ヴィルヘルミーネ王女の慈善演奏会
ヴィルヘルミーネ王女主催の慈善演奏会は滞りなく進められた。
私たち出演者は、呼ばれるまで控えの間に待機するように言われたため、自分の出番の二つ前からしか演奏を聞くことができなかった。
私は聴衆のピアノに対する反応が気になって、ユリウスに様子を見てくるように何度もお願いしたのだが、ユリウスは首を縦に振らなかった。
「休憩以降は俺も控えの間には戻れなくなる。アロイスの出番が終わったら大人しくしているように。アロイスはアマネから目を離すな」
「承知しました」
年下のユリウスが年上のアロイスに命じている。なんというか、この二人はいつから主従関係になったのだろうかという感じだ。
「終わりましたよ。概ね、よい反応です」
ナディヤの伴奏をしたクリストフが戻ってきた。頼んでおいて何だが、この男、こんな所にいて大丈夫なのだろうか? 確か訴訟中だったような気がするのだが。
「解決の目途が付きましたから。しかし流石に会場に居座るわけにもいきませんから、プリーモの演奏が終わった後も渡り人殿の演奏までここにおりますよ」
クリストフは肩を竦めてそう言った。
「ナディヤの演奏はどうでしたか?」
「素晴らしかったですよ。正直、女性なのがもったいない。宮廷楽師どころか演奏家としても十分通用します」
私もそう思う。クリストフには言えないが、クリストフよりもナディヤの方が技術的には上なのだ。
「ピアノの反応は? どのような感じですか?」
「伴奏でしたから、予想よりは落ち着いています。ですが音楽家たちはもちろんですが、商人や工房関係者らしき者たちは目の色が変わっていましたね」
ということは、前半が終わるとユリウスはそちらの対応で忙しくなるのかもしれない。ちらっとユリウスを見ると、何かを考え込むように指先でテーブルを叩いている。
「宮廷道化師はどのような様子でしたか?」
「道化師、ですか……? これと言って目立つようなことはしていなかったと思いますが……?」
ユリウスに問われてクリストフが戸惑うように答える。道化師と私との関係を知っているのはアルフォードとユリウスだけのはずだ。もしかするとアロイスにはユリウスが話したかもしれないが。
クリストフは道化師に体を乗っ取られていたが、特に道化師と繋がりがあるというわけではないようだった。
そういえば控えの間に入ってからはアルフォードの姿を見ていない。アルフォードは道化師をとても怖がっていたので、どこかに隠れているのかもしれない。
演奏が終わった者は、客席で聞くこともできるらしく、控えの間はどんどん人が減っていく。この分だと、最後に残っているのは私とアロイスとクリストフになるだろう。マリアとレオンは最後から二番目で私の前だ。
「そろそろ前半が終わるな。俺は客席にいかねばならんが、お前は大人しくしているように」
控えの間にいる者が最初の半分よりも少し多いくらいの人数になった頃、ユリウスが立ち上がった。
「ユリウス……、アルフォードがいないんだ…………」
なんとなく不安になってそう言うと、ユリウスに腕を引かれて部屋の端に連れて行かれた。
「大勢の見知らぬ者がいるのだから、姿を消しているのだろう。どうした? 不安なのか?」
「…………うん」
道化師があのまま大人しくしているようには思えない。何かが起こりそうで怖いのだ。
「そんな不安そうな顔をするな。マリアも不安がるだろう?」
「うん……ごめん……」
発表会前の小さい子みたいでちょっと恥ずかしい。マリアの前でみっともないところは見せられない。
マリアを見ると、大人しく座ってレオンと話をしている。たぶん、レオンが気を利かせてマリアの気を引いてくれたのだろう。
ユリウスの右手が伸びてきて、私の左の頬に当てられる。
「傷はもう目立たなくなったな。痛みは?」
「ないよ。大丈夫」
そう返すとユリウスはアロイスを呼びながら、私を隠すように柱の影に押しやった。
「不安らしい。手を握るぐらいは許す」
「かしこまりました」
人々の視線から隠すように、二人が私の前に立つ。
「アマネ、客席で見ているから、心配するな」
顎を持ち上げられたと思ったら、唇に軽い衝撃。
「なるほど」
アロイスが何かを呟いたが、私は顔が上げられない。
今のは何だったのかとか、何で私の手を握ることをユリウスが了承するのかとか、自分が甘えすぎたからだとか、まとまらない思考が脳をぐちゃぐちゃにする。
いつの間にかユリウスがいなくなっていて、アロイスが目の前で苦笑していた。
「演奏前は誰でも緊張しますから、不安になっても気にすることはありませんよ」
アロイスが目線を合わせるように腰をかがめて言う。
「アロイスさんも?」
「ええ。今の私は宮廷楽師ではありませんから。今日が初舞台のようなものです」
言われてみればその通りだ。宮廷楽師のライナーとしてではなく、アロイスとして人前で演奏するのは初めてのはずだ。
「すみません。情けない姿を見せちゃって」
「意外でしたが、出来れば私に縋っていただきたかったですね」
アロイスは片目を閉じて笑った。
少しすると、アロイスの名が呼ばれ、会場に移動するように言われた。
「手は必要ありませんか?」
「大丈夫です」
「それは残念です」
軽口を言いながら、伴奏の私もアロイスと並んで歩く。
そろそろ休憩が終わる時間なのだろう。ほとんどの客は座っている。中央の最前列には先ほど見た王族の方々が、その後ろにシルヴィア嬢やギルベルト様などの貴族たちと、それぞれの付き添いの者たちが座っている。ナディヤの姿も見えた。
師ヴィルヘルムはクレーメンス様のすぐ後ろに座っていて、間に何人か挟んで道化師もいた。内容は聞こえないが、道化師は周りの者たちに何か話しているようだ。時々周りの者たちが呆れたり、ニヤニヤ笑ったりしているのが見える。
急ごしらえの舞台の反対側にある衝立の向こうには、ザシャとエルマーとヴィムがいた。エルマーは一番上のお兄さんのところに行ってたはずなのに、いつ来たんだろう? あ、ラースもいる! だけどマルコはどこに行ったのか。相変わらずどこかで寝ているのだろうか。
会場の後ろの方にユリウスがいた。隣にいるのは確かオペラの時に会ったハルトマン教授だ。ユリウスは思いのほか穏やかな顔つきだが、他にも商人らしき者が数名いて、ユリウスに話しかけたそうにしている。
客席を見ていたら、少しだけ落ち着いてきた。
アロイスは落ち着いているように見えるが、彼も言ったように演奏前は誰でも緊張するし不安になる。
「アロイスさん、貴方の音色で会場中のご令嬢を虜にしてしまいましょう」
アロイスのデビューだ。大丈夫。彼の音色をきっとみんな好きになる。
「仰せのままに」
案内係の合図と共に、舞台に出てピアノの前に座る。アロイスがチューニングをして、一礼の後、一呼吸おいて頷く。
出だしはピアノの伴奏から。後からアロイスの柔らかい音が会場を満たしていく。
演奏していて顔がにやけてしまう。だってアロイスの音ときたら、本当に会場中の女性の心を鷲掴みにしそうなほど甘いのだ。
これ、絶対みんなの目がハートになってるって!
見なくてもわかる。会場中から、ほうとため息が聞こえてくる。いつもより情感たっぷりな演奏で、顔じゅうの筋肉を総動員して、必死に真面目な顔をキープする。3分ちょっとがこんなに長く感じるとは思わなかった。
どうにか演奏を終えて控えの間に戻る途中、我慢できなくて吹き出した。
「ふふっ……くっ……アロイスさんっ、なんですかあの甘い音!」
「貴女がおっしゃったのですよ。会場中のご令嬢を虜にと」
「だからって、ふふふっ……くくっ……」
「残念。貴女を虜にはできなかったようですね」
「あー、苦しい…………この曲でこんなに笑うなんて、ふふっ、エルガーに申し訳ないです。アロイスさん?」
控えの間の少し手前でアロイスが立ち止まる。
「ご褒美をいただいても、よろしいですか?」
「ご褒美ですか……?」
腕を引かれて驚いているうちに、前髪にアロイスの唇が触れた。
「…………手を握るぐらいはと、言われていたのでは?」
「随分煽られましたから。それにご褒美ですので」
アロイスはにっこりと音がしそうな笑顔で言った。
◆
それは、『英雄のポロネーズ』の演奏後に起こった。
「エルヴィン様、あの渡り人はヴァイオリンの腕も素晴らしいと聞きました」
拍手が鳴り響いていたはずなのに、道化師の一言で会場が静まり返る。
「僕も聞いてみたいなあ」
「そう言われましても…………楽器を持ってきておりません」
「誰かに借りれば良いでしょう? 最初に演奏したライ……おっと違った。アロイスでした、ね」
歪んだ笑みを見せる道化師の言葉に凍り付く。ユリウスを見れば険しい表情で道化師を睨みつけていた。
「ふむ……どうでしょうかな? 私は出来ればもう一曲、そのピアノの曲が聞きたいと思いますが、いかがでしょうか? クレーメンス様」
普段のおじいちゃん然とした様子とはまるで違う師ヴィルヘルムの声音が、不思議なほどに大聖堂に響く。目尻の皺はいつも通り優しいのに、目は射貫くように鋭い。
「エルヴィン王子よ、わが師ヴィルヘルムはこう申しているが、どうであろうか?」
「ドロフェイ、控えよ。慣れぬ楽器では演奏もしにくいであろう。私もそのピアノの曲をもっと聞きたいと思う。ヴィルヘルミーネはどうだ?」
「わたくしももっとピアノが聞きとうございます」
アロイスから話題が逸れて安心するが、もう一曲弾かねばならない流れになってしまった。作り笑いを張り付けながら、頭の中で『英雄のポロネーズ』と同じくらいの難易度を条件に検索をかける。元の世界でもリクエストが多い曲なら突然でも演奏できる。……たぶん。
「では、僭越ながらもう一曲、演奏させていただきます」
ピアノの椅子に腰かけ、こっそりため息を吐く。どれもこれもあれもそれもぜーんぶ道化師のせいだ。でもこうなったら怒ったところでどうにもならない。
深く息を吸って。吐き出して。重々しく最初の一音を奏でる。
ショパンの『幻想即興曲』だ。
人気の曲なので当然演奏する機会が多いが、演奏するたびにショパンに申し訳ないと思ってしまう。ショパンは未発表の曲は全て焼却処分するよう遺言を残していた。この曲はそのショパンの遺言に背いて発表されたのだ。
曲の完成度から考えると、発表されていて当然であるにもかかわらず、発表されなかった曲。ショパンなりの思いがあったに違いないのに、こんな形で披露してしまうなんて。
ごめんねショパン。
全部道化師のせいと言いたいけど、演奏する曲を決めたのは私だ。
演奏を終えて、これ以上何か言われる前にとさっさと一礼して退場する。出口に置かれた衝立の影でルイーゼが泣いていた。
「渡り人様……申し訳ございません」
「どうしてルイーゼが謝るの?」
「わかりません……自分でもわからないのですが、渡り人様の演奏を聞いていたら、とても悲しくなってしまって…………」
あーあ。慈善演奏会のラストが、悲しい演奏になってしまったようだ。
「私の力不足ですね」
「いいえっ、そんなことはございませんっ」
「ルイーゼの言う通りです。美しく幻想的でしたよ。王子もお気に召したようです」
アロイスが手を差し伸べてくれて、うっかり手を乗せそうになったが思い留まる。危ない危ない。演奏が終わったからといって気を抜いてはいけない。
客席にいたマリアとレオンがこちらに向かって歩いてくるのが見える。ユリウスはピアノの説明のためにしばらく帰れないだろう。素晴らしい歌声を披露したマリアを私が労ってあげなくては。
「帰りましょうか」
「急ぎましょう」
アロイスを見上げれば、なんだか少し焦っているように見える。何事かと視線を辿れば、マリアとレオンの向こうに、会場から飛び出してくるご令嬢たちが見えた。