救貧院の子どもたち
アーレルスマイアー侯爵の仕事は早かった。
週が明けるとすぐに独唱の選抜が行われることになった。
翌日からスラウゼンに行く予定のユリウスも、その日は準備のために支部にいたので、一緒に子どもたちと会うことになった。
救貧院から来た子どもは五人。全員が女の子だ。
ここに連れてこられるにあたって、おそらく身を清め新しい衣服も与えられたのだろう。救貧院という名前からイメージするものよりはだいぶ身綺麗ではあった。
しかし五人とも頬が痩せこけており、視線もキトキトと落ち着かない。これから恐ろしいことが起こるのではないかと感じているように身を固くしているのがわかる。
この中から選ぶのは一人だけだ。ユリウスが言ったことを噛み締める。
全員を哀れに思って、全員を救おうとしたって、それで何が変わるわけでもない。救貧院には他にも子どもはたくさんいるのだし、救貧院以外にも困っている人はたくさんいるのだ。
子どもたちをミアとマルセルに任せ、まずは引率してきた救貧院の職員に話を聞く。
「赤ん坊のころから救貧院にいる者がほとんどでして、まともな歌を知っている者がおりません。一応、こちらが発した音と同じ音程を唱えられるものを連れてまいりました」
「…………そうでしたか。お手数をおかけしました」
「いえ、誰か一人でも引き取っていただけるならば、お安い御用です。他の者たちの希望にもなりましょう」
こんな話を聞いたら、どうしたって気持ちが揺らいでしまう。私はどうにか冷静であれるよう大きく息を吐いて子どもたちがいる居間へ入る。
チェンバロの前に座り、全員を手招く。
「私の後ろに立って、そう、そんな感じに並んでください。この楽器で音を鳴らします。こんな風に……。みなさんは同じ音を「あー」という声で出してみてください」
1音ずつから始めて、2音、3音と増やしていく。音程も、2度、3度と上げたり下げたり。
音程がいいのは右の子。左の子は声が綺麗だけど音程が下がる時に外れる。右から二番目の子は音域が広い。
だけど、こんな固い気持ちで歌うのなんて、音楽じゃないなと悲しくなってしまう。
ある程度音程を確かめると今度はリズム感を見てみる。子どもたちも少しは慣れて来たのか最初の頃の緊張感がほぐれているようだった。
リズムを真似て手を叩いてもらうと、上手くできなくて苦笑いする子も出てきた。ちょっと我慢できなくなってくる。
真ん中の子がリズム感がいい。打楽器をやらせるといいかもしれない。左から二番目の子は全身を使ってリズムを刻んでいる。歌よりもダンスとか体を動かす方が得意なのかもしれない。
「もう一回歌ってみよう。私が歌うから、同じように歌ってみて」
歌いながら姿勢もちょっとずつ直していく。
「足をもうちょっと開いて、肩は上げないで力を抜いて。顎も上げないでね」
硬かった体がほぐれて、笑顔が少しずつ増えてくる。
「ふふ。もう1回、同じ曲だよ」
歌うのは『SUMM SUMM SUMM』。ドイツの童謡で、日本では『ぶんぶんぶん』。
日本でも有名なドイツの童謡はたくさんある。『ちょうちょ』も『かっこう』も『カエルの合唱』もそうだ。
もう全部歌ってしまおう。あ、でも『ちょうちょ』は駄目だ。
日本の『ちょうちょ』の歌詞は平和だけど、ドイツ語だと長い旅をした子どもを迎える母親が登場する壮大な感動ストーリーだ。みんなにお母さんがいるとは限らないもんね。
たくさん歌って、たくさん笑って。
そうして終わりの時間が来る。
楽しかったね。またね。と手を振って送り出す。
みんなの姿が見えなくなると、私は自分の部屋に駆け込んだ。アルフォードが寄ってくる。
「おねえさん……」
「ううっ……アルフォード…………」
銀色の猫を抱き締める。
駄目だ。無理だ。一人だけなんて選べない。
背後からユリウスの声がする。部屋にカギが付いていないことが恨めしい。
パフッとクッションを投げつける。なんで入ってくるかな!
「わわ、おねえさんっ、ちょっと待って!」
手当たり次第に投げつけようとして、今投げたのがアルフォードだったことに気付いて青くなる。
「わーっ! アルフォードっ、ごめんーーーっ」
銀色の猫はユリウスの肩を蹴って、一回転して着地した。
ほっと息を吐いていると、骨がギシギシするほどに抱き締められた。
「アマネ、泣いていいぞ」
「もう……引っ込んじゃったよ。…………八つ当たりしてごめん」
ユリウスから返事はない。相変わらず骨が軋むほどに抱き締めてくる。
そうだよね。あんなの、誰だって辛いよね。
『全部を一人で救うことは無理だ』
ユリウスの言葉を思い出す。
『救いたいと考える者を増やしたい』
言い様のない感情が込み上げて、胸が詰まって。
私はまたちょっとだけ泣いた。
◆
「右から二番目の、音域が広かった子にしようと思う」
ユリウスの腕が少し緩んだ頃、私は言った。
「お前が決めたのなら、それでいい」
頭の上からユリウスの声が聞こえる。背に回された腕がほどかれて、ようやく解放される。包まれていた熱が無くなって、少しだけ心許ない感じがする。
「アマネ、明日から俺はスラウゼンだ。不在の間にその子どもが支部に来るだろう。お前はちゃんと食事をして、ちゃんと眠って、その子の手本となるように」
「わかってるよ。心配しすぎだよ」
私としてはむしろユリウスが心配だ。まだ会ったことはないけれど、ゲロルトの悪意がユリウスを傷つけるような気がしてならない。
「ミアには同じくらいの年の子どもがいるから、不安があったら聞くといい」
「うん。ミアの子を、ここに呼んでもいいかな?」
「構わない。トラヴェルソとオーボエの娘たちも呼べばいい。お前も気がまぎれるだろう」
テンブルグの文官と話をした翌日、ユリウスはガルブレン様とも会ってナディヤのことも聞いて来たらしい。
どういう話が為されたのか詳細は聞かされていないが、どうしてだか二人を側に置くようにとユリウスは薦めるようになった。
週の終わりまで劇場に行く機会は無いが、次に行った時は二人を誘ってみようと思う。ユリウスがこれほど薦めてくるのだから、正体が気になって仕方がないのだ。
「他のホクロを持つメンバーには気を付けろ。特にハープの演奏者は近づかぬようにしろ」
「何かわかったの?」
「いや。だが、あの男がユニオンの手先だとすれば、カミラが珍しいハープを持って現れたことにも納得がいく。そちらに注意を引き付けて、あの男を受け入れやすくした可能性がある」
言われてみれば、簡単に決めてしまったような気がする。今回使用するものと同じタイプのハープを持っていたことも怪しく見える。劇場のハープが壊されていたことも、タイミングが良すぎる。
「カルステンさん達は? 仲良くしても大丈夫?」
「コンマスと補助二人は問題ない。不本意ではあるが、頼っていい。ヘルムート様も問題ない」
「不本意って、どういうこと?」
「…………お前は知らなくていいことだ」
何故だかユリウスが拗ねているように感じられたが、すぐに話題を変えられてしまう。
「あの渡り人の娘たちも呼んでいいぞ」
「ヴィムがやきもきしそうだけどね」
ユリウスがちょっとだけ笑って、すぐにいつものように眉間に皺を寄せた。
「猫をなるべく側におけ」
「うん。でもユリウスが危ない時は、ちゃんとアルフォードを呼んでね? アルフォードも飛んで行ってくれるよね?」
側で静かに座っているアルフォードに声をかけると、返事の代わりに尻尾がふりふりと揺れた。
「わかっている。その時はラースの側を離れぬように」
スラウゼンは遠い。大急ぎで馬車で駆けても片道四日はかかる。戻ってくるのはどんなに早くても八日後だ。
「さきほど子どもたちと歌っていたのは、向こうの世界の歌か?」
「うん。子ども向けの童謡」
「そうか」
他にもたくさんあるんだよ。ユリウスに聞かせたい。聞いてほしい。
「エルマーの合格祝い、何がいいかな?」
「まだ考えてなかったのか? 三日後には到着するぞ」
「うん。全然思いつかなくて」
なんとなく離れがたくて、どうでもいいことを話してしまう。
「アマネ」
「なに?」
「髪が、伸びたな」
もうちょっとで、この世界に来てから四ヶ月になる。ユリウスに出会ってからも四ヶ月。
「アマネ、お前が心配だ。くれぐれも無茶はするな」
そう言ってユリウスは私にハグをした。きっとこれはユリウスの『お願い』だ。でも私だって『お願い』したい。
ユリウスの神様、ユリウスを守ってね。
私は初めて他人の神に祈った。