代わりの演奏者
いよいよ歩いて劇場へ向かう。
今日は途中で律さんのお店にも寄る予定だ。火事で楽屋の衣装が燃えてしまったため、新しい衣装を律さんに作ってもらえないか聞いておかなければならないのだ。
オペラは八月はないが、九月の最初の一週間は公演があると聞いた。今日の劇場での話し合い次第ではあるが、依頼するなら早い方がいい。衣装の費用はケヴィンが王宮からもぎ取った。ゲロルトたちが捕まったら、そっちから回収しろと言って。
整備された石畳をマリアと手を繋いで歩く。ユリウスに散々護衛は付けろと言われたため、ヴィムとレオンも一緒だ。
ラースは今日はお休みだ。本人はいらんと言い張ったが、ずっと私に張り付いていた上にユリウスたちを迎えに行くという強行軍だ。全員に説得されお留守番となった。
今回は御者込みの貸馬車を使い、ケヴィンとユリウスは劇場に向かっている。
この兄弟、なんと二人で馬車に乗るのは初めてだという。まあ男二人で王都の中を移動するなら徒歩が多いんだろうけれど、今回は怪我をしているユリウスがどうしても劇場に行くと言い張ったため、馬車を使うことになった。
兄弟水入らずでよかったねと思ったのだが、二人とも微妙そうで、特にケヴィンはマリアを誘いたそうにしていたのが印象深かった。
「マリアー、そろそろレオンのこと、許してあげようよ」
「レオン嫌い。私の、本、隠した」
「悪かったって……んな怒ることねえじゃん」
大変微笑ましいやり取りだが、この程度で収まっているのはエルマーの取り成しのおかげだ。
レオンはヤンクールの学校に籍を置く16歳だ。年齢からすればエルマーよりも三つ上だが、傍で見る限りはエルマーの方が年上に見えるのは内緒だ。
大学が長期の休暇となり、フルーテガルトに戻る途中、ユリウスたちに偶然拾われたらしい。
そのままフルーテガルトに行くのかと思いきや、そろそろケヴィンも仕入れに出るため、支部で働けとユリウスに言われて着いて来たとのことだ。
レオンは私とはなかなか目を合わせてくれない。ケヴィン曰く「突然おねえちゃんが出来て戸惑ってるんだよ」とのこと。おねえちゃん、いい響きだ。そういうことなら許すよ!
私と目を合わせない分、レオンはマリアにちょっかいを出す。エルマーのようにお兄さんぽく世話を焼けばいいのに、レオンときたら好きな子に意地悪をする小学生のように構うので、マリアにはすっかり敵認定されている。
ちなみにレオンはユリウスと容姿が似ている。ユリウスとケヴィンも似ているのに、ケヴィンとレオンが並ぶとそんなに似ている感じがしないのが不思議だ。
たぶんケヴィンがちょっと目尻が下がっているのに対して、レオンは目尻がシュっと上がっているからではないだろうか。
「ヴィムは律さんに会うの久しぶりでしょ?」
「るせェよ……あれ? ここ、こんな店だったか?」
「まさか道に迷ってる?」
「いや、合ってっけど」
迷うも何も、店を出てから通りを一直線に歩いてきたはずだ。もう少しあるけば広場があり、その一角に劇場がある。
それにしても、その店から漂ってくる独特な香りはものすごく覚えがある。
「これ、コーヒーの香り?」
「なんだ知ってるのか? ヤンクールじゃ結構人気なんだけど、ノイマールグントじゃあんまり好まれないんだよな」
レオンが教えてくれる。マリアも興味が沸いたのか、手を引いて問いかけてきた。
「こーひーって、何?」
「すっげー苦い飲み物。マリアには無理かもなー?」
まったく、そういう言い方をするから嫌われるというのに。ああ、マリアの顔が苦そうだ。
「ミルクとお砂糖をいっぱい入れたらマリアも飲めるかもね」
「アンタ、飲んだことあるの?」
「元の世界でね。すっごくお世話になった飲み物だよ」
窓から中を覗き見ると、学生らしい男が数人いて本を読んでいるようだ。以前フライ・ハイムに行った時、ユリウスは外食の習慣がないと言っていたが、飲み物を提供する店はあるようだ。
「コーヒーって輸入?」
「ああ。ヴァノーネを通じて入ってくる。今度ケヴィンが行くんじゃないか? テンブルグに行くって言ってたし」
「ヴァノーネってテンブルグの南だっけ?」
「そう。あれ? あいつ、アレクシス?」
私と同じように店を覗いたレオンが呟く。どうやら客の一人が友人らしい。
「声、掛けなくていいの?」
「別にいい。兄さんにも寄り道するなって言われてるし」
レオンはケヴィンのことは名前で呼ぶのにユリウスのことは『兄さん』と呼ぶ。この違いって何なのだろう?
「まあ10歳違うし。兄さんは兄さんって感じだけど、ケヴィンはケヴィンじゃん」
なるほどわからん。
「おら、さっさと行くぞ」
「ヴィムは早く律さんに会いたいもんね?」
「るせェ」
揶揄うとヴィムが剥れる。ヴィムのそういうところが律さん的にはかわいいらしいが、私にはさっぱりわからない。
律さんの店は一度広場に出てから右側に伸びる道を少し入るとあるらしい。
通りの店をキョロキョロ見ながら通り過ぎる。
「あれって新聞かな?」
「週に一回発行されるんだ。前は挿絵が多かったらしいけど、文字が読める者が増えたから、字だけになったって聞いた」
レオンが私の質問に答えてくれる。案外律儀な性格なのかもしれない。
「奥にあるのは本?」
「そう。あと雑誌もある。けどそこそこ高い。さっきのコーヒーの店みたいなところで回し読みするんだ」
なるほど。ユリウスとカミラさんが会ったのも、あんな感じの場所だったのかもしれない。
「あのお店は閉まってるのかな?」
「ああ、共同浴場な。この時間は開いてない。いいよなーこの国は。ヤンクールの風呂はあんまり綺麗じゃないんだ」
「え、そうなの?」
レオンによると、ノイマールグントは水が豊富な上に渡り人の影響で清潔な入浴施設が多いのだという。ヤンクールでは共同浴場のような場所があるにはあるが、清潔感がなく、ちょっと怪しげなのでレオンは入ったことがないそうだ。
「じゃあレオンは普段はどうしてるの?」
「俺はノイマールグント出身の貴族の屋敷に泊まってるから。けど周りは匂いを誤魔化すために香水を使うから頭が痛くなるんだ」
貴族のお屋敷に滞在するのはそれなりに気苦労もあるらしが、風呂には代えられないとレオンは言う。
「けどつい最近ヴァノーネから嫁いできたヤンクールの王妃は風呂好きなんだ。そのうち綺麗な共同浴場が増えるかも」
ノイマールグントからヴィルヘルミーネ様が嫁いだら、ヤンクールの風呂好きな王妃様と気が合うかもしれない。
通りを抜けて広場に出ると、露店がたくさんある。多いのはソーセージを焼いている店だ。肉が焼けるじゅうじゅうという音や香ばしい匂いが漂う。
「人通りが多いから、はぐれるんじゃねェぞ」
ヴィムが護衛らしく注意を促す。いつもは馬車から見下ろすばかりだったが、歩く人々の話し声や呼び込みの声を聞き、外にいるんだなと実感する。
広場を抜けて右の通りに入る。ヴェッセル商会がある通りよりもちょっと狭い。少し歩くとヴィムが教えてくれる。
「あそこだ。赤い扉の上に糸車が書いてあんだろ」
「あ、ほんとだ」
フルーテガルトもそうだが、王都も壁に絵が描かれている建物が多い。特に店は看板よりも手軽なのか、ほとんどの店が扱っている商品や連想しやすい物を扉の上に描いている。
「アマネちゃん、いらっしゃぁい」
「お邪魔しまーす……って、あれ? 驚かそうと思ったのに、ひょっとして聞いてました?」
「うふふー。朝にヴィム君が会いに来てくれたもの」
ふうん。私とアルフォードが説教されてる間に、ヴィムはいちゃいちゃしてたんだ?
ちらりとヴィムを見ると、首まで真っ赤にして目を逸らしている。まあ今のところは揶揄わずにいてあげよう。
レオンを紹介して「将来有望ね」というお墨付きをいただいた後、律さんは私を見て微笑んだ。
「アマネちゃん、前に会った時よりちょっとだけふっくらしたんじゃなぁい?」
「さすが律さん! わかります? ちゃんと食べてるのに、みんなガリガリって言うんですよー」
「うふふ、もうちょっとお肉がついたらぁ、ヴェッセル商会の旦那様も喜ぶよぉ。手を怪我したって聞いたけどぉ、アマネちゃんがあぁんなことや、こぉんなことを手伝ってあげないとね」
ユリウスは何でもできてしまうので、私に手伝えることなどあまり思い浮かばないが、出来ることがあるなら頑張ろうと私は頷く。何故かレオンまで赤くなってるけど、もしかして律さんのフェロモンに中てられたのかな?
「そうそう、まゆりんから預かってたのぉ」
律さんが思い出したように私に紙包みを手渡してきた。開けてみると、小さなヘアピン。ビーズで作られた小さな四葉のクローバーが付いている。
「わ、かわいい」
「うふふ、こっちはマリアちゃんにって。まゆりんもマリアちゃんに会ってみたいって言ってたよぉ」
律さんがマリアの前髪にピンを付けてくれる。
「へえ、いいじゃねェか」
「マリア似合ってるよ」
ヴィムと私が褒めるとマリアがレオンをちらっと見た。レオン頑張れ! 挽回のチャンスだよ!
「わ、悪くは、ねえんじゃね?」
うーん。60点かな。ちょっと屈んで目線を合わせていれば及第点だったのに。そっぽ向いて言っちゃダメだよね。
「それよりっ、用があるんだろ! 早くしねーと兄さんに怒られるぞ」
「そうだった! 律さん、お願いがあるんです」
慌てて律さんに事情を話す。昨日の火事はこの界隈でも知られていて、律さんも知っていた。劇場の了解が得られたら、直接話を聞きにいってくれるそうなので、その時はヴィムにも付き添わせようと頭の中にメモしておいた。
「ちょっと遅くなっちゃった?」
「兄さん、ぜってーイライラしてる」
レオンの言葉に朝の説教シーンを思い出す。うー、もう怒られるのは嫌だー。
急ぎ足で劇場に向かうと、息がぜーはーして体力不足を思い知らされた。やはり朝のラジオ体操を実施しなければ。
劇場に着くとユリウスとケヴィンが入り口で待ち構えていた。目が合うとケヴィンが困ったように笑ったので、ユリウスはご立腹中なのかもしれない。
「遅かったかな? ごめんね?」
日本人根性でとりあえず謝ってみる。ユリウスの眉間の皺は深い。当社比で二割増くらいだ。
「寄り道したのではないだろうな?」
「してない、してない」
四人で左右に首を振る。
「菓子をあげると言われて付いて行ったりは……」
「ユリウス! あのね、私、ちっちゃい子じゃないんだよ?」
「俺も子どもじゃないんだけど……」
「いや、俺だって大人の階段上ったっつーか……」
ケヴィンの笑顔が怖い。ヴィムは耳を摘ままれて引っ張られていった。
「中に入ろ? ユリウスも、みんな無事だったんだから怒らないで」
ユリウスをどうにか宥めてようやく劇場に入る。火元である楽屋が見えないせいか、火事があったようには見えない。
会場に入ると、カルステンさんと一人の男性が近づいてきた。
「ユリウス殿、お怪我をされたのですか?」
「ええまあ。大したことはありません」
「そうですか……ミヤハラ殿、第二ヴァイオリンに補充する演奏者を連れてまいりました」
ユリウスの怪我にまで心を配るなんて、カルステンさんってば優しいな。そしてもう代わりの演奏者を連れて来るなんて仕事が早い。さすが私の…………なんだかユリウスの視線がおっかないのはなぜだろう。
「アロイスと申します」
柔らかそうな黒髪を持つその人は、器用に片目を閉じて笑った。
私はハッとカルステンさんを見る。いつもと変わらないカルステンさんだが、目が少しだけ細められている。
「あ…………ミヤハラ、です」
「演奏に参加させていただいても、よろしいでしょうか?」
名前も違う。髪の色も、声も違う。だが、真っすぐに私を見つめるその目はエルヴェ湖みたいな澄んだ青色だ。
「っ、もちろんです」
目頭が熱くて顔が上げられない私は、それだけを言うのが精一杯だった。