ベートーヴェンの覚悟
フルーテガルトの工房の火事について、再考察が必要だった。
ユリウスの部屋に呼ばれたのは、火事が起こった当日にフルーテガルトにいた私とラースとヴィム、それからザシャの四人だ。
「火事の前後で何か変わったことはなかったか?」
「って言われてもなァ。結構前だし覚えてることは少ねェぜ?」
「俺は会ったことがねえが、道化師ってのが来たのはいつだった?」
ラースに言われて考える。
「確か……火事の夜にシルヴィア嬢の宿で会ったんだよ」
「翌日は俺も会った。だが道化師は俺とアルプに用があると言っていた。火事があったから登場したという印象だったな」
「うん。あの時の道化師って普通の服装だったし、突発的なことだったんじゃないかな」
シルヴィア嬢も何故道化師が訪ねてきたのかわからないと言っていた。シルヴィア嬢がフルーテガルトに滞在していることを知る可能性が低いとも。来てみたらたまたま私が頼りそうな人物がいたから待ち伏せてみたという感じがする。
それよりも、『火』が使われている以上、ゲロルトを疑うのは必然だ。
「ゲロルトってフルーテガルトの火事の時はどこにいたんだろう?」
「王都だ。その日の夕方にバウムガルト伯爵の屋敷に現れている。あの猫も見たと言っていた」
「その日の夕方から火事までの間に、フルーテガルトの門を通った怪しい者はいなかったっつー話だったよなァ」
アルフォードはその時はまだアンネリーゼ嬢の元にいた。私の近くに道化師の気配があることに気付いて、慌ててユリウスの元に行き、フルーテガルトのシルヴィア嬢の宿に来たのだ。
バウムガルトの屋敷にいたアルフォードが、夕方にゲロルトに会ったのならば、フルーテガルトに火をつけるのは難しいのではないかと思う。
王都からフルーテガルトまでは馬車で半日、馬を飛ばしても二刻、4時間だ。無理ではないが、その時間に門を通ったとしたら、門番が記憶しているはずだ。
街は高い壁で囲われているし、山を通ったとしても東門を通らなければ街の中には入れない。
「それに魔術ならばもっと派手に燃える」
ギードが怪我をした時、袖が一気に燃えたと言っていた。劇場の火事の時も、楽屋の衣装は炭になっていたが、フルーテガルトの火事は紙束が燃えてハープの枠が焦げ付いた程度だ。
「侵入口は工房の裏だったな」
「アマネが聞いた音からすればそうなんだけど、あそこを通れるのは子どもかアマネぐらいじゃねえかな」
ザシャは駆け付けた時も同じように言っていた。普通の大人は通れないから鍵はついていないと。
「アマネぐらいの体系……イージドールは、侍従はどうだ?」
ゲロルトのところで見た、変奏を解いたイザークの姿を思い出す。
「身長は私よりはちょっとだけ大きくて、細身ではあったけど……通れないんじゃないかな?」
シルヴィア嬢の宿から戻った後、私もその侵入口を試しに通ってみた。四つん這いになって通れば割と余裕ではあったが、イージドールは肩が引っ掛かるのではないだろうか。少なくとも扉の開け閉めの音以外に、何らかの音がするだろう。
「肩幅が狭い者……女ならばどうだ?」
「アマネ、エルヴェ湖で会った女は通れるんじゃねえか?」
エルヴェ湖で会った女性……カミラさんか。彼女も小柄で私よりは肉感がある体つきではあったが、肩幅はそれほど広くなかったような気がする。
「たぶん、通れるんじゃないかな?」
でも、あの女の人が四つん這いになって狭いところを通り抜ける姿が思い浮かばない。
「その女が劇場に来たのはいつだったんだよ?」
ヴィムの質問にラースが答える。
「確か、ナディヤとルイーゼが支部に来た前の日……火事の二日前だな」
「その後でゲロルトと揉めて出て行ったんだよね?」
「設計図が見つかったのも火事の二日前だ。ゲロルトと揉めた後に出版社に設計図を置いた、と考えれば辻褄は合うな」
ユリウスが持ってきた雑誌は、最近発売されたばかりの音楽雑誌だ。記事を書いた者に確認したところ、設計図が出版社で発見されたのは劇場の火事の二日前。誰が持ち込んだのかは不明であるという。
出所不明の設計図はしばらく放置されていたが、アカデミーのとある教授に別件でインタビューを行った際に、雑談として話したのだという。興味を持った教授に実物を見せたところ、これはどえらい物だということになり、掲載に至ったようだ。
「ならその女が工房に火をつけて、俺の設計図を盗んだってことか?」
「……その可能性は高い」
ユリウスの表情は苦い。知り合いだった女性が放火と窃盗を行った可能性が高いのだから、仕方がないのかもしれない。
「設計図が公表された以上、複数の工房で試作が行われることになるだろう」
空気を振り払うように言ったユリウスの言葉に、今度はザシャが苦い表情になる。
「でもヴェッセル商会ではもうピアノが完成しているし、設計図に描かれていない工夫もあるよね?」
「フレームとかはマルコが鉄製にして強化したし、弦がルテナ鉄だってのも設計図には書いてねえけど……」
ユリウスの左手の指がテーブルを叩く。
「慈善演奏会での披露目は問題ないだろう。さすがに半月で完成させるのは無理だ。だがその後は想定よりも早い流れになるな」
お披露目がなされれば、ピアノは注目を浴びるだろう。そこから各工房で製作と開発が進められるだろうと予測していたが、設計図が雑誌に掲載されてしまった今、すでに開発競争はスタートしたと考えてよいだろう。
「ザシャ、設計図を見て実物を見れば、最短で完成までどのくらいかかると見る?」
「一ヶ月くらいはかかるだろうな。ルテナ鉄を知っていればもっと早いと思う」
「スラウゼンの鉄の流通は注意が必要だな。それはこちらで手配する。スプルースは独占契約だが、チェンバロもスプルースで響板を作るから、在庫を流用する可能性があるな…………。アマネ、ピアノの教則本はできているか?」
「初心者向けと中級者向けはできてるよ」
二コルの写譜もすでに完成している。
「上級者向けはどうだ?」
「まだ全然。慈善演奏会で演奏するものはこれから作るけど」
「最初に飛びつくのは貴族だ。貴族はチェンバロを習っている者が多いし、演奏会を開くことも多い。すぐに上級者向けの楽曲が必要になる」
以前取り上げられたままだったタブレットから、ユリウスがいくつか選んで示す。
「これらを楽譜に起こせ。慈善演奏会の曲も……そうだな、これを楽譜に起こして演奏しろ。葬儀後すぐに出版に回す」
「これ……待って! これは出来ないよ!」
思わずきつい口調になった。みんなも驚いた様子で私を見ている。
楽譜に起こすものに関しては問題はない。ただ慈善演奏会の曲は了承できなかった。
ベートーヴェンのピアノソナタ第23番。通称『熱情』として有名な曲だ。
「理由を言え」
「全部演奏したら20分以上になるし……」
「第3楽章だけでいい」
「そんなの、ダメだよ」
言い張る私にユリウスの眉間の皺が深まる。
「アマネ、よく聞け。ピアノの開発競争が激しくなれば、当然、曲集も出版競争になる。来季のスプルースは押えているが、冬までは大したアドヴァンテージにはならない。ヴェッセル商会が先駆けであることを示すには、インパクトのある楽曲が必要だ」
「だけど……この曲は簡単に演奏できないよ……」
我を張っている自覚があるので声が小さくなってしまう。けれどどうしても譲れない。譲れない自分が嫌になる。
「………………代替案を考えておけ」
大きなため息の後に、固い声でユリウスが言った。
◆
その夜、ユリウスが私の部屋を訪ねてきた。
いつも呼び出されるのに珍しいなと思いながらソファを勧める。
「悪魔の板を返そうと思ってな。楽譜を起こすのに使うだろう?」
ユリウスが称する『悪魔の板』とはタブレットのことだ。
私から取り上げた後、たっぷりと音楽を堪能したユリウスは実感したらしい。これは現実世界に戻れなくなる『悪魔の板』だと。言い得て妙だ。そう言いたくなる気持ちはよくわかる。
「ユリウス?」
タブレットを受け取ろうと手を伸ばすと、手首をぎゅうっと掴まれて戸惑う。
「先ほどは…………悪かった」
「どうしてユリウスが謝るの?私の我儘なのに」
謝らなければならないのは私の方だ。きつい言い方になってしまったし、きちんとした説明もできなかった。説明ができないなら譲らなければならなかった。音楽に関して頑固で融通が利かない自分が嫌になる。
「そんな顔をするな。俺が強引に進めすぎたのだ」
「そんなことない」
ちゃんと理由を聞いてくれた。代替案を考えるよう、こちらの意思を尊重してくれている。甘えすぎているのは私だ。
「理由を聞きたい。いや違うな。あの曲に対するお前の思いを聞きたい」
「うん」
手首を引かれるままに、ユリウスの隣に座る。先ほどはできなかった説明を、きちんとしないといけない。
ベートーヴェンの『熱情』は、私にとって特別だ。
ベートーヴェンが難聴に悩まされるようになったのは、ピアノソナタ第8番『悲愴』が書かれた頃だと言われている。難聴はどんどん悪化し、『悲愴』の三年後、彼は遺書を書いている。それがどれだけの絶望を持って書かれたものなのか、私には想像することしかできない。
『悲愴』から『熱情』が発表されるまでの約10年、彼は数々の傑作を生みだした。その10年間はベートーヴェンにとってどんな日々だったのだろうか。
彼がどのような気持ちで曲を作ったのかを思えば、聞く時はもちろん、演奏する時も胸が締め付けられて仕方がない。出来ることならば時を超えてベートーヴェンに会いに行って抱きしめたいと思う程だ。
「作曲家なのに耳が聞こえなくなっちゃうって、どれほどの絶望なんだろう。きっと神様を呪ったと思うんだ。『熱情』は難聴という運命に立ち向かうための、ベートーヴェンの覚悟なんだって、最初に聞いた時に思ったんだ。『悲愴』から『熱情』の約10年かけて向き合った覚悟なんだよ。簡単には扱えないよ。」
『熱情』には交響曲第5番の冒頭、あの有名な動機が使われているのだ。
「『熱情』を演奏しようと思ってどんなに練習しても、ミスなく演奏できても、ベートーヴェンの覚悟が伝わる気がしない。『熱情』を発表するなら、ベートーヴェンの覚悟と一緒に、丁寧に伝えたい。だけど今の私じゃ伝わらないんだ」
ユリウスは私が話している間も手を握っていてくれた。きっと、こんな風に支えられて守られてる私じゃ、ベートーヴェンを伝えられない。
「アマネ。お前の『熱情』を俺は聞きたい。…………だがお前がその覚悟を伝えられるようになる過程を、俺は歓迎できないのだろうな」
ユリウスが自嘲気味に笑う。
ベートーヴェンに近づきたい、寄り添いたいという気持ちはあっても、私だって好き好んで苦労したいわけではないのだから、もしかすると一生ベートーヴェンを伝えられないかもしれない。音楽の伝道師失格だ。
「俺は…………作者と作品をそこまで結びつける必要があるのかとも思うが……」
ユリウスが少しだけ迷うように言う。ユリウスらしくない言い方だけど、ある意味ユリウスらしい正直な言葉だなと、私はちょっと笑った。
「うん。よく言われる。私が作曲する側だからどうしてもそうなっちゃうってだけで、本当はあまり良くないことだってわかってるんだ」
曲を解釈する上で、必要以上に作曲家の生涯を結び付けてしまうのは、私の悪い癖でもある。ザシャたちの前できちんと説明ができなかったのは、その自覚があるからだ。ユリウスだけにこうして話しているのは私の甘えでもあるのだ。
「だが、俺はお前の素直な感性と真摯な姿勢は好ましいと思う」
「私、音楽に関しては相当頑固で、意地っ張りで、我が強いと思うけど?」
何せピアノの先生とケンカして教室を変わったことが二度ほどある。そう言うとユリウスはくつくつと笑った。
「確かにお前がごねるのは音楽が絡む時だが……俺はお前が感じたままに伝えていけばいいと思っている。『熱情』も、他の曲も、お前が納得できるようになったら発表すればいい」
そうは言うが、本当は私がバンバン曲集を出して家庭教師もして、その顧客にピアノが売れればヴェッセル商会だって潤うのだ。スラウゼンの新しい工房のことだって考えなければならないだろう。
私も自分の思いにこだわってばかりはいられない。いずれは折り合いをつけなければならない。それがわかっているからこそ、今回は私の甘えだと思うのだ。
「ユリウスは私のことを甘やかしすぎだよ」
「そうか。ならばもっと厳しくせねばならんな」
そういうユリウスの表情は、いつもよりもずっと穏やかだった。