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私設塾の管理人

「アマネの旦那、おいらとデートと洒落こまねェかい?」


 午後になるとエルマーが誘いに来た。ユリウスの私設塾に連れて行ってくれるのだ。


「僕も行こう。エルマー君は勉強しないといけないからね」

「娘のデートに着いてくるなんざァ、野暮ってもんだぜ?」


 パパさんが強引に着いてきたのには驚いたが、エルマーが生徒だったことはもっと驚いた。


「勉強があるなら言ってくれればよかったのに」

「塾の授業は基本的には午前中だ。午後は自主学習ってェやつだ」


 エルマーによれば、私設塾は全員が通う初等学校と仕組み的には同じで、夏の間は週に二日間午前中だけ行き、冬になると毎日通うことになっているらしい。ただし、私設塾はいつでも開放しているので、自習したければいつ行ってもいいそうだ。


 初等学校は教会で行われている。7歳から入学でき、12歳までか読み書きができるようになるまで通うそうで、教師の給与は公費で賄われる公立学校だという。


 それに対して私設塾は初等学校を卒業した者のうち、さらに上の職業学校に通いたい者やアカデミーを目指す者、あるいは学校は目指さないけれどもっと学びたい者を受け入れているようだ。


 授業料的なものはどうなっているのか気になったが、授業で使う教科書を購入するぐらいしか費用はかからないという。その上、卒業していった者たちが残した教科書もあるので、購入する余裕がない者はそれを写本して使うそうだ。


 そんな話をしているうちに大きめの倉庫のような建物が見えてくる。それが私設塾だとエルマーに教えられ、意外と大きいなと私は思った。


「うるせえっての! 勉強しねえなら帰れ!」


 自習が行われているという建物を教えてもらったところで怒鳴り声が聞こえてきた。部活の怖い先輩を思い出して、つい私の背も伸びる。


「怖いねえ。レイモン君は相変わらずだねえ」

「ははは、精が出るねェ、レイモンの旦那」

「ユリウスの親父さんかよ。ったく、んなところで笑ってねえで仕事しろ仕事!」


 レイモンと呼ばれた人物は、ラースと同じくらいの年齢に見えた。この国ではとても珍しいことに髪も瞳も黒い。もしかすると祖先に日本人の渡り人がいたりするのかもしれない。


 しかしパパさんに仕事しろとは、正論だけど良く言えるなと感心する。


「で、そっちのひょろいのは? 新入生か?」


 レイモンが鋭い視線を私に寄越す。


「いやいやいや、私はこれでも一応大人です。今日は見学です」

「あ? 別に大人が勉強したっていいだろーが」


 さらっさらの長い前髪をぐしゃりとあげて、レイモンが更に目つきを鋭くした。


 言われてみればレイモンの言う通りだ。大人が勉強してもいいはずだ。


 レイモンは言動は怖いけど、とても真っ当な大人という感じがする。元の世界にいる兄にこういう友人がいたらよかったのにと心底思う。


「レイモン君、この子はヴェッセル商会に滞在中のアマネ君だよ」

「レイモンの旦那よォ、前に教えただろ? ヴェッセル商会にちんまいのが来たって」


 パパさんとエルマーが私をレイモンに紹介してくれる。


「ちんまいって……あ、アマネです。よろしくお願いします」

「ああ、渡り鳥っつったっけか?」


 渡り人だよと訂正しながらエルマーが顎に手を当てる。


「そういやあ、ヤンクールにゃ渡り人はいねえってェ話だったなァ」

「ヤンクールに移動した奴はいるらしいけどな。渡り人だっけか? そいつらが現れるのはノイマールグントだけだな」


 レイモンはヤンクール出身らしい。ヤンクールはノイマールグントの西隣に位置する国だ。祖先に渡り人がいるという私の予想は外れてしまったようだ。


「まあ立ち話もなんだ。おいエルマー! そいつらの勉強見といてやれ」

「おう、任せな」


 レイモンはパパさんと私を別室に連れて行き、席に着くように言った。窓の前には光を遮らない高さの棚が並んでおり、たくさんの本や道具が詰まっていた。棚の上には水を張った透明の容器が並び、何かの苗が浮かんでいる。


「水耕栽培?」

「へえ、詳しいな。学生ん時に教授がちらっと零したのを思い出して試してみたんだが……」


 レイモンはユリウスと会った時は、ヤンクールの大学で植物学を学んでいたという。


「あはは、詳しいわけじゃないんですけど……ええっと、レイモンさんは優秀だって聞きました!」


 本当に詳しいわけではないので笑って誤魔化す。


 アカデミーは一般市民にも門戸を開いているが、相当優秀でなければ入れないと聞いた。ヤンクールの大学もそうなのだろう。


「でも国を出るのって随分と思い切ったことなのでは?」

「まあな。けどユリウスがな、面白れえガキすぎてこんなところまで着いて来る羽目になっちまった」


 レイモンによればユリウスは貴族の供としてヤンクールを訪れていたらしい。だというのに、同行した貴族を放置して、毎日研究室と農地に顔を出していたという。


「そんなに興味があるなら、実験用の農地でも持って自分でやってみろって冗談で言ったらやる気になっちまってな。言い出しちまった俺が放置するわけにもいかねえだろ?」


 冗談を真に受けたユリウスは同行した貴族やパパさん、亡くなったお母上を説得して実験用の農場を作る段取りをした上で、レイモンに声をかけたそうだ。それはもう熱心だったという。


「あのユリウスが熱心に……想像できない……」

「あの頃のユーくんはかわいかったんだよ。毎週アカデミーの休みにはフルーテガルトに戻ってくるからって言われちゃあね。侯爵もおもしろがって出資するって言い出すし」


 パパさんの言葉にかわいいユリウスを思い浮かべてみるが、眉間に皺を寄せた子どもの姿しか浮かばなかった。


「最初は毎週どころか一日おきに戻ってきて、何のために俺が来たんだって怒鳴ったもんだぜ。今じゃあ一人で何でもできますっつーツラしてっけどな。あの頃は人探しやら物探しやら、あれこれ手伝わされて大変だったぜ。しかしまあ、それなりに成果が出るようになって、俺も来た甲斐があったってもんだ」


 ユリウスが塾を継いでからはレイモンも塾を手伝うようになり、今ではほとんどレイモンが任されているのだという。


 ついでに実験農場やそれまでの研究も塾に移動したそうだ。研究結果は出資者であるアーレルスマイアー侯爵家から王家に奏上され、また商業ギルドも通じてノイマールグント中に広がり収穫量を延ばした。


 今は塾の裏手にある農地でジャガイモ栽培の更なる改善を試みているが、今後は他の野菜にも手を出すことを検討しているという。


「ビートってボルシチの?」

「ボルシチって何だ?」


 レイモンが首を傾げる。もしかするとこの世界にはボルシチは無いのかもしれないと私は考える。


「えーと、赤いシチューみたいな……」

「ああ、赤いのもあったが育てようとしてんのは白いやつだ。リレハウムって土地で家畜用に作られてるんだが、こいつを煮詰めると甘くなるんだ。ちびっとしか採れねーけどな」


 ユリウスはその白いビートの甘味成分を増やせないか研究したいらしい。私設塾を任せているとはいえ、突発的にこれをやってみろと研究テーマを持ち込んでくるのだという。


「この国は南側との貿易が弱えからなあ。砂糖はヴァノーネ経由で入ってくるんだが、自国でどうにかできねえかって、アカデミーの教授たちから持ちかけられたらしいな」


 ヴァノーネはノイマールグントの南隣の国だ。海に面しており貿易大国なのだという。


「家畜の餌って、よく見つけましたねぇ」

「どうやらビートから採れるってのは教授から聞いていたらしくてな、あちこちのビートを集め始めて……すげえ数のビートを持ってきた時は気が遠くなったもんだぜ……」


 当時を思い出したのかレイモンが顔を顰めて言うが、ノイマールグントまで付いてくるあたり面倒見がいいのだと思う。


「そういや、あいつは?」

「今朝から王都に行ってます」

「ふーん、前に会った時は落ち込んでたみてえだけど、大丈夫なのか?」


 落ち込んで? そんなことあっただろうかと考えてみるが、ユリウスはあまり感情を見せないので私には何を考えているのかサッパリわからない。だが長い付き合いがあるレイモンにはそれがわかるのかもしれない。


「ユーくんはヴィーラント陛下に期待してたからねぇ」


 パパさんが暗い顔で言う。


 ヴィーラント陛下はフルーテガルトを栄えさせた張本人だけど、外から見ればただの浪費家だ。私からすればユリウスが期待するような人物だとはちょっと思えないのだが、国民にとってはやはり国主を失うことは悲しいことなのだろう。


「ユーくんは小さいころに陛下にお会いしたことがあったからね。きっと思い出が美化されちゃったんだよ」

「えっ、会ったことがあるんですか?」


 商人の息子と一国の主にどんな接点があるのか想像できないでいると、パパさんが記憶を掘り起こすように遠くを見て言った。


「まだユーくんが10歳くらいだったかなあ。ほんのちょっとの時間だったけど」


 レイモンも知らなかったらしく、驚いた顔をしている。


「アーレルスマイアー侯爵のご子息とも、その時初めてお会いしたんだよ。もしあの時出会ってなかったら、レイモン君もここにはいなかったかもね」

「ああ、そんでヤンクールに同行してたのか」


 どうやらユリウスが同行した貴族というのがアーレルスマイアー侯爵のご子息であるらしい。


 アーレルスマイアー侯爵には今度王都で会うことになるとユリウスが言っていた。ご子息にもその時に会えるのかもしれない。


「ヴィーラント陛下が亡くなられて、フルーテガルトの人たちが困ってるって聞いたんですけど、生徒が減ったりとかはしてないんですか?」

「多少はな。塾にはほんとんど金がかからねえが、勉強するより見習いでも働いてほしいって親はいるからな。けどまあアカデミーの費用もヴェッセル商会が負担してっから、長い目で見る親もいる。だが今の状態が長く続くのは困るな」


 私設塾もフルーテガルトの経済的危機の影響が全くないというわけではないようだ。


 レイモンが言うには、この国では幼い子どもを雇うことはあまり褒められたことではないらしい。なので初等教育を受けている間は学業優先になるのだが、卒業してからは見習いとして働かせる親が多いそうだ。


 それにしてもアカデミーの費用も負担しているってすごい。それだけ裕福であることに驚くが、それ以上に社会貢献みたいな概念があることに驚く。商人ってもっとがめついものだと思っていた。


 聞いた限りでは私設塾で行われている研究も利益目的のものではないようだし、レイモンだって無給というわけではないだろう。いくら面倒見が良いと言っても、生活の保障もなくヤンクールから着いてくるはずがない。


「レイモンさんはヤンクールに戻りたいって思わないんですか?」

「考えたこともねえな。ヤンクールは悪い所じゃねえんだが、騒がしいっつーか主張が強えっつーか。まあ故郷だからそれなりに思い入れはあるけどな」


 騒がしい国? 活気があるということではないのだろうか?


「ヤンクールってどんなところなんですか?」

「農業が盛んだな。あと王立の学校が多い」


 ヤンクールは国が教育に力を入れているそうだ。学校もノイマールグントのアカデミーのような学問を学ぶものだけでなく、芸術や文学、バレエの学校なんかもあるらしい。


「ヤンクールは王の力が強いからね。国主導で色々なことができるんだよ。王立の軍学校もあって強国だね。それにヤンクールの王族は他国の王族と婚姻を結んで、その国の王位継承に口出しするんだ。その上で乗っ取ろうとするから戦も多いんだよ」


 レイモンが言う主張が強いってそういうことなのかと納得する。騒がしいというのも活気というよりは物騒という意味なのかもしれない。


「うーん、でも戦が多いなら農地は荒れるんじゃないですか?」

「王が主導で復興に当たってるってのもあるが、ヤンクールは他国に攻め入ることが多いからな、それほど農地に被害はねーんだ」


 なるほど。頭がいいというか、ずるいというか。しかし戦については全く実感を伴わない私としてはコメントしづらい。


「ユーくんはヤンクールみたいに王が力を持った方がいいって考えてるみたいなんだ。レイモン君は聞いたことないかい?」

「ああ、そういや言ってたな。ここみたいな学校を国主導で作らせるには王に力があった方がいいって」


 ユリウスはどうやら初等学校を卒業してから、アカデミーに入るまでの学校が必要だと考えているらしい。


 絶対王政というと悪いイメージがあるが、国を一つにまとめるにはそういった方法も有効だ。議会というシステムが作られる前段階としても絶対王政は選択肢の一つになりうると思う。


「大領地には領主主導で作った似たような学校があるんだが、ここは王領地だろ? だから王を動かさないといけねーんだが、これが難しい」


 レイモンがやれやれというように手をひらひらと振る。


「王が動く、すなわち国が動くと同じことだからね。王が動くなら領主も動くべきだと考える官僚もいるんだ。だけど実際には領主の力が強いから言うことを聞かないだろう?」

「王領地だけじゃダメってことですか?」


 メンツの問題でもあるのだろうかと首を傾げる。


「ユーくんは王領地だけでもいいって言ってたけどね。そういう官僚は国のために働いているっていう気概があるからね。国全体で足並みを揃えたいんだよ。それに知ってるかい? 官僚には領主の子息たちも多いんだよ」


 パパさんの説明によれば、領主の子息は自分の領地の利益になるように動きたがるから、対立が生じるのだとか。


 しかし聞いている私は理解が追い付かずに混乱する。


「領主の子息と、そうじゃない官僚がいるってことですよね。そうじゃない官僚ってどういう人がいるんですか? というか官僚ってどうやってなるんです?」

「ははは、混乱させちゃったかな。官僚はね、貴族の子息の他はアカデミーを卒業した者がなるんだ。40歳までには人のためになる仕事に就きなさいというのがアカデミーの教えだからね。ほら、そこにいい例がいるよ。エルマー君は官僚を目指しているんだよ」

「おいらを呼んだかい?」


 いつの間にかエルマーが横にいて笑みを浮かべていた。


「エルマーって官僚になりたいの? 菓子職人じゃなくて?」

「アカデミーに入学出来たらそうなるなァ。おいらは官僚になってユリウスの旦那が言うように学校を作りてェんだ。フルーテガルトにゃこの学校があるが、よその領は初等学校しかねえところもある。おいらがそんなところで生まれてたらと思うとなァ」

「そっか……エルマー、すごいね。応援するよ、私」


 そんなにしっかりとした考えがあるなら応援するしかない。私は両手の拳を握り締めてエルマーを激励する。


「ま、アカデミーを卒業して官僚になるっつーなら20年近くは勉強しねーといけねーがな」

「エルマーって13だったよね? そんなに勉強するの!?」

「はは、だなァ。ま、腹ァ括って頑張るしかねえってことよ」


 エルマーが官僚になるまで20年。その頃の自分がいくつになっているのか考えそうになって慌てて頭から消去した。











 アマネの旦那は不思議な御仁だ。旦那はおいらを不思議だと言いなさるが、おいらにしてみりゃあ、アマネの旦那にゃ負けると思う。


 ナリはおいらよりも少しばかり小さくて、こう言っちゃあなんだが、女ってェよりは初等教育学校を卒業したばかりの男児みてェだ。


 そいつが話してみると、どうしてなかなか博識で、言葉や態度にも不快感がねえんだ。こいつァ、ちゃんと教育を受けたモンじゃねえと、そうはならねえ。渡り人の世界っつーのに、俄然興味が沸いちまうのもわかるってなモンだ。


 そのアマネの旦那はさっきは男児みてェなんて言っちまったが、よく見ればなかなかのべっぴんさんだ。いや、美形ってェわけじゃあねェんだが、味のある面構えっつーか、可愛げがある。んでもって愛嬌もある。


 普段はぼんやりしていることが多い御仁だが、あのとろんとした黒目に力が入る瞬間はゾクゾクするねェ。ザシャの旦那は花が開くみてえだなんて、キザなことを言ってたが、言い得て妙だと思ったねェ。


 そんなアマネの旦那に入れ上げてるザシャの旦那にゃ悪いが、おいらはユリウスの旦那を推している。


 まあ、おいらの想い人が遺したお人だってェのもあるんだが、あのお方が亡くなって7年、ユリウスの旦那はちいとばかし頑張りすぎだとおいらは思ってる。


 それにユリウスの旦那の様子じゃあ、いつまでたっても身を固めねえと思うんだな。まァ、外面はそれなりにいいみてェだが、そもそも女に興味がねえってのがいただけねえな。


 ザシャの旦那にゃおいらがアカデミーに合格したら、王都でいい女を見繕ってやるから、ちいとばかし我慢してもらいてェもんだな。


 ええ? 受かるのかって? はは、そいつァ、一本取られちまったな!


 まァ、アマネの旦那は暢気なモンだし、ユリウスの旦那もあれでトンと女心にゃ疎いところがありなさるから、高みの見物と決め込むのもいいんじゃァござんせんかねェ。


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