エルヴェシュタイン城
「うっわあ、広かあ……」
テオの歓声が静まり返った城に響く。
エルヴェシュタイン城はヴィーラント陛下が狩りや宴を楽しむために建てた城だ。以前ギルベルト様も言っていたが、普通の城と違って武器庫や砲門など、戦のための城の装備というものが一切ない。
城門をくぐると正面に庭があり、右手に2つ左手に1つ建物があって奥に本館がある。城門自体も建物になっており、左右の建物と本館は外に出ずに行き来ができる。本館は正面の庭から広い階段を上り、2階が入り口という作りになっていた。
本館よりも手前にある建物は、入り口から見て右手が南側、左手が北側となるため、便宜的に南1号館、南2号館、北館と私たちは呼んでいる。
この城ときたら呆れるほど広くて、北館だけを見ても1階につき20部屋ほどあって3階建てだ。南館の2つの建物は、間に正面の庭から続く庭園があり、それぞれ独立した屋敷としての機能を持つ建物になっていた。
「私たちが使うにはちょっと広すぎるのです。事務所は入り口に一番近い南1号館を使っています」
本館まで歩くのがしんどいとも言う。実際、城門から入り口に繋がる階段までで100メートル近くはありそうだ。
本館の中はざっとだけど確認してある。1、2階には調理室や執務室っぽい部屋があり、3、4階は吹き抜けの玉座の間や、おそらく王族が使っていたであろうやたら豪華な装飾が壁に施された部屋があり、どの部屋も壁の日焼けを防ぐためかカーテンがぴっちりと閉められていた。
ホールは最上階の5階にある。外側をぐるっと廊下で囲んだ窓のない作りになっていて、廊下の上が柵を巡らせた観覧スペースになっている。ホールのステージの裏側には控室のような部屋もあった。
椅子も何もなかったため実際のところは不明だが、観覧スペースを除いても座席をぴっちり並べれば200人は入れそうな小ホールだった。手を叩いて確認してみたところ、残響時間が2秒以上あったので、椅子や人が入ってもそれなりに響くだろう。
「とりあえず、使う場所だけ見ましょうか」
そう言って私は南1号館の鍵を開ける。入口を入ってすぐに階段があり、階段の両脇の通路を抜けると、2つの部屋が並んでいる。この2つの部屋は南側に面しており、共に広い部屋であるため、ここをレッスン室として使う予定だ。
入り口に戻って左手側に厨房と居間らしき部屋があり、右手側には部屋が2つ。居間を事務所として使う予定で、すでに大きな作業テーブルと椅子を運び込んである。
「右手側の部屋は応接用に使う予定で、2階は資料室や倉庫にするつもりなのですが、私が音楽を聞きながら楽譜を起こしたりするから、そのための書斎は2階にしようかと考え中です」
「まだ家具は入らんの、ですか?」
「そうですね。応接用の家具はどこかから調達しないといけませんね。あとレッスン室もですね」
アロイスやクリストフに聞いたところ、レッスン中は家族が一緒に来ることも考えられるので、応接と同じようにレッスン室にもソファを置いた方が良いだろうと言われたのだ。
「本館を使わんのはもったいなかです」
「ふふ、いずれは使いたいって思ってますよ」
テオに椅子を勧めて、これからのことを説明する。
「アマリア音楽事務所は、3つが基幹事業です」
「演奏会と、執筆と、レッスンやね」
「そう。当面は演奏会の準備をしなければなりませんが、出来れば秋のうちにレッスンも始めたいのです」
「アマネしゃん、近々王都に行くって言うとりましたね。そん時に営業してきたらよかですもんね。なら僕はちくっと開校スケジュールば立ててみます」
おお、こっちから指示しなくても動いてくれるとは心強い。レッスンについてはテオに任せて、私はユリウスからもらった即位式の資料を広げた。
資料を見ると会場は大聖堂と記されている。宗教色の強い儀式であるようだ。使用する曲のリストはファンファーレ、鼓笛隊の行進曲、合唱曲、参列者の入場曲、新王の入場曲、即位承認時の曲、戴冠の曲…………随分と多い。合唱曲は聖歌である可能性が高いので、ユリウスにもらった前回の楽譜を確認したいところだ。
取り急ぎ、依頼があった新王の入退場の曲について、元の世界の音楽を使えないか考えてみる。確かヘンデルがイギリスで戴冠式の音楽を作っていたはずだ。タブレットの音楽ソフトを起動する。ちらっとテオを見ると、集中して紙にあれこれ書き込んでいるようだ。
どうやらテオは私と同じように、集中すると周りが気にならなくなるタイプのようだ。さっきはあれほど興奮したタブレットを使ってもはしゃぐどころか見向きもしないのがよい証拠だ。
これなら大丈夫そうだと考えて再生ボタンをタップする。
ヘンデルが作った戴冠式の曲は、4曲からなる『ジョージ2世の戴冠式アンセム』だ。アンセムというのはイングランドの国教会に属するキリスト教の教派での教会音楽だったと記憶しているが、相変わらず宗教に疎い私なのでその辺りはあやふやだ。
4曲の中の第1曲目『司祭ザドク』は、現在の戴冠式でも演奏されており、戴冠式以外でも単独で演奏されることが多い。どこかのサッカーリーグのテーマ曲に『司祭ザドク』のアレンジ曲が使われていたはずだ。
私のタブレットに入っているのもこの第1曲目のみで合唱曲だった。歌詞は旧約聖書におさめられた伝記だったので、この曲を使う訳にはいかないだろう。
葬儀の時は一任というか丸投げされたし、一曲だけだったということもあり、歌詞付きの楽曲にしたが、今回は使用する曲数が多い中で一曲だけの依頼ということなので、おそらく他に依頼されている指揮者や作曲家がいるのだろう。
「……っん、冷たっ! ……あれ? ユリウス?」
「テオとまゆり嬢が困ってたぞ」
「え、まゆりさんも? いつ来たんだろ? 気が付かなかった……」
キョロキョロと周りを見回すと、辺りは夕暮れの気配が混じり、テオもまゆりさんもいない。
「先に帰した。これを見られるわけにはいかないからな」
そう言ってユリウスは、先ほど私の頬に当てた氷を窓から外に放った。
「魔力を使ったんだ? 氷よりも果物の方が良いんだけど」
「贅沢を言うな」
文句を言い合いながら、机の上を片付ける。
「ごめんね。迎えに来させちゃって」
「謝罪ではなく礼を言え」
「うん。ありがと」
つい謝ってしまうのは日本人の癖だ。
「縁談の返事はまだ書いていないのか?」
「うん。個人的なことだし、仕事とは別にしておきたいもの。今晩やるよ」
ラースの結婚祝いも夜にやるつもりだ。
「アマネ、本館のバルコニーに行ってみないか?」
帰り支度をしていると、ユリウスが珍しく寄り道を提案してきた。
「いいね。今日はお天気がいいもんね。綺麗な夕日が見られるかも」
ユリウスの提案に乗り、鍵束を持って本館へ向かう。城の中は家具や調度品は王都へ持ち帰ったのか空っぽなのだが、何かが住み着いたりしないように施錠してあるのだ。
広い階段を上り、入り口に着く頃には、白い外壁がうっすらと朱色になり始めていた。少し気温が下がったのか足元がすうすうして寒い。
がしゃがしゃと入り口の扉を開けて中に入り、近くの階段を上っていく。
バルコニーは4階にあって、入り口の広い階段に屋根のように張り出しており、前庭に面している。運動不足の私は4階に着く頃にはぜいぜいと息が切れていた。だが、こんなに息が切れているというのに、足元は相変わらず寒くて膝ががくがくと震えるほどだ。
「ユリウス、待って……なんか、変…………」
「どうした? 歩けないのか?」
「や…………なんか、怖い……?」
バルコニーがある部屋に入り、ユリウスが窓のカーテンを開けて外が見えるようになった頃、自分の異変にようやく気が付く。足が震えているのは怖いからだ。高いところにいることが異様なほどに怖い。
「なんだ、高いところが苦手なのか」
「そんなことはなかったはずなんだけど…………」
私は高所恐怖症というわけではないのだが、なぜこんなに高いところが怖いと感じてしまうのか。
「あ……ひこうき…………」
上手く歩けずにカクンと膝から崩れそうになった時、『落ちる』感覚を思い出した。
「ひこうきとはなんだ?」
「空を飛ぶ乗り物。元の世界の。私、それに乗ってたんだけど、その乗り物が落ちてこの世界に来たんだと思う」
ユリウスは眉間に皺を寄せたが、考えてもよくわからなかったのか、大きなため息を吐いて手を伸ばしてきた。
「怖いならば支えてやるから」
「で、でも、外、見るの、こわいいぃぃ」
「情けない声を出すな。お前はしがみ付いていろ」
そう言うならばと遠慮なく両腕をユリウスに回してしがみ付く。外を見るなんて無理だ。何も視界に入れたくなくて、目をぎゅっと瞑ってユリウスのジャケットに顔を埋める。カタン、と窓を開ける音がして全身が震え上がった。
「ほら、顔を上げてみろ」
「いいいいやだ…………落ちるよ……怖いよ……」
「フ……そう簡単に落ちるはずないだろう。少しだけ目を開けてみろ。陽が沈んでしまうぞ」
ユリウスが笑う気配がしがみ付いた腕越しに伝わり、恐る恐る目を開けていく。ふいに、あの遠くの鐘のような歌声のような音が聞こえてきた。
「あ…………すごい……きれい……」
朱色と紫色が混ざったような空が、色付き始めた山々と共にエルヴェ湖にそっくりそのまま写っている。
「怖くないか?」
「怖いけど……でも、きれい」
「だろう? フルーテガルトの街はこちらだ」
ユリウスが体の向きを少しだけ変えると、眼下に街が広がった。ぽつぽつと灯りが見え、煮炊きの煙が家々の煙突からうっすらと空にとけていくのが見える。
町全体をこうして見るのは初めてだが、思っていたよりも規模が大きい。少しずつ増えていく灯りに、ここにたくさんの人が住んでいるんだなと実感する。
正直な話をすると、足どころか腰が砕けそうなほど怖い。体の震えが伝わったのか、腰を支えるユリウスの腕に力が籠ったのが伝わってきてほっと息を吐く。
「ヴィーラント陛下が宴を催す時は、エルヴェ湖で花火が打ち上げられていたな。宿屋街は遅い時間まで灯りが点いて、この城にはたくさんの馬車を置くところがないから貸馬車屋は行列が出来ていた。子どもは寝ないし危ないしで街の女たちは怒っていたが……」
「ユリウスは、そんな街が好きだったんだね」
「そうだな。それに、街が変わっていくのが小気味よかった」
エルヴェシュタイン城が出来る前と後では、街の様子も違ったのだろう。
「私も見たかったな」
「お前が街を変えればいいだろう?」
「ユリウスもだよ。街のみんなも。一緒に変えていけばいいんだよ」
一人で出来ることは限られる。みんなが少しずつ頑張れば、きっと少しずつ良くなる。救貧院のことで私が悩んだ時にユリウスが教えてくれたことだ。
「そうだな」
ユリウスが小さく笑ったのが伝わってきた。