約束
道化師が消えたと思ったら、血の気を失くしたユリウスとラースが目の前にいた。
いつの間にか私は寝台に寝かされている。
「あれ? なんで?」
「なんでではないっ! どれだけ心配したと思っている!」
ユリウスが怒っているけれど、私は事態がよく呑み込めていない。ラースを見上げれば苦い顔で笑われた。
「ピアノの前に座ったまま、いくら声を掛けても身動きしねえし、瞬きもしやがらねえから焦ったぜ。劇場の火事の時と同じだな」
シューマンの『謝肉祭』を弾いたはずなのに、そんなのは聞こえなかったと言われてしまった。私が道化師といたのは別の空間みたいな場所なのだろうか。
すっかり夜になっていて驚くが、黒い苦い薬みたいなものを飲んだせいなのか食欲が全く無い。
「少しは食事を取れ」
「だってなんか口の中が苦いんだもん」
「道化師に何かされたのか?」
ユリウスに問い詰められたのをいいことに、話しているうちにお腹がすくかもしれないからと適当に誤魔化し、順を追って説明することにしたら、ラースは別室に下がっていった。
「アルプは冬眠するのか……初めて聞いたな。だがそうだとすれば護衛がやはり必要だな」
「そうだ! いい人を見つけたんだよ」
「それはラースから聞いた。前歴は調べておくが、まずは道化師だ」
ユリウスが話しの腰を折ったというのに、じろりと睨まれてしまった。
タブレットを取り上げられて演奏をしたこと。いろんな約束を取り付けて話が聞けたことをユリウスに聞かせる。
「ふむ……演奏会の邪魔をさせないようにしたのは大きいな。演奏中は護衛を付けられないだろう?アロイスやクリストフを引き入れたのはそのためだったが、あの2人は荒事に向いているとは言えんからな」
そんな理由で2人に私の手伝いをするように言ったとは初耳だ。2人にはなんだか申し訳ない限りだが、私としては助かってもいるのでユリウスを怒ることができなかった。
カミラのことは告げ口みたいで嫌だったが、王都にいるならば言っておいた方が良いだろうと考えて話した。
「そうか。…………カミラのことは、俺がどうにかする」
ため息を吐きながらそう言うユリウスは、どこか傷ついているようにも見えた。
「お前は何故、カミラのことを俺に聞かないのだ? カミラとゲロルトの関係は、ケヴィンから聞かされてすぐに調べてあったというのに」
ユリウスが横目で私をねめつけた。
「そうだったんだ? でも、なんか聞いちゃいけないかなって。でもゲロルトがカミラさんの拷問担当だったとしたら、ユリウスのこともゲロルトの仕業かもしれないね」
魔女狩りで捕まったカミラがユリウスの名前を出したと私は聞いていたが、ゲロルトが噛んでいたのならば話は変わってくる。拷問結果に名前を紛らせることなど容易い。ユリウスもそれに気付いているから傷ついているのだろう。
「カミラとは特別何かあったわけではない。だがゲロルトが関わっているならば、俺がどうにかしなければならない」
ユリウスの口からカミラとの関係が語られ、内心私は安堵してしまうが、それよりもゲロルトのことをユリウスだけが背負うのは違うと思う。
「ゲロルトのことは何かあったら話してね? カスパルさんも言ってたよ。打ち明ければ心が軽くなるって」
「カスパルらしいな。俺も言っただろう? 頼らせてもらうと」
「うん。絶対だよ」
道化師はゲロルトが戻ってくるつもりだろうと言っていた。あの気が触れたみたいな声が頭の中で繰り返される。
「戻ってこなくていいのに……」
「冬はさすがに移動しないだろうが、春以降は気を付けねばならんな。だが道化師に守るよう約束させたのだろう? まったく……なぜ自分を守るように言わないのだ」
ユリウスの手が伸びて来て抱き込まれる。不安で冷たくなった心が温まるような気がした。
「前にも言ったが、命を狙われたことはないのだ。そう心配するな」
「でも……スラウゼンの帰りは腕を怪我したでしょ?」
ユリウスは簡単に言うけれど、あの心臓が凍り付くような感覚はなかなか忘れられるものではない。
「あの時は…………ゲロルトがお前のことをガリガリだと言ったから…………見たのかと頭に血が上ったのだ」
なにそれ。初めて聞くんだけど? 確かにゲロルトもイザークも、散々人のことをガリガリだと言っていたが、見たのかって何? もしかして、妬いてくれてたりする?
ユリウスにしては珍しく言い淀むような話し方に、頬が赤らんでいる自覚がある私は顔を上げられなかった。
とくんとくん、とユリウスの心音が伝わってくる。早鐘のように鳴る私の心臓なんて、とっくにユリウスにバレているだろう。
「体調はどうだ? 道化師に飲まされた薬の影響はないか?」
「ん、大丈夫」
ユリウスが顔色を見ようと私の顎に手をかけて上向かせる。首に当たった手が気遣うようで少しこそばゆい。撫でられると心臓の奥がぎゅうっとして、声が小さく漏れてしまった。
顔を上げればどうしたってユリウスの唇に視線が行ってしまい、物欲しそうな顔をしていないか心配になる。意識して視線を上向かせてユリウスと目があった瞬間、唇が重なった。
いつもの冗談みたいな触れ合うようなそれが、どんどん深くなっていく。どうしたらよいのかわからない私は、ユリウスにしがみつくことしかできない。
どのくらいそうしていたのか、気が付けば私は再びユリウスの腕の中に納まって心音を聞いていた。
どくんどくん、とさっきよりも大きくて早い音が伝わってくる。そういう私も人のことは言えなくて、全身が心臓になったみたいだ。
「アマネ」
ユリウスの声が体越しに伝わってくる。
「ゲロルトがいないうちにユニオンの穏健派をギルドに引き込む」
「うん」
「過激派がヴェッセル商会を狙うだろう」
ハッとして顔を上げる。ユニオンの穏健派を引き込む話はラースに少しだけ聞いていたが、過激派が狙ってくるなんて初耳だ。ヴェッセル商会はもちろんだが、表立って動くのはユリウスだ。ユリウスは何かを決意したような目で私を見ていた。
「ゲロルトがいない今が良い機会だ」
「でもユリウスは……」
「俺は問題ない」
ユリウスが何も言わないのはユニオンのことが解決していないからだとラースは言っていた。けれどそんなことはどうでもいい。
「私だって支えたいよ」
「充分支えてもらっているが?」
「嘘。私、何もできていないもの」
そんなことはないとユリウスは困ったように目を伏せた。
「約束をしようか。前に聞いた曲があっただろう? お前が好きなヴァイオリンとピアノの……」
「クロイツェル?」
「そうだ。クロイツェルを一緒に演奏しよう。俺は練習しなければならないから、演奏できるようになるまで待っていてくれ」
フルーテガルトで2人で聞いた後、実を言うと私はこっそり楽譜を起こし始めていた。まだ手を付けたばかりだが、12月のユリウスの誕生日までに完成させるつもりだったのだ。
「じゃあ楽譜を早く仕上げちゃうね」
「急がずともよい。即位式の曲もあるし、救貧院の依頼もあっただろう?」
とっても嫌そうな顔でユリウスが言う。この表情も実を言うと割と好きだったりするのだけれど、本人には内緒だ。
「大丈夫。アロイスもクリストフもいるもの」
王宮で打ち合わせをした際に、救貧院の子どもたちを対象にした音楽教室をやってほしいと言われていた。最初はマリアも連れて行ってほしいと言われたのだが、それはきっぱりと断った。つい数か月前まで同じ境遇だった者同士が顔を合わせるのは良くないと思ったのだ。
「そうだとしても急がずともよい。俺は冬の間はスラウゼンに行くことになるからな」
「スプルースの伐採にユリウスも行くの?」
「スラウゼンでは初めてだからな、ザシャ一人では大変だろう」
スプルースの伐採は1月末に行われる。スラウゼンはそれなりに雪が多い場所だというから、行き来は難しいだろう。どうやらユリウスはこの冬はスラウゼンで過ごすことになるようだ。
「ユリウス……今は誤魔化されておくから、何かあったらちゃんと話してね?」
「…………わかった」
音楽の話になったら誤魔化せるとでも思っていたのだろう。ユリウスはバツが悪そうな顔で頷いたのだった。
◆
その2日後の朝早く、私たちは王都を発った。
結局、ラウロを護衛として雇うことが決まり、多少はできると言ったラウロに御者を任せてみたところ、全く問題がないことがわかった。
「長剣は使ったことがねえみてえだが、ヴィムに教えさせるさ。あいつは女のことばっかでいけねえ。後輩ができりゃあ少しはシャキッとするだろ」
なんだかんだ言ってラースはラウロを気に入ったようで、さっそく教育計画を練っている。冬が来て動けなくなる前にいろんなことを覚えてほしいので、私としても助かる。
「ラース、私に馬の乗り方を教えてくれない?」
「お前にか? 無茶言うなよ。鐙に足が届かねえだろうが」
「専用の鞍を作ってもらえば届くよ! 乗ったことだってあるもの」
正確には観光牧場で乗せてもらっただけなのだが。ユリウスがシルヴィア嬢の宿に迎えに来た時も馬だったが、あの時はドレスだったし、乗馬という感じではなかったのだ。
「馬に乗って何をするつもりだ」
隣で聞いていたユリウスが眉間に皺を寄せて話に加わった。
「特にはなにも。でも城まで馬で行けたら楽だしかっこいいよね」
「体力不足解消のために歩くのではなかったのか?」
う、痛いところを突かれてしまった。毎日あの坂を上るのは正直きつかったりする。忘れ物をした時だって馬に乗れたら便利だと思うのだ。
「忘れ物をしなければいいのだ。だが馬と馬車は必要だな」
「うん。それもあってラウロを雇ったんだし。帰ったらまゆりさんに相談しなきゃ」
当初よりも従業員の数が増えた。見習いとはいえテオは一人前以上の仕事をしてくれているのでちゃんと支払いたいが、そろそろ費用が心配になってきた。
「作る楽譜を増やそうかなあ。シルヴィア嬢にも頼まれてるし」
アロイスが慈善演奏会で演奏したエルガーの『愛の挨拶』は、まだ出版に回していない。男性からの問い合わせが多いようなので、どうせならヴァイオリン曲だけでなく、ピアノ曲も含めてロマンス作品集みたいにしたい。ノイマールグントのプロポーズに演奏するのを流行らせようと画策中だ。
「余裕があればで構わないが、ピアノの中級向けの曲を増やしたい」
「そうだね。ピアノの曲集は増やさなきゃって思ってた。ピアノじゃないけどマリアの練習用の歌曲集ならすぐに出せるよ? あとシルヴィア嬢の演奏会の時のチェンバロの曲も」
「ああ、あれか……途中から真っ白ではないだろうな?」
ちゃんと出来てます。あの時演奏したのは3楽章だけだったが、1楽章も2楽章も楽譜に起こしてシルヴィア嬢の家庭教師の先生に贈ってあるのだ。マリアの練習用の歌曲はイタリア歌曲集から選んだが、もうすぐケヴィンが帰ってくるというので、ドイツ語に直してもらってもいい。
作る楽譜が増えるのは大変だが、出来上がったものが本棚に増えていくのは楽しい。そのうちエルヴェシュタイン城の一室を楽譜ライブラリーにするという野望があったりする。この世界に元の世界のたくさんの音楽を伝えるのが私の目標だ。
「ね、頼んであったマリアの件ってどうなったかな?」
「探してはいるが……フルーテガルトに来てもらうとなると難しいな」
「そっか……」
私はユリウスに一つお願いをしてあった。
マリアの歌の指導者探しだ。
私も声楽は入試のために多少学びはしたが専門家ではない。私ではマリアの才能を伸ばすことができないのだ。そこでユリウスに専門家を紹介してほしいと頼んであったのだが、フルーテガルトまで来てもらうとなるとやはり難しいようだった。
「うーん……でも王都支部だとお客さんに声が聞こえちゃうし……」
「そうだな。悪意のある客もいると聞いてる。俺ももう少し探してみよう」
マリアはまだ12歳だ。冬に13歳になるが、平均よりはまだ小さいので体が出来てからでもよいかもしれない。急いでいるわけでもないし、協奏曲の演奏会後でもいいだろう、
「ところで『道の駅』はどうなったのだ?」
「うん、テオとまゆりさんがフルーテガルトの特産品を調べているところだよ」
「ある程度、企画がまとまったら街の顔役に話を通す。ケヴィンや父上にも言っておくから俺がいなければどちらかを通せ」
『道の駅』は来春開店に向けて準備を始めたばかりだ。フライ・ハイムの仕事が増えることになりそうだから、もうすぐ合流するダヴィデを加えて役割分担を見直した方がよいかもしれない。
忙しいながらも楽しいことがいっぱいの予感で胸を膨らませる私は、フルーテガルトが今、台風に見舞われていることを知らないのだった。