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ピアノの設計図

 マリアの歌声が大聖堂に響き渡る。


「きれいな声ですね。練習を積めば素晴らしい歌手になるでしょうね」

「ええ。この一ヶ月、マリアはとても頑張ってくれたのです」


 八月の半ばを過ぎ、葬儀まであと一ヶ月を切った。


 週に三度の合唱隊も交えた練習は、二週間前から始まり、マリアの声量もどんどん増している。


 今回の曲で私が求めたのは、技巧的な歌声ではなく天に届くような真っすぐな歌声で、マリアは私の要望に十分すぎるほど応えてくれる歌手だった。


 私の隣でマリアの歌声に聞き入っているのは、ライナー改めアロイスだ。髪の色や声は違えど、エルヴェ湖みたいな澄んだ青色の目は印象的で、皆に気付かれてしまうのではないかと私はヒヤヒヤした。しかし不思議なほどに皆は気付かず、新たに加わった演奏家として受け入れられていた。


 今のところ、彼の正体を知っているのはカルステンさんと私だけで、ルイーゼやナディア、プリーモ、ダヴィデも知らされていないようだ。


 ユリウスやケヴィンには私から言ってある。ゲロルトに捕まった時の話をあまり蒸し返したくないとは思ったが、言わずに済ませられるとも思えなかった。


 ユリウスはスラウゼンに新たに作る工房の準備で忙しく、最近は夜しか顔を合わせる時間がない。ケヴィンも仕入れで王都を出てしまい、最近練習に付き添うのはレオンの役目になっていた。


 エルマーは九月に始まるアカデミーの入学を前に、フルーテガルトに帰っていった。エルマーが帰る前に、改めて合格のお祝いが行われ、私も練習したパガニーニを披露した。


 左手ピツィカートはやはりスマートにできず、必死の形相でどうにか演奏した。エルマーとマリアは「おお」だの「ひゃあ」だの、歓声を上げて盛り上がってくれたので私としても大満足だ。


 マリアとレオンは相変わらずで、レオンが揶揄ってはマリアを怒らせる騒がしくも楽しい毎日だ。


「アマネ様、明日の午前にお邪魔してもよろしいでしょうか?」

「慈善演奏会の練習ですよね。大丈夫です」


 私と演奏者たち数名は、シルヴィア嬢からお誘いがあり、今月末に行われる慈善演奏会に出演することになった。


 今回の主催はシルヴィア嬢ではなく、ヴィルヘルミーネ王女だ。場所はこの大聖堂で行われることになっている。


 今回の目玉はなんとピアノだ。ザシャが作ったピアノは、先週支部に運び込まれた。ザシャ自身も王都入りし、支部で試演奏を重ねて最終的な調整が行われた。そのピアノは今、綺麗に片付けられた資料室に置かれている。


 ピアノは充分満足のいく出来で、ユリウスと話し合った結果、慈善演奏会で正式なお披露目をすることになった。


 慈善演奏会では、私がピアノの曲を演奏するのはもちろんだが、マリア、アロイス、ルイーゼ、ナディヤ、プリーモの伴奏もピアノを用いる予定だ。


 これは様々な楽器との組み合わせを楽しんでほしいという私の要望によるものだが、流石に一人で全ての伴奏をするのは難しかったため、チェンバロが得意だというレオンとクリストフ、そしてベルトランにも伴奏をお願いすることにした。マリアをレオンが、ルイーゼをベルトランが、ナディヤとプリーモをクリストフが担当する予定だ。


 レオンは大学の休みが今月いっぱいなので、演奏会に出ると新学期に間に合わなくなる。だが、レオンは葬儀の演奏が聴けないのだから演奏会には出たいと言い張った。きっとマリアの伴奏をして名誉挽回したいのだろう。


 ヴァイオリンの演奏は、最初はカルステンさんにお願いしたのだが、残念なことに断られてしまった。そのカルステンさんの奨めで、アロイスが協力してくれることになったのだった。


 渡り人の世界の音楽を演奏したいというアロイスのために、私が楽譜に起こしたのは、エルガーの『愛の挨拶』だ。後に彼の妻となる女性にエルガーが婚約の証として贈った曲だ。まだ発表前とは言え、婚約を控えたヴィルヘルミーネ王女が主催する慈善演奏会にぴったりだと考えての選曲だった。


「わ、渡り人様……、あの……」

「ルイーゼ、どうしました? …………ああ、またベルトランですか」


 遠慮がちに声をかけてきたルイーゼは、周りを気にしている様子で、左右に不安そうな視線を巡らせている。


 原因はベルトランだ。最近、ベルトランがルイーゼを口説きまくっているのだ。ルイーゼは戸惑っているようで、ナディヤや私のところに逃げてくることが増えていた。


「困りましたね」

「申し訳ございません…………」

「カルステン殿に相談されてみては?」


 アロイスが提案してくるが賛成できない。演奏に関することならばともかく、こういった個人的なことを相談されても、カルステンさんだって困るだろう。


 どうしたものかと視線を巡らせればベルトランとプリーモが話している姿が見えた。距離があるので何を話しているのかは聞こえないが、少し険悪な感じがする。


「本当に困りましたね……」

「プリーモはどうです? 同じテンブルグ出身なのだし、彼は面倒見も良い」


 アロイスの言葉にルイーゼがちょっと泣きそうになっている。うう、こういうのは苦手だ。


「進捗に寄りますが……場合によっては慈善演奏会の伴奏をクリストフに代わってもらいましょう」


 プリーモとベルトランの組み合わせは不安だが、ナディヤならばどうにかなるのではないだろうかと考えて提案してみると、ルイーゼは消え入るような声で「お願いします」と言った。






 ◆






 アロイスの演奏は高い技術に支えられた柔らかい音色が特徴だ。ともすれば耳障りに聴こえてしまう高音も、難なく受け入れられる。


「はあ…………いい音色です」

「ありがとうございます。ですが私は貴女の演奏の方が素晴らしいと思います」


 とんでもない。音色というのは、天性のものがないとまでは言わないが、基本的には技術の上に積み重ねていくものだと思う。私のように演奏に必死になってしまう状態ではまだまだなのだ。


「アロイスさんの音は、女性に好まれる音色だと思います」


 漫画みたいに目がハートになる感じの音だ。慈善演奏会ではご令嬢たちのハートを鷲掴みにすること間違いない。


「アロイス、とお呼びくださいと申し上げましたでしょう? 私には敬称も敬語も不要です」

「無茶言わないでください」


 私の方が年下なのだ。それに私が仕事で敬語を使うのは仕様だ。


「貴女に傷を負わせてしまった私には不要です」


 左目下にひんやりとした感触。傷の下をアロイスの親指が撫でていく。エルヴェ湖みたいな澄んだ青色が揺れている。


「殴ったのはイザークです。アロイスさんのせいではありません」


 私はさりげなく首を逸らし、アロイスの手を躱す。アロイスは意外とスキンシップが多い人らしく、時々こうして顔や手に触れてきたりする。


 ユリウスにしたように殴るわけにもいかないので、伸びてきた手をパシリと掴んだことがあったのだが、そのまま指を絡ませてきて、対応に困ったのは記憶に新しい。アロイスはもしかするとヤンクールかヴァノーネの血が混ざっているのかもしれない。


 律さんに聞いた話だが、ノイマールグントの男性はいかにもゲルマン民族という感じで、スキンシップはもちろんのこと、女性を口説いたりするのも慎重であるらしい。ギルベルト様に関しては例外なので考えてはいけないとも言っていた。


 ヴィムと律さんがいい感じになったのは割と早かったのではと思ったが、それは律さんの恋のハンタースキルによるものだとまゆりさんが言ったので納得した。


 律さんの話を前提に考えると、ヤンクール出身のベルトランはゲルマン民族の中でも特殊と言われるアングロサクソンっぽい。礼儀正しく、それでいて甘い言葉で口説くので、ルイーゼもどう反応してよいのかわからずに困っているのだろう。


 そしてヴァノーネ出身のダヴィデに関しては、思いっきりラテンだろうキミ、という感じで、女性を口説くのが趣味だと周りに目されているぐらいだ。


 ダヴィデは女性が側を通るたびに必ず何かしら声をかけるのだ。髪形が素敵だね、とか、ブラウスが可愛らしいね、とか。ハープのベアトリクスとマルガレータは、最近は声がかからないと、逆に今日の自分はイケてないのかと不安になると言っていた。


 ダヴィデは私が女性と知っていることもあり、ヒヤヒヤさせられることが多く、厳重注意をしたばかりだったりする。


「触れられるのは苦手ですか?」

「どうでしょうか…………意図がわからなくて困ってはいます」

「敬愛、と受け取っていただけると嬉しいのですが」


 敬愛って何だ? 普段使うような言葉ではないのでパッと意味が思いつかない。尊敬とか崇拝とか? この際だからはっきり困ってることを伝えようと思ったのに、そんな風に言われてしまうと突き放しにくい。言葉選びを間違えたかもしれない。


「あの……アロイスさんは、私が女だということを道化師に聞いたのですか?」

「いいえ、イザークです。道化師やゲロルトとは頻繁に会っていたわけではないのですよ」

「どういうことですか?」


 話題を逸らしたくて振った話だったのだが、思わぬ情報が得られた。


「私はゲロルトとは別の商会に言われて貴女を探っておりましたので。イザークとも劇場で初めて会いました」


 アロイスによると、アルフォードが言った通り、顔のホクロが目印であったらしい。ところが劇場に来てみれば、顔にホクロを持つ者が複数いて戸惑ったのだという。


「宮廷楽師ではないのはわかっておりましたし、男性だとも聞いておりましたのでイザークだろうというのは予測できましたが、性別を知らなければ困ったでしょうね」


 宮廷楽師を除けば、顔にホクロを持つのはイザークとルイーゼだ。ルイーゼはユニオンを探っていたのだから、万が一、ルイーゼを仲間だと思って接触していたら、アロイスからすれば困ったことになっていただろう。


「別の商会というのは?」

「ユニオンに所属する商会です。ギルドに復帰したいようでしたが、ゲロルトに怪しまれたのでしょう。誰か楽団に潜ませろと言われて私に声をかけてきたようですが、及び腰でしたね。イザークと接触してからは指示もありませんでした」


 ケヴィンの話を合わせて考えると、ユニオンの穏健派の商会ということになるのかもしれない。


「その商会とは今は……」

「切れておりますからご安心ください。貴女がヴェッセル商会に立替を頼んでくださったおかげです。ユリウス殿にも言われましたが、貴女のために身を粉にして働く所存です。たとえ貴女の視線が私に向けられることがなくとも、私の敬愛は変わりません」


 う、話が戻ってしまった。どうしてこうなった。


 眉根を寄せる私を見て、アロイスがくつくつと笑う。どうやら揶揄われたらしい。私は敬愛の尊敬だのされるような立派な人物ではないし、そもそもこういう会話は苦手なのだから勘弁してほしい。


 そう思って私がため息を吐いた時、工房が騒がしくなった。ザシャの大きな声が聞こえる。


「何かあったのでしょうか?」

「すみません、ちょっと見てきます」


 アロイスに断って工房に向かうと人だかりが出来ていた。中心にいるのはザシャとユリウスだ。ザシャが持っているのは雑誌だろうか?


「なんだよこれ! これ…………火事の時に無くなった設計図じゃねえか!」


 ザシャの悲痛な声が工房に響いた。


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