総譜の完成とパート譜
楽譜は設計図である。
誰の言葉だったのか忘れてしまったが、楽譜を書いている時によく思い出す言葉だ。
作曲家は音楽を聴くよりも楽譜を読む方がよりその音楽を知ることができる。そうであるように学ぶのだ。縦の線、横の線、たくさんの楽器が絡み合う様が示されているのが楽譜である。作曲家にとって、それらの線はまるで建築物のように立体的に見えるのだ。
七月まであと一週間ほどのある日、どうにか楽譜と楽典が完成した。
あの火事騒動からは数日経ち、エルマーとマルコもフルーテガルトに戻ってきている。突然ユリウスがフルーテガルトに戻ってきてしまったので心配していたのだが、馬車は支部に残してきたのでそれを使って帰ってきたのだという。
シルヴィア嬢へはその日のうちにデニスと一緒にお詫びとお礼に伺った。ユリウスはパパさんにこってり絞られていたので同行しなかった。パパさんにユリウスの所業を報告したのはもちろん私だ。恨みがましい目で見られたけれど、シルヴィア嬢の前でのとち狂った行為を許すつもりはない。
火事の被害は軽微なもので、作業机や予備の楽器を少し焦がした程度だった。だが私が増やそうと思っていたハープの枠は、広い範囲で焦げ付いた上に水を被ってしまったため、使い物にならなくなってしまった。
ピアノの設計図はどこを探しても出てこなかった。
ザシャはしばらく落ち込んでいたが、頭の中にはしっかりと設計図が描けるのだからと気持ちを切り替え、前にも増してピアノづくりに励んでいる。
「おねえさん、今からおにいさんに呼ばれているんだよね?」
「うん。もうちょっとで王都に行くから。たぶんそのことだと思う」
アルフォードはあの火事の日以降、フルーテガルトに留まってくれている。アンネリーゼ嬢には大変申し訳ないが、私はアルフォードを手放すことが出来なくなってしまっていた。
アルフォードと共に書斎に赴くと、ユリウスが三つの紙束を手渡してきた。
「上の方が宮廷楽師で基本的には演奏に参加させなければならないが、不要な楽器を担当する者は外していいと言われている。二つ目は宮廷歌手のリストだ。一応、経歴は書いてあるが、実際に歌を聞いてから決めてもいい。三つ目の書類がそれ以外の演奏者候補のリストだ」
「演奏者候補って、ヴェッセル商会のお客さんなんだよね?」
「ほとんどはそうだが、アーレルスマイアー侯爵から推薦があった貴族なども含まれている」
もしかすると、シルヴィア嬢の慈善演奏会に参加していた者も含まれているのかもしれないと思い、パラパラと目を通す。名前と担当する楽器、その楽器の演奏歴などが記載してある。小さな字で所感が書かれているものもある。
「わ、すごい細かいね。大変だったんじゃない?」
「ほとんどマルセルが書いた。家庭教師をしていたから教え子も多いのだ」
「すごく助かる。支部に行ったらお礼を言わなきゃ」
私とユリウスは応接セットのようなソファに向かい合い、アルフォードは私の隣で丸くなっている。
「アルフォード、眠いなら戻って寝てていいよ? 部屋までユリウスが送ってくれるだろうし」
「だいじょうぶー。ここでうとうとするから」
アルフォードが私の膝によじ登ってくる。動きに精彩がなく、だいぶ疲れているようで申し訳なくなる。
あの火事の夜以降、私は一人でいることが出来なくなってしまった。どの時点でそうなったのかは定かではないが、シルヴィア嬢の宿屋で寝衣に着替えた時は大丈夫だったはずなので、その後ということになる。
一人になると後ろから手が伸びてくるような気がする。その手から逃げようとすると、火事の夜に一人で階段を上った時のように足がおぼつかない感覚がして動けなくなる。そうして逃げなきゃと焦っているうちに足から力が抜けて膝から崩れ落ちてしまうのだ。
そんなわけで私はアルフォードと一緒に行動しているのだが、アルプは本来、昼間は寝て過ごすものだ。葬儀の曲作りのためにほとんど部屋から出ることがなかった私だが、シルヴィア嬢のマナー教室はまだ続いていたため、どうしても連れまわすことになってしまった。結果アルフォードは寝不足なのだ。
ユリウスやアルフォードは道化師の術ではないかと言っていたが、私にその実感はない。
シルヴィア嬢の元を辞去した後、あの道化師が姿を現したことはユリウスから聞いた。その話の内容も。
私が一人でいられないことに気が付いたのもその後だったので、道化師の術である可能性は高いのだが、前の晩に見た道化師は恰好が普通だったせいか初対面の時よりも怖いという感じはしなかった。
「ごめんね、アルフォード」
アルフォードからの返事はなかったが、背を撫でてあげれば、気持ちよさそうに目を閉じた。
「状態は変わらないか?」
「……うん。何度か試してみたけどダメみたい」
一人用のソファに肘を付いて、反対側の手でひじ掛けをコツコツ叩いていたユリウスが問いかけてくる。
「ラースやヴィムに言っておいたほうがいい」
「そうだね。前みたいに時間が経てば治るかなって思ったけど、アルフォードに負担をかけたくないもの」
「では俺から伝えておく」
いずれ護衛してくれる者たちには言わなければならないと思っていた。だが一人でいられないなんて、子どもみたいで恥ずかしいのだ。時間が解決するなら言わずに済ませたかったが、アルフォードの状態を見ればそうも言っていられない。
「楽典や楽譜は完成したと言ったな」
「うん。でもパート譜はこれからなんだよね」
「パート譜は後でいい。楽典を先に印刷に回すぞ」
ユリウスは王都で紙の手配などの印刷の準備も進めてきたらしい。しかし楽譜の印刷はどうしよう。私が作ったのは総譜で、全てのパートの楽譜が書かれているものだ。通常、総譜は指揮者が使い、演奏者にはパート譜を配る。パート単位ならば印刷に回すほどの枚数にはならないのだ。事前に言っておけばよかったと思いながら、ユリウスに説明する。
「問題ない。葬儀後に総譜を出版すると言っただろう? 利益は国にも治めなければならないが、献呈ということで王宮から許可はもらっている。一応写譜屋も手配しているが、パート譜もお前が作るなら使わなくても構わない」
「え、手配してくれてるの? じゃあお願いしたい。王宮に持っていくのってパート譜が出来てからなのかな?」
コピー機がない時代は写譜屋が大活躍だった。すっかりその存在が頭から抜けていた私は、自分でパート譜を作るつもりでいたのだが、まさか手配してくれているとは思わなかった。
「王宮では初めてお前に依頼するのだから、まずは総譜を見たいだろう。総譜を渡した後に稀にだが修正が入る場合がある。修正を反映した後にパート譜を作ることになる」
「じゃあ演奏者に楽譜が配られるのって、だいぶ先になっちゃうね。大丈夫かなあ」
「葬儀は九月の中旬に決まったそうだ。想定よりも遅いからどうにかなるのではないか?」
九月の早い時期ならば難しいかもしれないが、中旬ならばどうにかなりそうだ。しかしなんでまた遅くなったのだろう?
「次の王で揉めたからな。だがエルヴィン様で決まりそうだ」
「まだ揉めてたんだ? ガルブレン様がクレーメンス様推しで、アーレルスマイアー侯爵がエルヴィン様推しって聞いていたけど、ガルブレン様が折れたってことかな?」
「そうだ。シルヴィア嬢がヤンクールへ嫁ぐことが、ヴィルヘルミーネ様だけでは心もとないと主張していたガルブレン様の説得材料となったのだ」
そういうことだったのか。シルヴィア嬢はヤンクールへ嫁ぐことが貴族の務めだと言っていたが、次王が絡む問題だったとは思いもしなかった。
「シルヴィア嬢が普通の女の子だったら良かったのに……」
「お前の言う普通の女がどんなものか知らないが、貴族でなければあのように教養を身につけられなかったぞ。貴族だからこそ今のシルヴィア嬢が在るのだと思うがな」
ユリウスの言う通りなのかもしれない。人は生まれたままに育つわけではない。育つ過程で変わっていくものだ。だが私にとってはシルヴィア嬢は唯一無二の友人だ。あんな素敵な女の子、そうはいない。シルヴィア嬢が幸せになれなかったら、この世界のありとあらゆるものを呪ってしまいそうな勢いで大好きなのだ。
「ねえユリウス、シルヴィア嬢の縁談の相手ってどんな人だか知ってる?」
「真面目で穏やかな人物だとアーレルスマイアー侯爵から聞いている。案ずるな。侯爵もシルヴィア嬢の幸せを願わぬはずがないだろう?」
「…………いつ頃、ヤンクールに行っちゃうのかな?」
「来年の秋ごろではないか?」
一年とちょっとしたらシルヴィア嬢はお嫁に行っちゃうのか…………あれ? ヴィルヘルミーネ様って14歳? エルヴィン様も14歳ではなかったか?
「ヴィルヘルミーネ様とエルヴィン様はちょうど1歳違いだ。この夏にエルヴィン様は15歳に、ヴィルヘルミーネ様は秋に14歳になる」
ということはヴィルヘルミーネ様は現在13歳? その年齢でもう結婚相手が決まっているとは。自分がこの国の生まれじゃなくて良かったと心底思う。
「生まれがこちらでなかったとしても、元の世界に帰れないのだから大して変わらんだろう? お前が行き遅れであることに変わりはないぞ」
「う……、ユリウスひどい……でもだったらユリウスだって…………」
「俺の話はいい。葬儀後のことは考えたのか? 葬儀の曲が成功した後に、家庭教師の依頼が殺到すると言っただろう? 貴族の家庭教師は通いでも可能だが、旅行などに同行するからな。最初から女であることを言っておいた方が後々問題になるよりマシだと思うが……」
そうだった。考えておけと言われていたのにすっかり忘れていた。ユリウスが言うには女だとバレれば今度は縁談が殺到するらしい。私には全く関係のない話だと思っていただけに戸惑ってしまう。
「女だってバラしても広めないでくれるならいいんだけど」
「その条件に当てはまるのは、アンネリーゼ嬢ぐらいだったのだがな」
バウムガルト伯爵にはもうバレてるのだから。そういえばアンネリーゼ嬢の件はどうなったのだろうか?
「アンネリーゼ嬢にはバウムガルト伯爵が事の次第を話して納得済みだ。ガルブレン様はちょうど王都に来ていたので、俺が話をしてきた」
「じゃあガルブレン様は知ってるの?」
「そういうことだ。あの方ならば口外はしない。口外しても何の得にもならんからな」
双方にバレている上にどちらも口外しないのならば、アンネリーゼ様の家庭教師をやればいいんじゃないだろうか? そう思ってユリウスに言ってみたら雷が落ちた。
「お前は馬鹿か? 噂があった者が頻繁に屋敷を出入りするなど、双方が知っていたとしても許されるはずがなかろう。考えなしにもほどがあるぞ」
馬鹿で考えなしですみませんね。いじけているとユリウスの眉間の皺が深まった。
「王都行きに話を戻すぞ。王都には俺とお前の他にラースとヴィムを同行させる」
「ヴィムも?」
「フルーテガルトが手薄になるのは不味いが、護衛を増やす目途がついた」
どうやら護衛を増やす件はパパさんががんばってくれたようだ。フルーテガルトにある上流階級向けの宿屋から数名の護衛を引き抜くことになったという。フルーテガルトの宿屋はヴィーラント陛下亡き後は閑古鳥が鳴いている状態だ。従業員を減らすことを宿屋のご隠居から相談されたパパさんが、ヴェッセル商会で引き受けることにしたのだという。
「よかった。じゃあ塾も回ってもらえそうだね」
「あそこはレイモンがいるから問題ないが、人手があるに越したことはないからな」
前回のユニオンの嫌がらせを乗り切った実績からか、レイモンに対するユリウスの評価は高い。
「お前、ゲロルトのことをレイモンに聞いたそうだな」
「うん……他に相談できる人がいなくて……」
「まあ、懸命な判断だと言っておこう。他の者には言ってないからな」
「どうして? パパさんには言わないの?」
「父上が知れば刺し違えるとでも言い出すに違いない。母が死んだ時も大変だったのだ。レイモンがいなければレオンを道連れに心中でも図っていただろう」
レオンはユリウスの一番下の弟だ。ユリウスの母親が亡くなった時はまだ9歳で、ユリウスやケヴィンはアカデミーに通っていたため、パパさんと二人でこの家に遺されてしまったのだという。
パパさんの様子があまりにもおかしかったことから、レイモンが泊まり込みで監視したそうだ。道理でユリウスがレイモンを信頼するわけだ。
「他の人には? ラースとかデニスさんとか、ケヴィンだっているじゃない」
「店に迷惑をかけているのが身内だと言えと? ケヴィンにだって重荷になる。あんな悪意を向けられるのは俺一人で十分だ」
「強情すぎるよ! ユリウス一人じゃどうにもならないことだってあるでしょう?」
つい熱くなってしまったが、間違ったことを言っているとは思わない。誰かが知っているというだけで心が軽くなることだってあると思うのだ。
「お前がいるだろう。知ってしまった以上は頼らせてもらうぞ」
「そんな言い方、ずるいよ……それに私が役に立てることなんてほとんどないじゃない」
そう言われてしまっては頼らせない訳にはいかないではないか。それに、そうは言っても私を巻き込むつもりなどユリウスにはないのだと思う。
「そうでもない」
無意識に噛み締めてしまった唇を、ユリウスの指が撫でていく。
思わず私はその手をガシリと掴んでしまった。シルヴィア嬢の目前で行われた凶行が頭を掠めたのだ。
「もー! おねえさんも強情すぎるよ! 僕はいつになったらおねえさんの夢が食べられるのさ!」
私が掴んだユリウスの手は、アルフォードの頭突きに寄って解放されたのだった。