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ジーグルーンの神話

 あと三日もすればユリウスたちが王都から戻ってくるという頃、その事件は起こった。


 葬儀の曲づくりの進捗に満足した私が就寝しようとした時、外から物音が聞こえたのだ。工房の裏からだと思う。猫か何かが入り込んだような、そんな音だった。


 工房に置いてある楽器が心配になった私は、ストールを羽織って部屋の外に出た。ユリウスたちが王都に行った後に泊まり込むようになったヴィムとラースを起こし、二人を伴い様子を見に工房に行く。


 工房の入り口付近までたどり着くと、ふいに何かが焦げるような匂いがした。


「火事だ! ヴィム! 水!」

「お、おう」

「アマネ、大旦那様のところに行って知らせてこい! そのまま大旦那様といろよ!」


 ラースに言われて慌てて踵を返す。


 居住スペースは三階だ。いつもより階段が長く感じられる。足が震えてうまく上れず、何度も踏み外す。カタタン、と最初に聞こえたものに似ている音が遠くに聞こえてさらに震え上がった。


「あ……やだ、ラース! ヴィム!」


 何かがいたのか、出て行ったのか、それともただの風の音なのかはわからない。けれど得体の知れなさに階下の二人が心配で思わず声を上げてしまう。


「何があった?」


 私の声が聞こえたのか、階段の上の方からパパさんが降りてきた。


「工房で、たぶん、火事が」

「火は? 見えていたかい?」

「いいえ、においだけ、でした」


 初めて見る厳しい表情のパパさんに聞かれるまま、震える声でどうにか伝える。


「ラースが、パパさんと、いるようにって」

「そうだね。離れちゃだめだよ。大丈夫だ。火がまだ出てなかったのなら、大事にはならないよ」


 状況を察したパパさんが、少し落ち着きを取り戻したのか、震える私を安心させるように言う。


 ほどなくしてラースが戻って来て被害の状況を教えてくれた。


「建物の被害はほとんどなかった。工房内の紙とあとはハープの枠だと思うが、燃えたのはそれぐらいだ」

「広がらなくてよかった。ヴィム君は?」

「デニスさんを呼びに行かせてます。そろそろ来るんじゃねえかな」


 ラースがそう言い終わる前に、階下でバタバタと人の足音がして、デニスとザシャがヴィムと一緒に階段を駆け上ってきた。


「アマネっ! 無事か?」


 顔色を青くしたザシャがぎゅうぎゅうと手を握ってくれて、ようやく私の震えも治まった。


「ありがと。ザシャ、早かったね? 近くにいたの?」

「ああ、俺、忘れ物しちまって、戻ってくる途中だったんだ。けど火の始末はきっちりしてあるはずだぜ。木を扱ってるから、そういうのには気を付けてるし、残ってたのはカミルだったからな」


 カミルというのはザシャよりも少し若い職人で、ケヴィンの友人であるらしい。カミルは火事で兄弟を亡くしており、火の始末には人一倍気を配るのだという。


「だが燃えてんのは中だけだぞ。外側に被害はねえんだ」

「ラース、私が聞いた音は最初はたぶん外からだったよ。店の裏手の方」

「ひょっとして、あそこじゃねえか? 工房の裏に壁が外れるところがあるんだ。荷を出し入れする時に使うんだけどよ、アマネくらい細けりゃギリギリ通り抜けられるな。普通の大人は通れねえからか、鍵はついてねえんだ」


 見に行ってくるというラースたちについて行こうとすると、デニスに止められた。


「アマネさんは大旦那様と居間にいてください。お茶を入れますから。ヴィム君はお二人についていてあげてください」

「アマネ、後で戻ってくるから、心配すんな」

「うん、気を付けてね」


 動き出そうとしてようやく気付いたのだが、体の震えは戻ったものの足はまだかくかくと震えていた。ついて行こうにも階段から転がり落ちる未来しかみえない私は、デニスの言うことを聞いて大人しく居間で待つことにする。


 しばらくすると、カタタン、と微かな音がした。少し間を開けてもう一度カタタンと音がする。


「あ、今の音です。二番目の音が最初に聞こえた音で、一番目の音が階段で聞いた音だと思います」

「音って…………ヴィム君、聴こえたかい?」

「いや、全然」


 結構はっきり聞こえたと思うのだが、二人は聞こえなかったらしい。自分の地獄耳っぷりに苦笑するしかない。


「アマネちゃん、本当に耳がいいんだねぇ」

「生まれつきみたいです。赤ちゃんの時はちょっとの物音でわあわあ泣いて大変だったって母が言ってました」

「話し声も聞こえんのか?」

「うーん、聞こうと思えば聞けなくもないんだけど、何を話しているのかは聞き取れないことの方が多いかな。兄は防衛本能じゃないかって言ってたけど、自分じゃよくわかんなくて」

「きっとアマネさんはジーグルーンなのですよ」


 雑談で気を紛らわしていると、デニスがお茶を持って入ってきた。


「ジーグルーンってムズィーク・ムンダルナの? 懐かしいねぇ。子どもの頃に寝物語でよく聞かされたよ」

「ヴィム、知ってる?」

「いや、聞いたことねェな」

「ジーア神話ですよ。昔は親が子どもを寝かしつける時に話して聞かせたものですが、そういえば最近はあまり聞きませんね」


 そう言ってデニスが物語をかいつまんで教えてくれた。


 その昔、一本の大きな木があった。この木をウェルトバウムという。ウェルトバウムは三本の大きな根を持ち、それぞれが神々の国、死者の国、生き物の国にある泉に繋がっていた。


 神々の国には三人の女神がおり、毎日ウェルトバウムに水を与えた。水を与えられたウェルトバウムは枝を震わせて、それはそれは美しい音を奏でた。この音はムズィーク・ムンダルナと呼ばれるようになった。ムズィーク・ムンダルナは神々の国と死者の国に属する者には聞こえたが、生き物の国の者は聞くことができなかった。


 生き物の国にある泉のほとりに、ある娘が住んでいた。その娘はどうしてだかムズィーク・ムンダルナを聞くことができた。そしてその音色を真似るように毎日泉のほとりで歌った。生き物の国の住人たちは娘の美しい歌声を聞き、これがムズィーク・ムンダルナかと大層喜んだ。


 ある時、その歌声に聞き惚れた水の神が娘に会いに来た。二人はたちまち恋に落ち、やがて結ばれ神々の国で暮らすようになった。


 娘の歌声を聞くことができなくなった生き物の国の人々は嘆き悲しんだ。


 気の毒に思った水の神は、時々ウェルトバウムの根元に妻を連れて行って歌わせた。歌はウェルトバウムの根を伝って枝を震わせ、三つの国に音が鳴り響くようになった。


 しかし生き物の国ではどうしてだか歌が聞こえるのは一部の娘だけだった。この娘たちを水の神に愛された娘の名前からジーグルーンと呼ぶようになったという。


「じゃあ、時々聞こえる不思議な音はジーグルーンの歌声なのかな?」

「我々には聞こえませんのでムズィーク・ムンダルナなのではございませんか? ジーグルーンはムズィーク・ムンダルナを真似て歌う存在です」

「ジーグルーンが音痴だったらどうなるんだ?」


 夢のないヴィムの発言に、パパさんやデニスは肩を落とす。


「音痴って治る場合もあるよ?」

「そうなのか? どうやってだ!?」


 ヴィムの勢いに私は思わず仰け反ってしまうが、この反応には少しだけ心当たりがある。


「ひょっとして、ヴィム、音痴?」

「ち、ちげェっての……」

「ふーん、まあどっちでもいいけど。音痴には二種類あってね、病気の場合と発達の遅れの場合があるんだよ。病気の場合は難しいけど、発達の遅れの場合は……」


 慌てるヴィムを微笑ましく思い、治す方法を教えようとした時、ザシャとラースが戻ってきた。ザシャの顔色が酷い。


「ザシャ、大丈夫?」

「あ、ああ…………アマネ、ごめん……」

「どうしたの? 何かあったの?」


 顔色を失っているザシャが心配で駆け寄ると、隣にいたラースが険しい表情のまま言った。


「楽器の設計図がなくなってるらしい。燃えた紙の中に混ざってた可能性もあるが、ザシャが言うには違うらしい」

「楽器って……もしかして」

「…………ピアノの設計図が、無くなってるんだ」


 ザシャの抑揚のない声に周りが一瞬静まり返る。沈黙を破ったのはパパさんだった。


「デニス、王都に連絡を。陽が昇ったらすぐ出られるようにしておいてくれ」

「かしこまりました」

「ラースは馬車の準備を。ザシャ君は燃えた物をもう一度確認して」

「どこに行くんだ?」

「シルヴィア嬢のところだよ。アマネちゃん、準備しておいで。ヴィム君はついていてあげて。着替えの時も後ろを向いて近くにいるように。振り返ったら削ぎ落すからね」


 穏やかな声音で恐ろしい発言をするパパさんに、ヴィムが震え上がるのが見えたが、そんなことを構っている余裕は私にはなかった。


「パパさんっ、私、」

「女性が近くにいた方が安心だろう? 女の子の格好をしておいで。おかしな噂が立つとシルヴィア嬢にご迷惑だからね」

「でも、私ここにいたいっ。一人だけ蚊帳の外なんて嫌ですっ」

「聞き分けておくれ。君がいると誰かが護衛につかなければならない。シルヴィア嬢のところならたくさん護衛がいるからね。わかったことは必ず知らせるし、安全が確保できたら迎えをやるから」

「…………わかりました」


 そう返事をするしかなかった。


 馬に慣れていないヴィムからラースに護衛を交代して、シルヴィア嬢が宿泊している宿に向かう。普段は徒歩で通っているのだが、夜中に歩かせるわけにはいかないとパパさんは言った。


「デニスさん、すみません。付き合わせてしまって」

「構いませんよ。連絡用の封書は準備できましたから、私は手が空いているのですよ」

「でも人手が足りないのに……」


 ヴィムが護衛に加わったとはいえ、まだ全てを任せられる状態ではない。ユリウスとアマネ、私設塾に店に工房と必要な護衛を数えれば、今の三人だけではどうしたって足りないのだ。


「旦那様は増やしたいようですが、誰でもいいというわけにはまいりませんからね。ヴィム君みたいに信頼できる者がいればいいのですが、すぐには補充できないでしょうね」

「背後にユニオンがいるかもしれないってことですか?」

「そうですね。一人一人を調べるのは骨ですから。さて、着いたようですね」


 暗闇に包まれているだろうと予測した宿屋は、灯りが灯されていて驚く。先触れでも出してくれたのだろうかとデニスを見れば、不可解そうに入り口を見ていた。


「おかしいですね。急な来客でもあったのでしょうか」


 どうやら先触れは出していないらしい。少し警戒しながら中に入って取次ぎを頼むと、シルヴィア嬢の従者が出て来る。事情を話して、こちらでお待ちくださいと通された部屋には先客がいた。


 その人物は一人用のソファに足を組んで座り、肘を付いて目を閉じている。年の頃は20と半ばくらいだろうか。男性が女性を訪れる時間としては不適切な時間帯だというのに、一体何の用だろうと訝しく思うが、その横顔になんとなく見覚えがあるような気がする。


 私とデニスが入室したことに気が付いたのか、その人物が目を開ける。私たちを見ると少し目を細め、優雅な所作でソファから立ち上がった。


「こんばんは。いい夜だ、ね。今日はナイトは一緒じゃないのかい?」


 声を聴いた途端、私はその人物を思い出し、警戒レベルを最高値まで上げた。


「宮廷、道化師……」

「フフフ、覚えていてくれたのかい?」


 道化師はまるで役者のように腕を広げて綺麗にお辞儀をしてみせる。しかし今日の道化師は前回とは違い、白いシャツに黒いズボンと普通の格好だ。眼の縁にも色は塗られておらず、美丈夫と言っていい容姿で、前回のような奇抜さは影を潜めている。


「なぜ、ここに?」

「僕は道化師だから、どこにいてもおかしくないし、どこにいてもおかしいのさ」


 はぐらかすような口ぶりにイライラするが、ここで騒ぐわけにもいかない。隣のデニスは『宮廷道化師』という言葉を聞いた瞬間から、私と同じように警戒しており、厳しい目つきで男を注視している。


 妙な緊張感が漂う中、カツカツと靴音高くシルヴィア嬢が入ってきた。髪は一つに纏められているものの結い上げられてはおらず、簡素なドレスにガウンのような上着を羽織っている。


「お待たせして申し訳ございません。大変でしたわね」

「シルヴィア様。夜分に申し訳ございません」

「お気になさらないで。事情は伺っております。部屋を用意させましたので、移動しましょう」


 別の部屋へ誘導しようとするシルヴィア嬢に私は困惑する。シルヴィア嬢は先に待っていたはずの道化師を全く見ようとしないのだ。


「あの……、そちらの方はよろしいのですか?」

「問題ございませんわ。このような時間に、ほとんど知らぬような殿方が女性を訪ねてくるなど、非常識にもほどがありますわ」


 シルヴィア嬢は忌々し気にそう言い捨てた。部屋に入ってきた時の様子からも伺えたが、とても怒っているようだ。


「デニスさん、大丈夫ですから戻ってください」

「しかし……」


 デニスは決めかねているようだが、そもそも人手が足りないからここに来たのだ。それにデニスはヴェッセル商会に戻りがてら、親方たちの家を回るとも聞いている。


「ご安心なさいな。アーレルスマイアーの護衛や侍従は、みな身元がしっかりしていますもの」


 シルヴィア嬢にこう言われてしまえばデニスとしても帰らざるを得ない。


「くれぐれも警戒を怠りませんよう」


 デニスはそう念を押して帰っていった。


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