ヘンデルは最も偉大だ
「遅い。どこで何をしていたか速やか、かつ、簡潔に言え」
入室と同時に叱責が飛んできて背中がピンと伸びた。
邪魔だと言わんばかりに組まれた長い脚。こつこつと机を叩く骨ばった指。落ち着いた栗色の前髪から覗く標準装備な眉間の皺。角度で色を変えるヘーゼルの目がギロリとこちらに向けられる。
全身で不機嫌を表しながらも、抑揚のない話し方をするこの男が、私を助けたユリウスだ。
「こ、工房地区でリサーチを」
ユリウスの要望通りに速やかかつ簡潔に、そしてにこやかに答える。エルマーのところでお菓子を食べたという余計なことは言わないに限るのだ。
コツコツコツと骨ばった指が刻む音を聞きながら、初めて入った部屋の中を盗み見る。
大きな本棚には経済、音楽、自然科学、哲学、などなど様々な分野の本が詰まっており、机の上には読みかけらしい本が数冊と、書類の束に紛れて小さな箱に入ったボタンがある。そして部屋の隅には黒い鍵盤が並ぶチェンバロが置いてあった。
チェンバロの音も好きだけど、ピアノの音が聞きたい。
そう思うものの、この世界には悲しいことにピアノは存在しない。チェンバロがあるのだからそのうち作られるのかもしれないが、いつになるのか見当もつかない。今度ザシャに頼んでみようと密かに決心する。
そんなよそ事を考えている私を横目に、ユリウスはボタンの箱を引き出しにしまいながら話し始めた。
「渡り人の保護を王宮に報告しなければならない。近々王都に行くことになる。もちろんお前も一緒にだ」
全く予想していなかった内容に目を瞬くばかりの私だったが、ユリウスは構わず続けた。
「王宮へ報告する内容についてだが、お前の発見は二週間前ということにする」
「えーと……どうして?」
「お前を見つけた日、倒れていた場所のすぐ近くで事件があったと教えただろう」
その件についてはザシャやエルマーからも聞いていたが、自分とどう結びつくのかサッパリわからない。
「うん。王様が亡くなったって聞いた」
「公にはなっていないが、不審な点がある」
それは疑いを持たれないようにということだろうか。しかしそんな嘘を言って大丈夫なのだろうか?
「でも、発見日を偽るって言っても、知ってる人は結構いるよね?」
「三週間は外に出なかっただろう? その間お前が居たことを知っているのは俺が信頼する者たちと医者ぐらいだ。演奏も禁じていただろう?」
そういえば起き上がれるようになってからも、一週間前まで外出の許可はもらえなかったし、音楽家だと言った時にもしばらく歌や演奏は控えろと言われたのだった。
「ふうん。まあ私は構わないけど」
いつこちらに来たのかなんて、私にとってはあまり重要なことではない。そんなことよりも気になっていることがあるのだ。
「王宮に報告するってことは、もう演奏しても大丈夫ってこと?」
チェンバロを見ながら指をわきわきさせてしまう。
「そうなるが、なんだその手は気持ち悪い。……まあいい。お前の技術のほどを把握しておかねばならんからな」
やったー! と小躍りしそうになったが、ユリウスの視線が険しくなりかけたのを感じて我慢する。そう睨まなくても壊すわけないのに。
そろそろと歩み寄りチェンバロの前に座ると、ユリウスも私の横に移動してきた。指の動きが見たいのだろう。
さて、何を演奏しようか。
少し考えてさきほど鍛冶屋の前を通ったことを思い出す。あの鍛冶屋は昼寝ばかりしてるみたいだけど。
鍛冶屋繋がりで連想した曲は『調子のよい鍛冶屋』。ヘンデルの『ハープシコード組曲』第5番の終曲『エアと変奏』だった。
ヘンデルはベートーヴェンが最も偉大だと称した作曲家だ。
音楽室の肖像画について散々な感じに言っておいて今更なのだが、私はベートーヴェンが大好きだ。出来ることならば彼と同じ時代に同じ場所に生きたかったと思う程である。
この世界にはベートーヴェンがいないなんて悲しすぎる。どうせなら世界じゃなくて時間を渡りたかった。
そのベートーヴェンをもってして最も偉大と言わしめたヘンデルは、バロック音楽においてバッハと並んで重要なドイツの作曲家だ。曲名に『ハープシコード』というチェンバロの英語名が使われていることからわかる通り、イギリスに帰化している。
この曲は『エアと変奏』とヘンデルが名付けた通り、最初の『エア(アリア)』の部分が少しずつ装飾されていき、最終的には5つのバリエーションまで変化する。
変奏が進むにつれて装飾音が増えて曲が活気づくことから『調子のよい鍛冶屋』という訳語が定着したのだと思う。決してお調子者という意味ではないのだ。
チェンバロはピアノと違って音の強弱がつけられない楽器だが、そうであるにもかかわらず、こんなに多彩な音楽になるのだから感心するよりほかにない。
「…………悪くない」
曲を弾き終えて余韻に浸っていると、ユリウスの静かな声が聞こえた。
しまった! 演奏するのが楽しすぎて、ユリウスの存在をすっかり忘れていた!
でも、一応、お褒めの言葉をいただいたってことでいいのかな? 眉間の皺は相変わらずだし、何だかすごく嫌そうな顔をしているけれど。
ユリウスの指先は、規則的に肘掛けを叩いている。
「なんか、ダメだった……?」
「いや。悪くないと言っただろう」
ユリウスの眉間の皺が深まる。
「でも、なんか機嫌悪そうだし」
「……そんなことはないが?」
どこか気まずそうに私から視線を外したユリウスは、空気を変えるように大きく息を吐きだした。
「チェンバロは問題なさそうだな。他に演奏できる楽器は?」
「ヴァイオリンとビオラもたぶん大丈夫。それからバスーンも。あ、でもキーが付いてないと指が届かないかも?」
作曲家を目指すならもっとたくさんの楽器を知っておいた方がいいのだが、あいにく私には機会がなかった。特に金管はさっぱりだ。
ベートーヴェンは様々な楽器に精通していたが、彼の場合は父親が宮廷歌手で、その仕事仲間である宮廷音楽家たちが家庭教師となり、幼い彼を大層かわいがったというから羨ましい限りだ。
「ヴァイオリンならある。後で部屋に届けるから練習しておけ」
「それは嬉しいけど……演奏会でもするの?」
私にとっては喜ばしい話ではあるが、いつ頃どういう規模で行われるのか、全く説明が足りていないので想像がつかない。
「その可能性は高い。王宮へ行く前にお前を会わせなければならない人物がいる。アーレルスマイアー侯爵だ。お前の件も含めて助言をもらっている」
侯爵ってどのくらい偉いんだっけ? 身分なんて意識することがなかったからピンと来ない。あとでデニスに聞かなくてはと思っていると、そんな私の思考を読んだのかユリウスが説明する。
「アーレルスマイアー侯爵はこの国の宰相だ。うちの古くからの得意先で出資者でもあるが、侯爵の娘が友人たちと共に慈善演奏会を時々開いている。お前に会わせれば出演しろと言われるだろう」
「まあ、それぐらいなら。他の人の演奏も聞いてみたいし」
友人たちというからには、他にも数名の演奏者がいるのだろう。元の世界の偉大な音楽を伝えるという目的がある私としては、この世界の音楽的需要を探っておきたいのだ。
「でも楽譜がね……慣れればなんとかなると思うけど……」
演奏を禁じられた間でも楽譜を見ることはできた。だが貸してもらったこの世界の楽譜は私が知る五線譜ではなかったのだ。全く読めないという程に違うわけではないが、慣れるまでに時間はかかるだろう。
「楽譜については五線譜を広める方向で考えろ。あの記譜法は理にかなっているから広まるだろう」
ユリウスには私の手荷物にあった五線譜の楽譜を見せたことがある。多少教えただけですぐに読めるようになったので、さすが楽器を扱う商会を営む者だと感心したものだ。
「だが、そのためには記譜法を示したものが必要だ」
「あ! 楽典……」
楽典は記譜法を示すためのものだ。演奏記号を始めとした音楽の基礎が詰まった教科書のようなものだが、それを作るとなればかなり骨が折れる。200ページはあったんじゃなかろうか。全部思い出すのは難しいが、よく使う記号の説明だけでもあったほうがいい。
「それと、工房で楽器の改善を行っていると聞いた」
ザシャから聞いたのだろう。別に隠しているわけではないので問題はないが、ユリウスの眼差しが鋭くてちょっと怖い。
「う、うん、ダメだったかな……?」
「問題ないが、報告はするように」
「あー……うん、費用がかかるもんね。後で支払いするからね? 出世払いだけど」
「ほう。出世しなかった時は何をされても文句は言わぬと? ふむ、楽しみにしていよう」
ユリウスはニコリともせずにそう言った。
「が、頑張ります……」
「他に直したい楽器があるなら言え。すべて出世払いにしてやろう」
最終的にはどこかに売り飛ばされるのではないかと冷や汗をかく。
だが簡単に諦められるはずがない。私にはあちらの世界の音楽を伝え広めるという使命があるのだ!
この世界の楽器は元の世界のものとは少し違う。違うというよりも古い。バッハやヘンデルの時代の楽器は、もしかするとこの世界の楽器と似たようなものだったのかもしれないが、ベートーヴェンの時代以降は楽器が大きく発展している。元の世界の音楽を伝えるためには、楽器の改善は外せない命題なのだ。
「冗談はさておき、改善は構わん」
冗談だったのか……。そんな真顔で言われてもわからないよ。声音だって淡々としていて抑揚がないのだから。
「改善した楽器を売って利益を出せばいいだけだからな」
「これからも頼んでいいってこと?」
「だから報告するようにと言っただろう。売価を考えねばならんし、旧モデルを売り切らねばならんからな」
なるほど。改善した楽器を売るなら改善前の楽器を売ってしまわないと売れ残りが発生する。さすが商人。
「アーレルスマイアー侯爵に対してもそうだが、今後も男装ということでいいのだな? 見た目的には問題ないが、下手な言動でバレてしまっては元も子もない」
「う……気を付けます。でも見た目的に問題ないって……もうちょっと別な言い方できないかな?」
「事実だ。いっそのこと年齢も誤魔化したらどうだ? おかしな真似をしても子どもならば許される場合もあるぞ」
ひどい言い様だ。確かに私は童顔だが、さすがに子どもというのは無理があるだろう。100歩譲ってそれが通ったとして、実年齢が30歳になった時にいったい何歳で通るのか、見当もつかない。
30歳なんてきっとすぐだ。25を過ぎたらあっという間だとよく言うではないか。30歳の自分を想像しかけて、そういえば今後のことが大して決まっていないことに気付く。
音楽を伝えるという方針は自分で決めたが、仕事はまだ見つからないし、居候解消の目途もたっていない。王都から戻るまでは猶予がありそうだが、王都にいる間は動けないのだから、念のため相談しておいた方がよいだろう。
「あのさ、王都から戻ってからなん、だけ……ど………………ひいいいぃぃ!」
視線を彷徨わせながら話し出したところでそれに気付いた。扉の隙間できょろりと動く『目玉』。
「……父上、そんなところで立ち聞きしていないで、入ったらどうですか?」
「ユーくん! 立ち聞きだなんて人聞きが悪いよ! パパはただチェンバロの音が楽しそうだなって」
パパ? っていうかユーくん? どっちを先に突っ込めばいいの?
動揺と混乱が渦巻く心をどうにか沈めて聞いた説明によれば、『目玉』の持ち主はユリウスの父君であるらしい。ザシャが言っていた大旦那サマとはこの人のことだろう。
髪や瞳の色は同じだが、顔立ちはユリウスとそれほど似ていない。年齢のせいか目尻が少し下がっており、ウインクがやたら似合いそうな、お茶目なおじさまという印象だ。
「んん゛、あー、あー……アマネちゃん、僕のことはパパって呼んでくれていいんだよ?」
「はあ……パパ、さん……?」
「!!!」
がしっと手を握られてめっちゃ引いてしまう。助けを求めるように見上げれば、ユリウスは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
「……父上、落ち着いてください」
「だってユーくん! パパって! パパって!」
名前を知らないので繰り返してみただけなのだが、この喜びよう。今さらだけど大旦那様と呼んだ方がいいような気がしてきた。
「アマネちゃんっ! 僕たちもう親子だよね?」
「えーっと、一応、私にも家族が……」
「君はうちの子! だよね??」
聞いちゃあいない。元の世界の父よ、ごめんね。このままだと父親がもう1人増えるかもしれない。
「父上、先ほども言いましたが落ち着いてください。うちにはケヴィンとレオンもいるのですから、二人を紹介しなければアマネも決められません」
「そっか! それもそうだね。よし! ケヴィン君とレオン君に手紙を書こう!」
そういうことではないんだけど……というか、ユーくん以外は普通に君付けなんだ?
「ユーく、んぐっ」
試しに呼んでみようとしたら鼻をつままれてしまった。
「次にそれを言おうとしたら口を縫い付ける」
猛獣のような目つきで睨まれて身が竦みあがった。あの目は本気だ。
しかし、今の私には味方がいた。
「ユーくん、乱暴はダメだよ」
静かで穏やかなのに有無を言わせないパパさんの声で、私の鼻は解放されたのだった。