新しい家族
「……ま……ちゃ……、……マネ……ん、アマネちゃん!」
ハッと楽譜から顔を上げると、怖い顔をしたケヴィンが私を見ていた。
「アマネちゃん、前より酷くなってない? 全然聞こえてないよね?」
「ごめんなさい…………」
「口だけで謝ったってダメだよ。ちゃんとご飯食べないと」
うう、だって暑くて食べる気がしないのだ。まだ七月の半ばだというのになんでこんなに暑いのか。クーラー、プリーズ…………。
もしくは麺が食べたい。この際熱くてもいい。
「シュペッツレのことでしょうか? テンブルグに伝わる料理なのですが、あいにく作り方は知らないのです」
苦笑してミアが言う。
テンブルグだったらプリーモとかルイーゼとか知ってるかもしれない。
「ここに呼んでもいいって言われてるけど……でもそういう問題じゃないよね? アマネちゃん、食べられないっていうだけじゃないでしょう?」
心配そうに眉を寄せたケヴィンに顔を覗き込まれる。どういう意味だろう?
「あー……、最近のお前は、なんつーか焦ってるって感じがする」
ラースにまでそう言われてしまう。
焦ってる……確かにそうかもしれない。
ユリウスがスラウゼンに行って二日。私がどれだけユリウスを頼りにしていたのか、身に染みた二日間だった。話を聞いて、背中を押して、導いてくれる存在がいるって幸せなことなんだなと実感する。
この二日間は特に来客もなく、私は楽譜とにらめっこする毎日だったが、どうしても考えてしまうことがある。
葬儀まであと約二ヶ月。その後、私はどうするのだろう?
葬儀の演奏が成功すれば、家庭教師の依頼が来るとユリウスは言っていたが、私はフルーテガルトにいたい。フルーテガルトの現状をどうにかしたいという気持ちはもちろんあるけれど、それだけじゃない。たぶん私の甘えだ。ユリウスの側にいたい。側にいてほしい。
だけど寄りかかってしまうのはダメだ。ユリウスみたいになりたい。ユリウスと並んで歩きたい。
そのために私は何をすればいいのだろう。
「兄さんと結婚しちゃえばいいのに」
ケヴィンはそう言うけど、ユリウスにしたらいい迷惑だ。だって私は家の中ですら一人でいられない状態だ。一方的に依存することになるのだ。
「まゆりさんや律さんは、ちゃんと働いてるでしょ? 私も働きたいんだよ。自分でここで生きていけるんだって実感したい」
それに自分が一人で立てないのに、救貧院の子どもたちや困っている人を助けたいだなんて言えない。救いたいと言う資格すらないと思うのだ。
「笑わせんな。おめえの気持ちはわからんでもないがな、飯も食わねえ奴が一人で生きていけるわけねーだろうが!」
珍しくラースが怒っている。わかってる。私が悪い。
「ごめん。気を付ける」
そう言うしかなかった。
◆
その日の午後、救貧院から少女が来た。
少女の名前はマリア。10歳くらいに見えたが12歳だという。文字の読み書きや簡単な計算は教わったようで、ミアから借りた本が無駄にならなくて良かったなと思う。
「楽譜の読み方も覚えなきゃね。発声練習と、チェンバロも覚えた方がいいね」
葬儀までにやることが盛りだくさんだ。マリアのこれからを考えると、ちょっと心が上向く。マリアは私の新しい家族だ。明るい楽しい未来であってほしい。
マリアはといえば、反応は薄く、ミアに借りた本を両手で握り締めている。
「『アメルンとイーダ』、気に入った?」
『アメルンとイーダ』は元の世界で言う『ヘンゼルとグレーテル』によく似た童話だ。よく読めば細部が違うが、魔女が出て来てお菓子の家も出てくる。
「アメルン。おにいちゃん?」
「そうだね……」
「マリアはおにいちゃん、いない」
救貧院の職員の話では、マリアに家族はいない。与える本の選択肢を間違えただろうかと思ったが、この先ずっとそういうものから遠ざけるわけにもいかない。マリアは現実を見据えて生きていかなければならない。私と同じように。
「マリア。私もね、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、会えなくなっちゃったんだ。だから、私がマリアのおねえちゃんになるよ!」
「アマネ、おねえちゃんは不味いだろうが……」
さっきまで怒っていたラースが脱力した様子で言う。
「そっか。でもお兄ちゃんはちょっと嫌だなあ」
「アマネでいいだろ。それかお父さんとか」
「そんなに年は離れてないから!」
マリアと私は13歳差。性別以前の問題だ。
「なんだァ? ユリウスの旦那がいなくてしょぼくれてやがんのかと思ったら、随分楽しそうじゃァねェか」
「エルマー! 早かったね? 夕方に着くって聞いてたよ」
聞きなれた声に振り返れば、夕方に王都に着くと聞いていたエルマーが戸口に立っていて驚いた。エルマーは楽しみすぎてフルーテガルトを早くに発ったのだという。
「おにいちゃん?」
「あ、エルマー、この子はマリア。今日から家族になったんだ」
「聞いてるぜ。アマネの旦那の妹とくりゃァ、おいらの妹も同然ってェもんよ」
まったく、男性陣はなんで妹を欲しがるのか。実際の妹である私からすれば、兄なんてただただ意地悪な存在だというのに。まあ、そういう私も姉や妹という存在には憧れてしまうのだが。
「エルマー、おにいちゃん」
「ふふ、エルマーのこと、気に入った?」
「おいらのところも男ばっかりだからなァ。ん? 本が好きなのかい? そら、あにさまが読んでやろう」
エルマーにマリアを奪われてしまった。
でも、エルマーの兄っぷりはなかなか板についている。髪の色がマリアと似ているせいか、本物の兄妹に見える。でもこの二人、実は一歳しか違わなかったりする。
「ふふ、仲良くなって良かった」
「けど、エルマーの言葉遣いが移ったら困るんじゃねえか?」
江戸の町娘。それも楽しそうだ。
「アマネさん、律さんがお見えですよ」
「あ、上がってもらってください」
ここ二日間の静けさが嘘のような千客万来っぷり。
と言っても、律さんはマリアの洋服を頼むために私が招いたのだ。
マリアはその年頃の女の子の平均よりはだいぶ小さいため、ミアの子どものおさがりがもらえた。しかし葬儀用の服は仕立てなければならない。今日は律さんに採寸してもらうことになっていた。
「アマネちゃん……やっぱり痩せちゃったねぇ」
「あはは……ごめんなさいぃ」
笑って誤魔化したかったが、可愛らしく口を尖らせる律さんにはかなわなかった。
マリアとミアを呼んで四人で部屋に籠る。
「アマネちゃん、お椀型で形はいいんだからぁ、胸が痩せないように気を付けないと」
「もっと言ってさしあげてくださいませ。最近は椅子に座っているとすぐにお尻が痛いとおっしゃるんですよ」
律さんとミアにタッグを組まれてしまった。椅子に座っていられないほど尻肉がすっかり減ってしまった私は、クッションをいくつも重ねていたりする。
「やだぁ、姿勢が悪くなったんじゃなあい? シルヴィアちゃんに怒られちゃうよぉ」
それは困る。マナー教室のシルヴィア嬢はスパルタだ。それにせっかく身に付けたものを失うのはもったいないので気を付けなければ。
「そんな悪い子にはクランプスが来ますわよ」
「うふふ、クランプスってナマハゲみたいなのでしょう? アマネちゃん知ってる?」
知ってます。楽団内にいるらしいです。
「くらんぷす?」
「アマネさんのようにご飯を食べない子や寝ない子を懲らしめる存在ですわ。マリアさんはいい子にできますよね?」
ミアに言われてコクコクとマリアが頷く。なんというか、ミアとデニスって似てるような気がする。
「アマネちゃん、コ・レ♪前に頼まれてた下着だよぉ」
「わ、チューブトップ! 律さんありがとう! 最近暑かったから助かり、ま……す……? ひいぃーっ! コレ! なんてものを持ってくるんですか!!」
「うふふふー、これなら痩せちゃっても調節できるじゃなぁい?」
チューブトップと一緒に手渡されたのはアレだアレ。あの両側を紐で縛る布面積が極端に小さい破廉恥なアレ。
「うわーん、律さんのいじわるーーーっ」
「あらぁ、ヴェッセル商会の旦那様は、こういうのはお嫌いなのぉ?」
「見せる機会なんてあるわけないじゃないですか!」
「えー、アマネちゃん、もうちょっと頑張らないとぉ。ヴィム君は喜んでくれたよぉ?」
うわー、身内じゃないけどいたたまれないから止めてください。
「ヴィムさんにもようやく春が訪れたようで安心いたしました。アマネ様がいらっしゃいますから、お相手のいない男性を周りに置くのは心配ですもの。ラースさんがいつもアマネさんに付いていらしたのは、そういう理由もあってのことだと思いますわ」
「それは違うんじゃないかなあ? ヴィムが王都に慣れてないから……」
「やあねぇ、アマネちゃんったら察しが悪いにもほどがあるよぉ。ヴィム君、護衛なのに私のところに頻繁に来てたからぁ、ヴェッセル商会の旦那様のご意向もあったんだと思うよぉ?」
いやいや、それは流石に考えすぎだろう。
「ねえ、さっきマリアちゃんと一緒にいた男の子。将来有望って感じだよねぇ」
「律さん、貴方と言えどもエルマー君への手出しは許しませんわよ?」
お、律さんとミアのタッグ解消? 女の戦いが今、始まろうとしちゃってます?
「おにいちゃん、マリアのおにいちゃん!」
マリアが参戦するなら私も黙っていられない。呼ばせてあげられないけれど、心はマリアのおねえちゃんなのだ。
「律さん、日本では犯罪ですよ? おまわりさんこの人ですって言っちゃいますよ?」
「やあねぇ、将来有望って言ったじゃなぁい。ちゃあんと待つよ?」
「ややっ、だって律さんにはヴィムという人が!」
「そうですわ! 弟のエルマー君にまで手を出そうなんて、許せませんわ!」
私とミアとマリアの3対1ならば流石の律さんだって諦めてくれるはずだ!
「あらぁ、ヴィム君と兄弟なのぉ? うふふ、兄弟丼なんて、お・い・し・そ・う♪」
ひーーーーーっ! なんですか、そのおいしくなさそうな料理!! よくわからないけど、エルマー逃げてーー! ヴィムは逃げなくていいよ! むしろ熨斗つけて差し上げますから! エルマーは勘弁してあげてください!!
しかしまあ、律さんはいつでも楽しそうだ。健全と言うのは難しいかもしれないが、仕事もして恋(?)もして、『生きている』という感じがする。
「アマネちゃん、いろいろ終わったら、一緒に遊びに行こうねぇ」
私を見て察するところがあったのか、律さんは大人びた表情でそう言った。