戯曲作家
「手を繋いだほうが良いですね。私と繋いでくださると嬉しいですが、ラースさんとでも構いませんよ」
アロイスは立ち止まってそう言った。手は差し伸べていない。きっと私が手を伸ばせば受け取ってくれるのだろうけれど、自分で決めて良いと言われているようだった。
私は少し迷ってラースの袖を掴む。アロイスは少し笑って歩き出した。
「貴女は本当にネクタリンみたいだ」
種が固いというあの話か。すみませんね、頑固者で。
建物が密集していて、少し薄暗い路地をアロイスを先頭にして歩く。2人並ぶのがやっとの広さで、誰かとすれ違う時はラースが私に覆いかぶさるように横向きにならなければならなかった。
程なくしてアロイスは足を止め、その建物の扉を開けた。中は暗くて右手に階段がある。ギシギシと音を立ててアロイスが上っていく。
「カスパル、いるか? カスパル?」
返事はなかったが、アロイスは構わず部屋に入っていく。
その部屋は生活に必要な最低限のものしかない部屋だった。
簡素な作りの寝台に薄っぺらい掛布。枕やクッションの類はない。寝台の横にはトランクが1つ。同じく簡素なテーブルの上にはカップと燭台が1つ。そして散らばった紙とペン。
部屋の主はこちらに気付きもせず、一心に何かを書いていた。
「やはりいたか。アマネ様、いつものことなので気にせずお座りください」
気にせずと言われても、目の前にいてこちらに気付かないその人物はどうしたって気になってしまう。
「楽譜を書いている時のお前さんもあんな感じだ」
「え、ほんとに?」
苦笑したラースに促されて椅子に座る。手を伸ばせば届くような位置にいるというのに、部屋の主は気が付かない。
「この男はカスパルと申します。詩人、と言いますか、戯曲を書いています」
アロイスが紹介してくれる。カスパルが書いているのは演劇のシナリオみたいなものであるらしい。もしかすると、カスパルの頭の中では今まさに劇が演じられているのかもしれない。
「実は問題作を書いて故郷で幽閉されまして、逃亡して王都に来たのです」
「逃亡中なんですか?」
アロイスによれば、カスパルとは同郷であるらしい。故郷から逃れたカスパルは戯曲を書きながら逃亡生活を送り、困窮してアロイスを頼って王都に来たということだった。
「私もいろいろありましたので、大した力にはなれないのですが、幸い私の知人にこの男の戯曲のファンがおりまして、その人物が多少の物資を差し入れてくれています」
この部屋には本当に最低限の物しかないが、食事や執筆に必要な紙などを差し入れているという。
「ふぅー、ライナー? …………すまない。気付かなかったようだ。そちらは?」
ようやく一段落したのか、カスパルが顔をあげ、驚いたようにアロイスと私を見た。頬がこけて骨ばった顔つきに見えるが、貧相ではなく、どちらかと言えば精悍な容貌だ。年のころはアロイスと同じ30代前半くらいに見えた。
アロイスが私を紹介してくれて、握手を交わそうとして気が付く。その男はフライ・ハイムの会員だった。
「あの……作品に問題があって現状に至ると伺いましたが、どのような内容なのか伺ってもよろしいでしょうか?」
「ええ。簡単に言いますと、貴族の息子同士の家督争いです。兄の策略によって盗賊に身を落とした弟が復讐を果たすという内容です」
「権力に逆らう犯罪者が英雄のように扱われているのが問題なのですよ」
なるほど。しかしその内容は幽閉に至るほどの罪になるのだろうか?
「あまりにも人気が高かったので。特に若者たちの間では支持されています」
「でも異端という訳でもありませんよね? 幽閉だなんて」
アロイスの説明では、異端ではなくてもこの国に表現の自由はは無いらしい。慈善演奏会で『革命』を演奏しなくて良かった。
「新しいものは古いものの敵です。新時代はいつも旧時代から犯罪視されるものです」
私は目を瞬いた。さすが詩人。おもしろい言い方をするものだ。
「ですが、私は夢に忠実でありたい。夢見ることをやめてはいけないと考えます」
「カスパルさんの夢は何ですか?」
「私の書いたものに恥じない生き方をすることです」
作品には作者の思いが、作者の神が宿るものだ。己の神に恥じない生き方。同じだと思った。私も私に恥じない自分でありたい。
「アマネ様、貴女を悩ませている問題をこの男に話してみてはいかがですか?」
「ですが、初対面の方にお話しするような内容では……」
アロイスは簡単に言うが、さすがに初対面で自分の悩みを打ち明けるのは躊躇われた。どうしたものかとカスパルを見れば、穏やかな顔で私を見ている。
「気軽に考えてはいかがですか? 重荷をいただいた胸は、打ち明ければ軽くなるものです」
カスパルの言葉に私は観念した。心を軽くしたかった。せっかくだから、ユリウスのことはともかくとして、いろんな話を聞いてみたい。
「芸術家は、どうやって糧を得るものなのでしょう」
「貴方は渡り人でしたね。パトロネージュという言葉をご存知ですか?」
パトロネージュ、王侯貴族や資産家が芸術家を支援する、つまりはパトロンだ。
「カスパルさんはパトロネージュを否定されているのでは?」
権力に逆らう戯曲を書いたというから、そうなのかと思っていた。
「そんなことはありません。もちろん私の考えを否定する者に支援されたいとは思いませんが、賛同していただける方ならば、支援をお願いしたいと考えておりますし、今がまさにそうです」
でも、それって自分で生きているということにはならないのではないだろうか?
「私は書くことが使命だと考えます。生きる糧を得るために書くのではない。芸術家にとって作品はそういったものでしょう。少なくともこの世界ではそうです」
「私がいた世界では、芸術は商品でした。消費者……民が自分が好きな物を選択してお金を出して買うのです」
「なるほど。民が豊かなのですね。ですがこの世界の民は、芸術を買うような余裕はありません。私の戯曲を見た者たちも、裕福な者や学生が多かった。学生もまたパトロネージュの恩恵を受けています。学ぶことも研究することも、多大な費用がかかります」
学生や研究者がパトロネージュの恩恵を受けることは、社会の発展に繋がることを考えれば受け入れやすい。だが私がやろうとしていることは果たして社会の発展に繋がるのかと言われると、疑問を感じざるを得ない。
そもそも私は元の世界のあの偉大な音楽たちを広めたいのだ。自分が生み出したものではないのにパトロネージュの恩恵を受けることができようか。
「ライナーが貴方をネクタリンに例える理由がわかりますね」
カスパルにまで話していたとは。というか、ネクタリンに例えたのは道化師だったはずだ。アロイスを睨むと肩を竦めている。すみませんね、意固地で。
「私は歴史書も書いているのですが、歴史は私が作ったものではありませんよ」
「それは……研究ということでしょう?」
「あなたの元の世界の音楽は、この国では研究足りえるものではないのですか? あなたが音楽を伝えることで、この国で新しい音楽が生まれる可能性はありませんか?」
新しい音楽が生まれるなんて考えたこともなかった。でもそうして音楽は発展してきた。ベートーヴェンはバッハやヘンデル、モーツァルトの影響を受けた。そのベートーヴェンが後世の作曲家たちに与えた影響は計り知れない。
「芸術に触発されて新しい芸術が生まれる。私は伝えることにも価値があると思います」
カスパルの力のある言葉に息を呑む。
伝えることに価値がある。その通りだ。私がベートーヴェンの音楽に出会えたのも伝えた人がいるからだ。
ようやく、自分のしたいことに意味が見つけられたような気がした。
「私は自分がしようとしていることを、個人的な趣味とか楽しみのように感じていて、そこに罪悪感を感じていたのだと気付きました」
だからパトロネージュを受け入れがたいのだ。
「貴方は内罰的な方のようなので申し上げますが、高い志向はしばしば子供じみた遊びの中にあるものです。夢見ることをはばかってはいけません」
カスパルの言葉が心に染みていく。
「偉そうなことを申し上げましたが、芸術は結局は受け取る側が好きなように解釈するものです。受け取る側の魂にいくばくかの影響を与える。それが作者の意図するものであるとは限りません。ですがそれこそが芸術の役割だと考えます」
それは私にも覚えのあることだった。自分の意図したように伝わらない場合などいくらでもある。だから作曲者の意図を探りたい、伝えたいという気持ちが強くなって今に至った。それが必ずしも良いことではないことも承知の上だが、そうせずにはいられなかった。
けれど、カスパルの言うことも今は素直に聞けた。カスパルは受け取る側の魂と言ったが、それはきっと私が考える神様と同義だ。自分以外の神様に影響を及ぼす。それは考えてみると恐ろしいことのようにも思えるが、私の神様だってベートーヴェンの影響を受けているはずだ。
私の神様が受けた影響を、他の人の神様にも与える。それは果てしない伝言ゲームだ。伝言ゲームはいつだって正しく伝わらないものだ。けれどそうやってずっとずっと伝わって、何百年も何千年も先の誰かの神様にも何かが伝わる。それってすごいことだ。
「とても有意義な時間でした。また伺ってもよろしいですか?」
「アマネ様、この男は声を掛けても気が付きませんので、鍋を持ってきた方がよいですよ」
「ひどい言い様だな。それに隠匿中の身だから騒音は困る。酒ならば気付くはずです」
おっと、もしかして催促されてしまった? でも、本当に有意義な時間だった。
「また来ていいみたい」
「俺が一緒の時にしてくれ」
隣を見上げて言えば、ラースは少しだけ苦い顔で笑った。
「お前さんが何を悩んでいるのか、俺にはさっぱりわからなかったが……お前さんの音楽はちゃんと周りのためになってると俺は思うぜ」
カスパルの家からの帰り道、ラースが私に向かって言った
「そうかな?」
「大旦那サマが部屋から出てきたじゃねえか」
え、それって、私のせい? ていうか、それカウントしていいの?
「お前がチェンバロを弾いた日だったろうが。ユリウスの旦那はともかく、デニスさんはすげえ喜んでたぞ。それにユリウスの旦那だって、ずいぶんと雰囲気が柔らかくなったっつーか、棘がなくなったっつーか。お前だって最初は怖がってただろ?」
「まあ、そうだったけど……」
いつから怖くなくなったんだっけ? あ、パパさんだ。パパさんがユーくんって呼んだ時かもしれない。
「あまり敵に塩を送りたくはないのですが……」
黙って前を歩いていたアロイスが振り返って言った。
「カスパルが以前言っておりました。愛情や友情は、喜びを二倍にして悲しみを半分にしてくれる、と。あなただけが支えられているわけではないと、私は思いますよ」
アロイスの言葉に以前ユリウスが言ったことを思い出す。ゲロルトがユリウスの従兄であることを知った時だ。
『知ってしまった以上は頼らせてもらうぞ』
私はずるいと返したし、役に立ってる実感なんてこれっぽっちもないけれど、ほんのちょっとでも、ユリウスの悲しみや苦しみを軽くすることが出来ていたらいいなと思った。
※カスパルは第九の作詞者でもある戯曲作家シラーがモデルです。格言をほぼそのまま使用するために話を繋げたので、回りくどい表現になっています。この話の中で使用した格言は5つあります。見つけたらニヤッとしていただければ、笑。
なお、カスパルは第二章以降でも格言込みで登場します。