追放された音楽家
9月に入り、劇場でオペラが上映されることもあり、合奏および合唱の練習は午前中に行われるようになった。
練習場所は大聖堂ではあるが、劇場に所属する演奏家や合唱隊もいるためだ。
火事で炭になった衣装は、王宮側が負担して律さんが作って納品済みだ。最近の律さんはシルヴィア嬢の衣装も作っているようで、王都では人気急上昇中の針子であるようで、劇場の支配人にも大層喜ばれた。律さんのことだからえっちな仕掛けがあったり、露出がすごかったりするのではと心配したが、全くそんなことはなく素晴らしい衣装だった。
そんなこんなで午後に時間ができた私だが、遊び歩く暇もなく慈善演奏会で弾いた『幻想即興曲』を上級者向け曲集の第二弾として印刷に回すべく、楽譜起こしに精を出す日々だ。
ちなみに『英雄のポロネーズ』を含む曲集はすでに売りに出されているのだが、ピアノがまだ販売されていないというのに売れ行きが好調で、重版することになった。慈善演奏会で得をした形で、なんか申し訳ない気分だったりする。
もう一つ私が急ぎでやらなければならなかったのは、家庭教師の依頼に対する返信だ。おもしろいと言っていいのかわからないが、私への依頼は商人や貴族の男性が多かった。
そういうものかと思ってアロイスに聞いてみれば、アロイスのところへは女性からの依頼が殺到しているらしい。
私の方は全て一旦保留ということで返事を書いているが、アロイスは午後をお試しレッスンに費やしているようだ。
「クリストフのようにはなりたくありませんから。身持ちの固い女性かどうかを確認しなければ」
アロイスの言う『お試し』とは、生徒側ではなく教師側の『お試し』であるようだ。
悪い例に挙げられたクリストフだが、彼のところにも家庭教師の依頼が多少なりともあるらしく、周りが女性の家庭教師は止めろと必死に引き止めているとかいないとか。
「アレは女に見境がないのです。婚約者に裏切られた経験があるので同情の余地はありますが」
とはアロイスの弁。クリストフとアロイスは、ライナー時代から仲が良かったらしい。アロイスもクリストフにだけは自分がライナーであることを打ち明けたそうだ。
「あの男は酒でも付き合ってやらないと、すぐに女に走りますから」
呆れつつも見放せない男の友情というやつだろうか? アロイスからクリストフの話を聞くにつけ、私の中のクリストフがどんどんダメンズになっていくのだが、私はダメな男に惚れる質ではないので特に問題はない。
そうして何日か過ぎた頃、王都支部にケヴィンが帰ってきた。
「テンブルグはともかく、ヴァノーネは暑かったよ」
夏真っ盛りの移動だったせいか、ケヴィンはだいぶ日に焼けていた。
「テンブルグからヴァノーネへ抜けるにはいくつかルートがあるんだけど、僕が今回通ったのは山道でね、途中で海が見えたんだ」
「海! いいなあ。夏だし、海が見たいなー。ヴァノーネって海に面してるの?」
「そうなんだよ。海まではいかなかったけど」
「ノイマールグントの北は海に面しているぞ」
それは初耳だ。海水浴みたいな文化はあるのだろうか?
「海水浴? 海で泳ぐのか? 聞いたことないな」
「北側はユニオンの勢力が強いから、あまり行ったことがないしね」
以前、旅行や観光の習慣がないとザシャに聞いたことがあるが、やはり海水浴もないようだ。
「リパモンティ子爵は実在したよ。出奔したという三男に宿屋で偶然会ったんだけど、イザークのことは知らないって言ってた」
「やっぱり嘘だったんだね。でも実在したっていうことは、何らかの繋がりがあるのかな?」
「どうだろうね。ヴァノーネではユニオンの者も見かけたけれど、たぶんあれは穏健派だと思う」
前にケヴィンがカミラにヴァノーネで会ったという話をしていたが、カミラとゲロルトって揉めたりしているし、もしかして仲間ではないのだろうか?
「ふむ、アロイスに確認したほうがいいな」
アロイスはユニオンの穏健派から融資を受けていたし、そこを通じてゲロルトの仲間になったそうだから、何か知っているかもしれない。
「そういえば、ヴァノーネってお風呂の文化があるんだよね? レオンが言ってたよ。ヴァノーネのお姫様がヤンクールで広めてくれるといいなって」
「ああ、ヴァノーネも水が豊富なんだ。それに湯治場があるんだよ」
「湯治場って、もしかして温泉? うわーっ、行きたいっ!」
温泉と聞けば行きたくなるのは日本人ゆえだと思う。まゆりさんや律さんも誘って、温泉旅行に行きたいなあと思いを馳せる。
「ノイマールグントの南西にも湯治場はあるが、今はヤンクールの影響が強かったな」
「うん。ヴァノーネにもそっちからヤンクールの物資や情報が入ってくるみたい」
「テンブルグはどうだ? ヤンクールやユニオンの影響はなかったか?」
ユリウスはやはりユニオンのことが気になるのだろう。
「テンブルグは大丈夫。ヤンクールのこともユニオンのことも警戒しているからね。なかなか入り込めないと思うよ」
「テンブルグとヴァノーネの関係はどうだ?」
「悪くはない。でもヴァノーネの姫君がヤンクールに嫁いでしまったからね。それでテンブルグも警戒を強めているという感じだね」
国同士の情勢ってよくわからない私だが、テンブルグがノイマールグントの一領地であることは知っている。
「テンブルグってノイマールグントの大領地だよね?」
「そうだが、王族と同等の力を持っている。今の領主はノイマールグントをまとめるのが先決だと王族を立ててはいるが、ヴァノーネと手を組めばノイマールグントを手中に収めることも可能だろうな」
「そんなに強い力を持ってるんだ? でもユリウスの私設塾を見に来てたのもテンブルグだったよね?」
「あそこは教育にも熱心だ。良い人材が豊富だから領地としての力も増す一方だ」
ユリウスによればテンブルグにはアカデミーのような大学もあるらしく、大学に入る前に学ぶ中等教育についてユリウスの私設塾を参考にしたいようだ。
「そうだ。兄さん、ピアノの話をテンブルグで聞かれたよ。スラウゼンのスプルースのこともね。買い取りたいって」
「グレナディーラやプラターネの値を下げてもらえるならば問題ない」
木管楽器の木材はテンブルグ経由で仕入れていると聞いている。グレナディーラは主にクラリネットやオーボエなどで使用され、プラターネはバスーンで使われている木材であるらしい。またプラターネはヴァイオリンでも使われているようだ。
「それは言ってあるよ。ただピアノのフレームや弦のことを聞かれて困ったよ。詳しく知らないって言ったんだけどしつこくてね」
「ああ、慈善演奏会でもテンブルグの商人はしつこかったな」
「そういうわけで、数台注文が入ったから」
中を見れば仕組みはわかるだろうから、手に入れた後は開発が進められるのだろう。ピアノの楽譜をもう少し起こしておいた方がよいかもしれない。
「アマネ、リーンハルト様からも注文が入っている。アンネリーゼ嬢の家庭教師の依頼もあっただろう?」
「うん。保留で返事を出したけど?」
「招待状が来ている。例の家庭教師がどうしてもお前に会いたいそうだ」
どうやらリーンハルト様もぜひ会ってくれと言っているらしく、断れないようだ。日時は急だが2日後で、バウムガルト伯爵邸にぜひ来てほしいということだった。
「俺はその日は行けないが、アマネ一人で行かせるわけにはいかない。ケヴィン、行ってもらえるか?」
「任せて。流石にアマネちゃん一人じゃ心配だものね」
ケヴィンは私とアンネリーゼ嬢のあれこれを知らないはずだが、ユリウスが言う『一人で行かせるわけにはいかない』を別の意味で解釈したようだ。
アンネリーゼ嬢の家庭教師は確かベルノルトという名前だった。楽典に興味を持っていたとリーンハルト様から聞いているので、私もぜひ話を聞きたいと思っていたのだ。
ベルノルトは王宮にいたのだからヴィーラント陛下の話や宮廷道化師の話も聞けるかもしれない。2日後を待ち遠しく思った。
◆
「なるほどなるほど、この記号で調が変わるのだな。記号が多くて煩雑なように見えるがよく見ればとても理にかなっておる。曲を作る立場としてはいちいち文字を書き込む必要がないからして…………」
ベルノルトはアンネリーゼ嬢が称したように、とてもおしゃべり……もとい、話し好きな男だった。年のころはパパさんと同じくらいの40代半ばくらいだろうか。
「それで吾輩は五線譜のことを隣国の知己に手紙で教えたのだがな、詳しく知りたいと言っておるのだ。だが吾輩はこの通りバウムガルト邸から出られぬ身。どうしたものかと思いリーンハルト殿に相談したところ渡り人殿に話してみてはどうかと言われ…………」
いったいどこで息継ぎをしているのか、ベルノルトは延々と話し続ける。困ってリーンハルト様を見れば、にっこりと笑顔を返された。どういう意味なんだろう?
「そういえば渡り人殿はこのような話を聞いたことがあるかな? 『人類の救済者』を名乗るある男が薬を売り歩いておってな、その男ときたらやたらと口上が巧みで眉唾物だと思ってもつい買ってしまうほどであるらしいのだ。それである時男の元へ一人の若者が訪ねて『惚れ薬』を依頼したそうで……」
「ベルノルト殿、私の姫君を呼んできてもらえませんか? 渡り人様にお会いしたいと痺れをきらしているでしょうから」
ベルノルトが話し続けて半刻程経った頃、ようやくリーンハルト様はベルノルトの話を止めてくれた。ベルノルトがアンネリーゼ嬢を呼ぶために部屋を出ていく。
「アマネ殿、折り入ってお願いがございます。あの男を引き取っていただけませんか?」
「はい? 引き取る? え、私がですか?」
勘弁してほしいものだ。あんなおしゃべりマシーンを引き取るなど、ユリウスの雷が落ちる未来しか思い浮かばない。
「あの男、しゃべり続けるだけならばまだ許せたのですがね。こともあろうに女をこの家に呼ぶようになりまして。私の姫君の教育に悪いでしょう?」
「まあ、そうですが……」
アンネリーゼ嬢のためと言われれば私も弱いのだが、うちにだってマリアといういたいけな少女がいるのだ。ここで負けるわけにはいかない。
「そうですか……クレーメンス様が遣わしてくださった者なので、こちらとしても追い出すわけにはいかず、困っているのです。勝手に出て行ってくれる分には問題ないのですが」
リーンハルト様は腹に据えかねているらしく、忌々しげに言う。
「ご本人も外に出たいような口ぶりでしたし、そのうち出ていかれるのでは?」
「それを期待するしかなさそうですね」
リーンハルト様が肩を落とした時、アンネリーゼ嬢が入室してきた。
「渡り人様、先日の演奏会、わたくしは感動いたしました。ピアノが届くのが待ち遠しいです」
「アンネリーゼ様、今日はお土産があるのです」
そう言って私はピアノの練習曲集を手渡す。アンネリーゼ嬢のチェンバロの腕前がいかほどなのか知らなかったので、中級も上級も、そして楽典も持ってきたのだ。
「まあ、ありがとうございます」
アンネリーゼ嬢は相変わらず可愛らしいなあ。ほっぺたを真っ赤にして喜ぶ姿を見てニマニマしてしまう。
「おやおや、私の姫君を誘惑しないでください」
「誘惑だなんて……リーンハルト様はピアノにご興味はございませんか? アンネリーゼ様に素敵な演奏をプレゼントされてはいかがです?」
「それは良い考えですね。慈善演奏会ではヴァイオリン演奏でご令嬢たちのハートを独り占めにした者がいると伺いました。リーンハルト様もピアノでアピールされてはどうでしょう?」
冗談だとは思うが、まだそのネタを引っ張るのかとうんざりしたので少し煽ってみると、ケヴィンが乗ってくれた。
「ああ、アロイスという演奏家ですね。よい音色でしたが、少し音が小さいように感じました」
リーンハルト様はよい耳をお持ちのようだ。私はここぞとばかりにアピールしてみる。
「実はヴェッセル商会ではヴァイオリンの改良もしておりまして、改良後のヴァイオリンは広いホールでも美しく大きな音を響かせることができるのです」
「ほう、それは興味深いですね。ひょっとして道化師が言っていたのはそのヴァイオリンの演奏ですか?」
「さて、どうでしょうか? あの方の前で演奏した覚えがございませんので、どこかで聞きかじったのでしょう」
興味は持ってもらえたようだが、道化師の話になってしまって少し焦る。リーンハルト様は私の様子に気付かずに話を続けた。
「ところで家庭教師の件ですが、保留というお返事をいただきましたが、やはり慈善演奏会の後で話が出た協奏曲の問題があるのでしょうか?」
「そうですね。それもありますが、葬儀が終わったら、私は一度フルーテガルトに戻るつもりでおります」
いろいろ考えた結果、パパさんやデニス、そしてレイモンにもマリアを会わせたいということもあって、一度はフルーテガルトに戻ろうと私は考えていた。
「それは寂しくなりますね。お父様も今は領地におりますから……」
アンネリーゼ嬢の言葉に目を瞬いた。
「バウムガルト伯爵はスラウゼンにいらっしゃるのですか?」
「ええ。お食事をあまり召し上がらなくなってしまって、慣れた場所でゆっくりお休みになられれば戻るのではないかと思うのですが…………、心配なのです」
瞳を揺らすアンネリーゼ嬢の手をリーンハルト様が握ると、アンネリーゼ嬢も気丈に微笑んだ。バウムガルト伯爵のことは心配ではあるが、リーンハルト様が付いていらっしゃれば心強いだろう。
リーンハルト様はアンネリーゼ嬢よりも12歳も年上だが、暖かく見守る様子は兄のようでもあり、父のようでもある。それでいて私に妬いて見せるのだから、ちゃんと愛情もあるのだろう。
リーンハルト様は少し過保護気味なような気もするが、アンネリーゼ嬢のこれからを思えばそれくらで丁度いいのかもしれない。
私は2人の睦まじい様子に胸を撫で下ろし、バウムガルト伯爵邸を後にした。