だね!」
そう言った途端、ユリウスは私の頭をガシリと掴んだ。
「お前、なぜカルステン殿の前ではあのように顔が緩むのだ? 俺の前にいる時とは随分違うではないか」
「だってカルステンさんは素敵だもの! ユリウスにはわかんないの? あの美しくも哀しいシルエットの良さが!」
「シルエット? …………頭のことか?」
「そう! あの愁いを帯びたシルエット! マリアは撫でてたけど、私には恐れ多くてあんなことはできないなあ」
この際だからユリウスにもカルステンさんの素敵さをわかってほしいと熱弁を奮う私だったが、ユリウスは頭が痛いと私を部屋から追い出したのだった。