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合唱練習と怖い顔

「違う違うちがーーーうっ! もっと、もっと声出してください! きれいじゃなくていいから!! もっと!!!」


 音取り用のチェンバロの椅子に座り、レオンはアマネが怒っている様子を眺める。入り口に目を向ければ、いつの間に来ていたのか呆れ顔の兄の顔。


「まだ! もっと!! 天井突き破るくらい!」


 合唱隊の歌声に被さるようにアマネの怒声が響く。表情も睨みつけるように厳しい。


 アマネが怒るのはいつものことだが、自分はなぜここに座っているのか。


 昼過ぎに大聖堂に到着したレオンは、練習にいそしむマリアを見守っていたはずだった。練習の途中でマリアが退席したまではいい。合唱隊の練習がいわゆる膠着状態になったのだ。何度も何度も同じ個所を繰り返すようにアマネは指示し、マリアと合唱隊以外のメンバーは一旦休憩となった。


 マリアに付いて行こうとしたレオンにアマネは言った。


「レオン、音取りして」

「……なんで俺が」

「つべこべ言わないっ!」


 まったく何故自分まで怒られなければならないのか。まあラースが誤って椅子を蹴飛ばした時も「うるさいっ」と怒鳴られていたのだが。


 合唱練習は長時間できない。せいぜい半日程度だ。アマネが言うには「喉では歌わない」そうだが、それでも長時間歌うと声が掠れてしまうからだ。


「休憩にします! 水分、忘れずに取ってください!」


 一旦休憩に入り、アマネがレオンの方に歩いてくる。練習に遅れてきた兄も入り口からこちらに向かってきた。


「あれ? ユリウス、来てたんだ?」

「ああ。あまり大きな声で怒鳴るな。お前が喉を傷めるぞ」

「うー、だって葬儀まで時間がないんだよ!」


 レオンはアマネを見て内心ため息を吐く。アマネは渡り人なだけあって変わり者だ。なんで好き好んで男の格好をするのだか。働きたい、音楽を作りたい、アマネはそう言うが、どうしてわざわざ苦労するようなことをしたがるのか、レオンにはさっぱりわからない。


 さっさとくっつけばいいのに。


 今度は兄を見てため息を吐く。お互いの気持ちなど周りから見れば一目瞭然だ。レオンからすればアマネは変わり者ではあるが、別に嫌っているわけではない。ぼんやりしたところはあるが、そう悪い人間にも見えない。兄がいいならそれでいいというスタンスだ。


 アマネの唸り声が聞こえて来てレオンは呆れて問いかける。


「何そんなに怒ってんだ?」

「綺麗すぎるんだよ! うーっ、ルネサンスの弊害だよ!」


 何のことだかサッパリわからない。アマネは短い髪を掻き毟りながら唸っている。


「それに合唱は曲の後半だよ? 待ってる間に気が緩んじゃう! 一睨みで緊張感を思い出せるように体に覚えてもらわないと!」


 とアマネは何故か怖い顔で兄を睨みつけていた。


 変な顔。


 失礼なことを考えながらも、レオンは思う。


 怒った顔は…………母上にちょっと似てる。


 レオンには母との思い出は少ない。一番覚えているのは、父に対して怒っている時の顔だ。今のアマネの顔のように、怖い顔で父を睨む母の顔。


 母が何故怒っていたのか理由は知らないが、あの父なのだから仕方がないとレオンは思う。レオンからすると、父は父というよりも困った親戚の叔父さんという感じに近い。どちらかと言えば、デニスやレイモンの方が父という感じだ。


 そして10歳年上の兄もまた父に近いかもしれないなと思う。母が死んでからは兄は忙しくてあまり家にいなかったけれど、時間があれば勉強を教えてくれたし、話も聞いてくれた。兄みたいになりたいとレオンは思う。


 そう思うのに、上手くできない。


 レオンは演奏家たちに囲まれて出て行った少女を思う。物静かでおとなしいのに、気が強いところもあって、あまり物怖じしない少女。妹みたいに可愛がりたいし、大切だと思うのに、どうしてか上手くいかない。


 もうすぐ、レオンはヤンクールに向かう。


 ユニオンがアマネを狙っていたことは知っている。渡り人ということを考えれば無理のない話で、狙われたにしては肝が据わっているというか、のんびりしていると思う。だが昨日垣間見たアマネの不安そうな様子を考えると心配になる。


 マリアは大丈夫だろうか?


 兄がいれば大丈夫とも思うが、兄だって忙しい。ケヴィンが王都に腰を据えてくれれば少しは安心だが、ケヴィンにだって仕事があるとレオンは理解している。


 早く大人になりたい。


 自分はまだ学生だ。早く兄みたいになって、マリアを守れるようになりたい。本当はヤンクールに戻りたくないけれど、辞めてしまうのは進学を薦めてくれたレイモンや兄に悪いし、中途半端ではたぶんダメだ。


「ため息を吐くな。マリアが心配するぞ」


 兄の苦言が呈されると同時に、ぐしゃぐしゃに髪を混ぜられて慌てる。


「ちょ、兄さん! 子ども扱いすんなって!」

「されたくなければシャンとしろ」


 そう言いながら兄がチェンバロで和音を奏でる。いつの間にか合唱練習が再開されたようだ。


「兄さん、音取り、変わってよ」

「ダメだ。お前がアマネに任されたのだろう? それに、そろそろ戻ってくる」


 懐中時計を取り出してみれば、あと40分ちょっとで練習時間が終わる。一度通しで演奏するだろうから、そろそろ演奏者たちも戻ってくるだろう。


「レオン、焦る必要はない。マリアのことは任せておけ」


 この懐中時計はヤンクールの大学に入学したときに兄がくれたものだ。ケヴィンも同じものを持っており、兄は母から譲られたものを持っている。便利だが非常に高価であることは知っているし、自分には分不相応だという自覚がある。


 この懐中時計に見合うような人物にならなければとレオンは頷いた。






 ◆






 翌朝、レオンはヤンクールへ旅立った。


 なんとアルフォードも一緒だ。


「鍵穴の場所さえわかれば行き来できるらしいからな。連れて行け」


 とはユリウスの弁だ。


 どこでもドアみたいだと私ははしゃいだが、よく考えてみれば人間は行けないのだから、どちらかといえば超特急の伝書鳩みたいなものかもしれない。


 アルフォードによれば、場所によるが王都からヤンクールとの国境ならば一刻あれば行けるらしい。超便利だ。


「ゲロルトたちの動きも気になる。わざわざこちらから探る必要はないが、周りをうろついているようなら連絡しろ」

「おにいさん、アルプ使いが荒いよ!」


 憤慨するアルフォードだったが、マリアにお願いされてしょうがないなと諦めたようだ。


 マリアからのレオンとエルマーへの贈り物は、前日の夜に居間で披露された。


 レオンが目を潤ませていたのとは対照的に、エルマーは終始笑顔で喜んでいた。まあ、エルマーは王都にいるのだし、いつでも会いに来ることが出来るのだから別れを惜しむという感じではないのだろう。


「マリア、歌、頑張れよ」

「うん。レオンは、勉強を、頑張る」


 前日の夜はずっと居間で話をしていた2人だが、別れは意外とあっさりしていた。レオンはちょっとぶっきらぼうに、マリアは淡々と言葉を交わしていた。


 私はと言えば、そんな2人のやり取りに目を潤ませるばかりだった。もう年かな。最近なんか涙もろいというか、感情が揺れやすくなった気がする。


「ふふ……」

「笑わないでください」


 朝の出来事をあいさつ代わりにアロイスに話したら笑われてしまった。レオンが旅立った後、協奏曲のことを話しておけとユリウスに言われ、私がアロイスを呼んだのだ。


「失礼。貴女をネクタリンのようだと、ドロフェイが、道化師が言っていたのを思い出しまして」


 年齢のことで笑われたと思った私だったが、アロイスの言葉に目を瞬く。


 そういえばアロイスはゲロルトの仲間だった。頻繁には会っていないとは言っていたが、話したことぐらいはあったようだ。


「ネクタリンって桃の仲間? このあたりで採れるんですか?」

「いえ、バーニッシュやヴァノーネの一部で栽培されています。滅多に手に入るものではありません」

「ふうん。でも、なんで私がネクタリン?」

「ネクタリンは外側が柔らかくて傷みやすいのですが、中の種はとても固いのです」


 どういう意味なんだろう? 一見傷つきやすそうだけど頑固とかそんな感じ? ハズレとまでは言わないが、ちょっと心外だ。道化師に対しては、いつだってクリのようにトゲトゲしたい気持ちでいっぱいなのだ。


「ネクタリンは熟すと濃厚な味わいなのですよ。私ももう一度手に入れたいものです。出来れば熟す前の固いものを。果物は熟すのを待つのが楽しいですから」


 意味ありげに視線を寄越すアロイスだが、私にはよくわからない。


「そうなんですか? 私、あまり食べることに興味ないんですよね」


 とりあえず、今日来てもらった話をしなければと私はネタ帳を広げる。


「アロイスさんは葬儀後はどうされるのですか?」

「いくつか家庭教師の依頼が舞い込んでおりますが、まだ決めておりません。アマネ様はどうされるのですか?」

「一度はフルーテガルトに戻りたいのですけど、そうもいかなくなりそうです」


 慈善演奏会の後、私のところにもピアノの家庭教師の依頼がかなり来ているとユリウスから聞いている。ご令嬢たちのハートを射止めたアロイスならば、私以上に殺到しているのかもしれない。


 今後のことを早めに決めたいのはアロイスも一緒だろう。早速私は協奏曲の話を伝えた。


「協奏曲ですか。ありがたいですね。ですが、アマネ様はどうされますか? 指揮者がおりませんよね」

「そうなんですよね……」

「クリストフならば誘えば乗るかもしれません。アマネ様がいらっしゃらない練習では指揮をしておりますよ」


 そうだったのか。てっきりカルステンさんがやってくださっていたのだと思っていたが、クリストフがやっていたとは。後でお礼を言わなければならない。


 しかし、葬儀後は収入の保証もできないのだから、そう簡単には誘えない。


「アマネ様なら家庭教師の依頼が殺到しておられるのでは?」

「私は…………まだ決めていないのです。これからどうするのか」


 家庭教師を引き受けてしまえば一番簡単なのはわかっている。収入もそうだが、五線譜を広めるのも、音楽を広めるのも都合がいい。わかっているのに決められないのは、フルーテガルトにいたいという自分の我儘だ。


 もちろん、フルーテガルトの街を潤わせたいという気持ちは今でも変わっていない。だが本当にそれだけなのかと言われれば違うという自覚がある。


「アマネ様は、意外と慎重でいらっしゃる」

「我儘なんです。マリアのこともありますから早く決めないといけないのですが」

「こう言ってはなんですが…………アマネ様はユリウス殿とご結婚されることは考えないのですか? ユリウス殿ならば貴女とマリアを守ってくれるでしょう。生活の心配も……」

「やめてくださいっ!」


 思わず立ち上がってしまった。


「そんな風にっ、ユリウスを利用したくないんです……」


 違う。それだけじゃない。


「申し訳ありません。貴女の自尊心を傷つけるつもりはなかったのです」


 自尊心? そうかもしれない。私は私に恥じない自分でありたい。


「すみません。大きな声を出してしまって」


 ユリウスと一緒にいたいという私の思いは、私に対して恥じるべきことではないけれど、今の状態の自分がユリウスと一緒にいたいと望むのは恥ずかしい。守られてばかりで、何も返せていない。そんな自分が許せないのだ。


「いえ…………貴女は随分と潔癖というか、自罰的な考え方をされるのですね」


 突っ立ったままの私の手を取り、アロイスが座らせてくれる。


「アマネ様がこの世界にいらしたのはいつですか?」

「3月の終わり頃です。私は怪我をしてしばらく寝込んでいたので、はっきりと覚えていないのですが、動けるようになったのが4月の半ば過ぎで……」


 無意識のうちに右の額からコメカミにかけての傷をなぞりそうになったが、アロイスがその様子をじっと見ているのに気付いて留まる。


「葬儀の音楽担当が決まったと私が聞いたのは5月の終わり頃で、あなたに初めて会った数日後でした」


 アロイスに言われて、思い返してみる。オペラを見て、アーレルスマイアー侯爵家に行って、フライ・ハイムに行ったのもその時だ。王宮でガルブレン様や道化師に会って、アロイスに助けてもらった。シルヴィア嬢の演奏会に出たのはその後だった。


「その後はフルーテガルトに戻られて、曲を作っていらしたのですか。楽器も改善して、楽典も作って。お忙しかったでしょう?」


 5月の半ばから6月の終わりにかけて、楽典を作って、楽器の改善をして、曲を作って、シルヴィア嬢にマナーを教えてもらって。そうだ。工房の火事もあった。


「7月にこちらに来てからは、ドロフェイやゲロルトに狙われて。私が言うのもなんですが、外出もほとんど出来なかったのではありませんか?」


 フルーテガルトの火事の後、1人になることができなくなった時期もあった。ピアノの曲集を作ったり、バレエ音楽の譜起こしもした。1人で動けるようになってからも、マリアのレッスンや合奏や合唱の練習があって、慈善演奏会もあって……


「アマネ様、私と一緒に出掛けませんか?」

「でも護衛が…………」

「ラースさんですね。今はどちらに?」

「たぶん、従業員の部屋か工房に」


 少し待っていてくださいと言ってアロイスは部屋から出て行ったが、ほどなくしてラースと一緒に戻ってきた。


「では、出かけましょう」


 アロイスは微笑んでいるが、なんとなく有無を言わせない雰囲気だ。ラースを見れば、硬い表情ではあるものの、ため息を吐きながら頷いてくれたのだった。


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