ヤンクールとバウムガルト伯爵の領地
劇場から支部に帰ると、ケヴィンが帰って来ていた。
「ケヴィン! 久しぶりだね」
「アマネちゃん、元気だったかい? 火事のことを聞いて心配してたんだ」
立ち話もなんだということで、居間に移動してケヴィンの話を聞く。確かケヴィンは他領を回った後にバウムガルト伯爵の領地スラウゼンに行っていたはずだ。
「小領地を回りながら辺境のマーリッツまで足を延ばしたんだ」
「マーリッツってガルブレン様の領地だよね」
「そうだね。ヤンクールに行く時も通るんだけど、以前とは少し雰囲気が変わったかな」
ガルブレン様の領地であるマーリッツはノイマールグントの西側にあり、ヤンクールとの国境にある。
ケヴィンの話では、ガルブレン様が良政を敷いていることもあって勤勉な民が多く、食糧難の折りも皆で協力して乗り切ったという。
マーリッツの近隣の小領地では未だに不作が続き、民の間では不安が囁かれているのだという。おそらく小領地に縁者がいる者もいるのだろう。
「小領地はどんな感じだったの?」
「良くないね。平地だし川も近いから農業には適しているんだけど、あの辺りは水害が多いから」
「そもそもあのあたりは氾濫原なのだ。戦のどさくさで小領主の先祖が褒章として得たと聞いているが、欲をかくと碌なことにならんという典型だな」
ノイマールグントは日本と違って地震はほとんどない。その代わりと言っては何だが、川が多くて水害が多いらしい。
「足りない食料はユニオンを通じてヤンクールから仕入れているみたいだよ」
「ユニオンは一枚岩ではなかったが……最近はゲロルトが優勢なのか……」
ゲロルトの名前が出て思わず眉を顰めてしまった。ユリウスはケヴィンに言わないのだろうか。
「ゲロルトって過激派の一人だよね。最近ヤンクールの大きな商家と手を結んだって聞いたよ」
ユニオンはギルドのような組織で、複数の商家が所属しており、その中でもいくつか派閥があるらしい。
「主な派閥は穏健派と過激派の二つだね。穏健派は他の商家との親戚関係なんかがあって成り行きでギルドから脱退した者たちの派閥なんだ。だから考え方は商業ギルドと大きく対立しないし、商業ギルド側が受け入れてくれさえすれば戻ってくると思うんだけどね」
「そう簡単ではないぞ。せめて過激派を切り崩せるような情報でも持ってこなければ難しい」
商業ギルドとユニオンの穏健派との溝を決定的なものにしたのが、過激派に所属するゲロルトだったらしい。ユリウスははっきりしたことは言わないが、ぼかした話を察するに、商業ギルドに残っている商家でユニオン側に娘を嫁がせた者たちが、怒り心頭であるらしい。どうやら嫁いだ者たちがゲロルトによって魔女狩りの被害にあったようだ。
ゲロルドのことを考えると、無意識のうちに手足が震えてしまう。ユリウス一人で対応するには質が悪すぎる。
「ところで、スラウゼンはどうだったのだ?」
「バウムガルト伯爵はなかなかよい領主みたいだね。生活はあまり良くないみたいだけど、民からの評判は良かったよ。ただ伯爵家はかなり身を削っているみたい。屋敷の修繕とかは全然手が回ってないみたいだった」
「ふむ。王都の屋敷も最低限の人数で回しているようだ。ベルノルトのことも、おそらくはバウムガルトの窮状を知ったクレーメンス様が、匿う代わりにアンネリーゼ嬢の家庭教師をするように差し向けたのだろう」
頬を染めてはにかむ、ほっそりとしたアンネリーゼ嬢を思い出す。病を癒すためにも費用が嵩んだのだろう。ヴィーラント陛下を殺害したのは間違いなく悪いことだが、同情の余地はあるのかもしれない。私だって家族が病気でお金がなくて治せないなんてことになったら、悪い道に進んでしまう可能性がないとは言えない。
「工房に出来そうな土地はあったか?」
「川まではちょっと距離があるんだけど、撤退した商家の倉庫があった。ギルドを通じて買い手を探しているって」
「では俺の方で問い合わせておこう」
スプルースが採れるのは一月だが、冬の移動が厳しいことを考えれば秋には工房を開いてしまいたいらしい。建物がすでにあるならばその方が早いとユリウスは考えているようだった。
「それで、こっちはどう? 火事の被害はたいしたことなかったって父上から手紙をもらったけど、ユニオンの妨害とかはない?」
「今のところは目立った動きはないが、フルーテガルトにカミラが来ていたようだ。アマネが会った」
驚いたケヴィンが私を心配そうに見る。
「大丈夫。ちょっと話しただけだし、ラースも一緒だったから」
「この支部にも来た。俺も会った」
「一体、何のために?」
「支部へは演奏者として売り込みに来たのたが、フルーテガルトに関しては不明だ。調べたところ一人で宿屋に宿泊していたようだ。訪ねてきた者はいない」
ユリウスにその女性のことを話してからまだ五日しか経ってない。いつの間に調べたのだろう。
「僕が頑張ったんだよ!」
「アルフォードが?」
「え……猫? …………もしかして君が噂のアルプ?」
今まで静かにしていたアルフォードが主張すると、ケヴィンがひどく驚いていた。そういえばケヴィンとアルフォードは初対面だったと思い返す。
「でもどうやって? アルフォードが宿屋に聞き込みに行ったわけじゃないよね?」
「おにいさんに言われて、デニスにお願いしに行ったんだよ」
前回、支部で私の髪をぐちゃぐちゃにした時、アルフォードはデニスに怒られていた。デニスならばアルフォードのことを知っている。
「アルフォード、頑張ったね。遠くに行くのって疲れるんでしょう?」
「寝ればすぐ回復するから平気だよー。でももっと褒めてー」
スリスリとアルフォードが胸元に顔を寄せる。パチパチッと静電気が起きる。
「うわーん、おにいさんーなんとかしてー」
「少しは学習しろ」
「へえ、そうなるんだ? おもしろいね」
ユリウスがアルフォードの首を摘まんで引き離すと、静電気体質がおもしろいのか、ケヴィンがアルフォードをつついた。
「君は兄さんの味方なのかい?」
「今のところはねー。僕はおねえさんの味方だもの」
「ふうん。それは僕の望みでもあるから、利害は一致してるかな。アルフォード君? よろしくね。でも僕の妹の夢を無断で食べようとしたら、鍵穴を塞いでしまうからね」
ケヴィンの言葉を聞いてアルフォードが悲しげに言った。
「食べる以前の問題なんだよ…………」
◆
劇場での個人練習にはケヴィンも同行するようになった。
王都の貸し馬車は御者を除くと二人乗りだ。私とユリウスの馬車はラースが御者をし、ケヴィンとヴィムは徒歩で劇場に向かう。
なんだか申し訳ない気がしたが、ヴィムはまだ馬車に慣れていないため御者ができない。それに王都にも慣れていないため、道を覚えるためにも徒歩の方がいいらしい。
「私もあんまり歩いたことがないんだよね」
「へえ、そうなのか? 俺はこのあいだ渡り人の針子の店に行ったな。あそこら辺までならもう道も覚えたぜ」
「律さんのお店? いいなあ、私も行ってみたいよ」
改めて考えてみると、本当に王都で歩いていないことに気付く。フライ・ハイムに行った時くらいだ。私の運動不足が深刻だ。支部の階段の上り下りで運動不足を解消しようと決意する。
早めに劇場に入り、演奏者が来るのを待つ。前回はギルベルト様の護衛がいたが、今回はどうするのかと思ったら、ギルベルト様が入ってきた。
「ギルベルト様、今日もご見学ですか? 二コルも一緒ですか?」
「二コルは今日は忙しいみたい。振られてしまったよ」
キラキラした笑顔で悲しいことを言うギルベルト様。
「あのー、随分と嬉しそうですが、何かよいことでも?」
「アマネ殿、聞いてくれるかい? 昨日、二コルが足を踏んでくれたんだ」
「はい?」
ギルベルト様が言うには、昨日の劇場からの帰り道、馬車から降りる時に、二コルがバランスを崩してギルベルト様の足を踏んでしまったらしい。ギルベルト様は一体何に目覚めたというのか。
「思わずうっとりしてしまった僕を、二コルがまるで虫けらを見るような目付きで見たんだ」
なんという上級者。
眩しいほどの笑顔で喜んでいるギルベルト様を見て思う。案外二コルとギルベルト様はお似合いなのかもしれない。
もう少し話を聞きたい気もしたが、宮廷楽師のみなさんが到着し、その後ろからバスーン担当のプリーモが入ってきた。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
声をかけると演奏者たちは綺麗に礼を返してくれる。プリーモもそうだが、宮廷楽師の方々は立ち居振る舞いが上品で柔らかい。マナーのよいお手本になりそうだ。
感心しているとプリーモが声をかけてきた。
「昨日、ヘルムート様と一緒に練習したのです。だいぶ慣れてきました」
「それはよかったですね。ヘルムート様は? 一緒ではないのですか?」
「寄るところがあると言ってたので、別々に来ることにしたのです。そろそろ来ると思いますよ」
そんな話をしている間にも、続々と演奏者たちが入ってきて個人練習を始めている。
オーボエのナディヤが黙々と練習しているのを見つけて声をかけに行ってみる。昨日もとても熱心に質問してきてくれたのだ。
「ナディヤさん、新しい楽器には慣れましたか?」
「渡り人様、慣れるまではもう少し時間が必要なようですね。この部分の音階なのですが、どうにも中途半端な感じがしてしまいまして……」
「そうですね。合奏になるとわかるのですが、ここはハープの音階が先にあって、フルートとオーボエが途中から入ってくるのです」
演奏者に配られるのはパート譜なので、曲の全体を掴みにくい。ましてや誰も聞いたことがない曲だ。ある程度個人練習を行ったら、一度合わせてみた方がよいかもしれない。
頭の中で予定を思い浮かべる。
数日間は私も個人練習に顔を出す予定だが、ゲロルトに狙われていることも考慮した結果、その後は演奏者たちが主導となって練習してもらうことになった。合奏からは再び参加するが、当面の練習を任せるパートリーダーやコンサートマスターも決めなければならない。
ヴァイオリンの柔らかい高音が聞こえてくる。第二ヴァイオリンのライナーだ。
「柔らかくて心地よい音色ですね」
「ありがとうございます。ですが合奏では埋もれてしまうのです。ミヤハラ殿、この部分の奏法ですが……」
ライナーの音は合奏では目立たないが、高音は柔らかくて低音は深みがある。アンサンブルか独奏の方が生きる音色だ。質問に答えながら頭の片隅で考える。
まだ二日目だが、パッと見た感じでは弦楽器や金管楽器、打楽器は宮廷楽師が多いので、比較的まとまっているようだ。クラリネットも宮廷楽師が二人、バスーンも友人同士なので問題ないだろう。
問題があるとすれば、オーボエとトラヴェルソだ。どちらも女性が含まれているが、女性陣の方が技術的に上なように感じられる。年下の女性の方が上手いということを、もう一方がどう感じるのか想像がつかない。後でリストを作ってくれたマルセルにも助言をもらいたいところだ。
もう一つ問題になりそうなのがハープだ。調が変えられない以上仕方が無いが、元の世界でも見ることのない六人という大所帯な編成になってしまった。ただ宮廷楽師のハープ奏者がうまく組み合わせを考えてくれたようで、女性二人は別の調になっている。調の違うハープが交互に演奏する箇所が多くあるので、別にしておいた方が一緒に練習しやすいという配慮だろう。
それにしても今日は記号の質問が多い。昨日は渡されたばかりの楽譜から音符を追うのが精いっぱいという感じだったが、楽譜を読み込んできたのだろう。
一人一人の質問に答えながら、気の早い私は合奏が待ち遠しくなった。