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作曲の報酬

 カスパルと出会った翌日の午前、私はユリウスの部屋に呼び出された。


 部屋に入るとマルセルがいて驚く。


「ラースに話を聞いた。葬儀後に説明するつもりだったが、繰り上げることにした」


 そう言ってユリウスはマルセルに目配せをする。マルセルは私に紐で閉じられたそれほど厚くはない紙束を渡してきた。


「アマネ様に関する帳簿です。旦那様の指示で商会とは別に管理しておりました」


 驚きながら目を通す。


「こちらは楽典の執筆料です。他の曲集に関してはこちらです。アマネ様の場合は、執筆料だけでなく売上の半分をお渡しすることになっておりますので、楽典に関してはこれが該当しますね」


 マルセルが一つ一つを説明してくれる。


「葬儀の曲の執筆料も、すでに王宮から支給されております。これとは別に演奏後に指揮の報酬が入る予定です」

「え、こんなに……?」

「仮にも王の葬儀だ。国庫が豊かではないから、それでも多いということはないぞ」


 今度はユリウスが説明してくれる。


「劇場の主演歌手や上級役人はその2倍の額を1年で稼ぐ」


 葬儀の曲の報酬として帳簿に記載されているのは1,000フロルだ。葬儀後には指揮の報酬が500フロル入るらしい。


「貴族の年収は50倍です。それを考えれば決して多くはありません」

「でも前にデニスさんに聞いたんですけど。一般的な民の年収は150フロルくらいだって」


 今度はマルセルが教えてくれる。


 フルーテガルトで寝込んでいた時には、デニスがこの世界のことを教えてくれた。動けるようになってからも、買い出しに連れて行ってくれて、食料の値段はこのくらい、衣服はこのくらい、というように教えてくれたのだ。


 一般的な民の月給が12フロルくらいで、それで1ヶ月を過ごすことを教えてもらったのもその頃だ。それに比べたら1,000フロルというのはびっくりするほど多いのだが、貴族の年収が50倍だとしたら…………いくらだ? 電卓が欲しい。


「月で換算するなら、貴族の場合は4,000フロル以上だな。お前が同じ特権階級で、曲を作って演奏するまでにかかった時間を考えれば全く少ないぞ」


 さすが商人。計算が早い。しかし貴族ってそんなに稼ぐのかと驚いてしまう。


「宮廷楽師とか劇場の演奏家ってどのくらいなんだろう?」

「どちらも下級役人と同じくらいと考えて良い。民より少し多い程度だ。その代わり、楽器や楽譜などの費用は経費として劇場や王宮が負担する」


 技術を得るまでにかかったであろう時間や費用を考えれば、思ったよりも高い年収ではない。ただ経費が雇い主持ちなのはかなりありがたいだろう。


「家庭教師ってどのくらい?」

「通いの場合は1回あたり5フロルが相場です。経費は自分持ちになりますので、それほど多くはありませんね」


 実際に家庭教師をやっていたマルセルが教えてくれる。結構少なくて驚く。1ヶ月に換算すれば毎日生徒に教えても150フロル。普通の民の年収に相当するが、経費は自分持ちだ。それに毎日呼んでくれるような上客など滅多にいないだろう。


「1人の子どもに毎日家庭教師をつけても150フロルなんですか? 貴族の月収を考えたらもっと出してくれたらいいのに」

「垣根を上げるのは良くないだろう? 生徒は貴族だけではない。現に宮廷楽師に貴族はほとんどいない。民が習うことを考えれば5フロルは大金だぞ」


 宮廷楽師や劇場の演奏家たちは、子どもの頃は教会に通ってオルガン演奏に親しむ。そこでさらに勉強したいと思えば、領主に補助を願い出るそうだ。領主の眼鏡にかなえば援助してもらえるのだという。


 ベートーヴェンの父親は宮廷歌手だった。幼い頃は父親がベートーヴェンに音楽を教えたようだが、教える才はあまりなかったらしく、後に仕事仲間である宮廷楽師たちがベートーヴェンに音楽を教えた。


 ベートーヴェンの父親は宮廷歌手とはいえ、収入のほとんどを飲み代に使ってしまう飲んだくれだったし、ベートーヴェンは3兄弟の一番上だ。もしかすると無償で教えてもらっていたのかもしれない。


 子どもたちの才能を見出すような仕組みがあればいいのに。ユリウスの私設塾を思い浮かべてみる。あそこは12歳よりも上の子どもたちが対象だ。もっと幼いうちから見いだせればよいのだが……。


「帳簿をお前が管理したいというのであれば任せるが、お前は楽譜を起こし始めるとそういったことが疎かになるだろう。俺としてはこのままマルセルに任せるか、誰かを雇うことを勧める」

「うっ、確かに…………」


 昨日のカスパルの様子を思い出す。自分があんな風に周りにまったく気が付かずに楽譜を書いているのだとすれば、任せるのが心配になるのも頷ける。


「ちょっと考えてもいいかな? 心当たりがあるんだけど……聞いてみないとわからないから」

「心当たりとは誰のことだ?」

「まゆりさん。彼女、元の世界で銀行に勤めてたんだって」


 帳簿を見れば、数人雇うことは出来そうではある。だがまゆりさんはフライ・ハイムの調理兼給仕もしている。引き抜くことができるのかわからない。


「フィンが手放すかわからんな。俺からも話をしておこう」

「うん。ところで、私やマリアの生活費って、この帳簿には書かれてないよね?」

「こちらにございますよ」


 マルセルがもう1つ帳簿を手渡してきた。


「こちらの帳簿のこの出費が、生活費の帳簿の収入になります。生活費の帳簿から必要な物を差し引いておりますが、食費などの細かい部分は計算しにくいので、支部の寄宿料として一括で引いております」

「あ、ほんとだ。衣装代もありますね」

「アマネ様は食事の量が少ないですし、マリアさんはミアの子のおさがりが使えましたから、ほとんどかかっておりません」


 居候じゃなかったんだと安心する。フルーテガルトの生活費はデニスに確認しなければわからないようだが、とりあえずは寄りかかってばかりというわけではないようだ。


「でも護衛の費用は引いてませんよね?」


 そう言うと、マルセルは困ったようにユリウスを見た。ユリウスはそんなマルセルを下がらせて説明してくれた。


「ゲロルトの迷惑料だと思え」

「迷惑料? だって、本当は私が護衛を雇うべきでしょう?」

「ゲロルトが狙っているのは俺であり、ヴェッセル商会だ。お前は巻き込まれたに過ぎん」


 確かにその通りではあるが、ゲロルトたちが逃げた後もラースは私の護衛をしてくれている。


「アマネ。お前の意思をなるべく尊重したい。だが、俺もお前の役に立っていると実感したいのだ。出来ることならば俺がずっと張り付いていたいくらいだ」

「私、ユリウスには甘えてばっかりだと思うんだけど……」

「もっと甘えていい。お前は聞き分けがよすぎる。物も欲しがらない。お前からの頼み事など数える程度だ。守るぐらいさせろ」


 そんなこと言われても。ユリウスは私の庇護者だが、恋人というわけではないのだ。ユリウスのことは大好きだし、ずっとそばにいたいと思う。いずれそうなれたらいいなという気持ちが無いと言えばうそになるが、今は何も約束できない。


「ラースもケヴィンも、お前を実の妹のように思っている。妹を守るのに金を取る兄はいないだろう?」


 ケヴィンは私よりも年下だけどね。だが、そうまで言われてしまうと私も折れるしかなかった。


「ケヴィンっていつ帰ってくるんだっけ?」

「5日後だ。今回はテンブルグ経由でヴァノーネまで行ってもらったから、長くなってしまったが、葬儀までは支部にいさせるつもりだ」


 木管楽器に使う木材をテンブルグから仕入れているのは前に聞いた。


「ヴァノーネには? やっぱり仕入れ?」

「それもあるが、ユニオンとの関係を探ってもらっている。イザークはヴァノーネの貴族の家庭教師という触れ込みだっただろう? ヴァノーネとゲロルトの繋がりがないか調べておいた方がいい」

「ケヴィンひとりで? 危険はないの?」


 ゲロルトの名前が出たことで心配になって聞けば、ケヴィンはテンブルグの文官と共にヴァノーネ入りしたという。


「テンブルグもユニオンの動きを探っている。ルイーゼもそうだろう?」

「ゲロルトはアレだけど……ユニオンって、そんなに危険視する存在なんだ?」

「小領地との癒着が気になるのだ。ガルブレン様も言っていたが、一つ一つは大した力もないが、纏まってヴァノーネやヤンクールを味方に付けられると困る」


 そういうものか。そういえば、ヤンクールの風呂好きな王妃はヴァノーネから嫁いだとレオンも言ってたっけ。


「ヤンクールって、シルヴィア嬢やヴィルヘルミーネ王女が嫁ぐんだよね?」

「そうだな。ヤンクールの王族は他国と姻戚を結んで、その国の王位継承に口を出すからな。エルヴィン王子はまだ若い。次代が誕生するのはしばらく先になる。倒れられたらヤンクールが口を出してくる可能性が高いから注意が必要だ」


 エルヴィン王子はまだ15歳だ。王妃も決まっていない。ヴィルヘルミーネ王女が嫁ぐ先はヤンクールの王弟だという。婚姻自体は1年後ではあるが、もしヴィルヘルミーネ王女に男の子が生まれて、エルヴィン王子に子がいないまま亡くなることがあれば、ヤンクールが王位継承に口を挟むのは必須だという。


「クレーメンス様は?」

「万が一があれば……いや、ないな。クレーメンス様は王にはならないだろう」

「どうして? ガルブレン様も推していたんでしょう?」

「ガルブレン様がご存知かどうかは知らないが…………」


 ユリウスは何か言い難そうに口籠った。


「口外するなよ。俺も師ヴィルヘルムが口を滑らせたのを聞いただけだから詳しくは知らん。クレーメンス様は先々代の王の非嫡出子らしい」

「正式な王族ではないってこと?」

「そういうことだ。だが先代の王とクレーメンス様の兄弟仲はよかった。王妃も度量の広いお方だった。クレーメンス様が非嫡出子であることは秘され、王族と同等に扱っていたからガルブレン様の奥方はご存じないのかもしれない」


 ガルブレン様の奥様は先代の王の末の妹君だ。


「クレーメンス様が独り身を貫かれたのも、継承争いを避けたかったのだろうな。選帝侯が決めるとはいえ、争いがないわけではない」

「だからクレーメンス様は推されても王位に就かないんだ?」


 ケヴィンがクレーメンス様は王位を継ぐ気がないと言っていたのを思い出す。


「本当にヴィーラント陛下の早世が惜しまれる。ご存命であればヤンクールに口出しされることを恐れる必要もなかったというのに」


 ゲロルトはヤンクールの大手の商家と手を結んだとケヴィンに聞いた。その商家がヤンクールの王族と繋がりがあって、ノイマールグントの王位を狙う布石というのは考えすぎだろうか?


「ユリウスはヴィーラント陛下にお会いしたことがあるんだよね?」

「ああ。何度かな」

「フルーテガルトの書斎にあるボタン……ヴィーラント陛下の、だよね?」

「気付いていたのか」

「そりゃあ、王家の紋章が入っていたし」


 ユリウスの書斎に初めて入った時、机の上にあった小さな箱。その中に王家の紋章入りのボタンが入っていたのだ。その時は綺麗なボタンだなと思っただけだったが、王宮に出入りしたり、慈善演奏会で実際に王族の方々に会ったりしていれば、その紋章の意味に気が付く。


「初めてお会いした時にもらったのだ」

「ユリウスが10歳の頃だよね?」

「陛下はまだ7歳で、エルヴェシュタイン城はまだなかったが、大きな領主館があってな。そこで王家主催の狩猟大会が行われたのだ」


 その頃、フルーテガルトはすでに王領地だったが、以前の領主が使っていた領主館に手を入れて、時々王族が療養に訪れていたらしい。


 王家主催の狩猟大会は多くの貴族を招いて行われた。ギルベルト様もアーレルスマイアー侯爵と共に、王子の話し相手として参加していた。


 狩猟が終わると宴が始まる。多くの音楽家たちも招かれた。かねてより王子に平民の子を一度見せておきたいと考えていた国王は、街の子どもに演奏をさせるように求めたのだという。


 そこで選ばれたのがユリウスだった。


 10歳の子どもが御前演奏とは、大層な役回りを引き受けたものだが、ユリウスは見事に演奏を成功させ、拍手大喝采の上、ユリウスは王やヴィーラント王子よりお言葉を賜ったそうだ。


「大した内容ではない。以後も励めとかそんな感じだった。だがその後、家に帰ろうとエルヴェ湖畔を歩いていた時、ギルベルト様が声を掛けてきたのだ」


 ギルベルト様は王子が呼んでいると言い、ユリウスを連れ出した。


「俺は気付いていなかったのだが、ジュストコールの袖のボタンが取れていたのだ。王子はそれに気付いたが、皆の前で言っては俺が恥をかくと考え、帰り際に呼んでくれたのだ」


 そうしてボタンが10歳のユリウスの宝物になったのだという。


「王子は自分の袖のボタンをもぎ取ってな、お揃いだといってボタンをくれた。後ろでバウムガルトが困った顔をしていたのをよく覚えている」


 栽培方法の改良の時やエルヴェシュタイン城で行われた宴の時など、ヴィーラント陛下が王となられた後、ユリウスと顔を合わせる機会が何度かあったようだ。


「言葉を密に交わすことは流石にできなかったが、ギルベルト様から陛下のお考えは聞いていたし、陛下も俺の考えをギルベルト様から聞いてもいたのだろうな。共に国を安定させようと……。だが俺はヴェッセル商会を継いで数年でまだ経験も浅かった。理想は掲げても実際に出来ることは少なかった。俺がもっと力になれていれば…………アマネ?」


 たまらなくなってユリウスを抱き締めた。泣いている子どもをあやすようにユリウスが言う。


「すまない。おまえに聞かせるような話ではなかったな」

「ううん。聞きたい。聞かせてくれる?」


 ユリウスはきっとケヴィンやレオンにはこんな話はしないだろう。レイモンには話しそうな気がするが、詳しい話を知っている様子はなかった。


 こんなの、一人で抱えるのは悲しすぎる。


 実際に見たわけでもないのに、ユリウスが語る姿は、まるで難聴に苦悩するベートーヴェンみたいだと思った。


※年収や物価はベートーヴェンの時代(18世紀後半~19世紀前半)のオーストリアを参考にしています。

例)ベートーヴェン交響曲第9番執筆料=600フローリン

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