アンネリーゼ嬢の初恋
シルヴィア嬢に散々尋問を受けたザシャは疲れ切って帰っていった。
私はと言えば、シルヴィア嬢に昼食をお誘いいただき、マナー教室の前哨戦とばかりにあれこれ指摘されながら昼食を食べた。今はレッスン前に疲れ切った私のために、休憩を兼ねたティータイム中だ。
「アマネ様、不躾なことを伺ってもよろしいかしら?」
「なんでしょうか?」
「あの、さきほどの殿方とアマネ様は、どういったご関係ですの?」
「はい? ……どういったとは?」
突然シルヴィア様から聞かれた内容に、私は困惑してしまう。シルヴィア嬢は私が女だと知らないはずだ。なのにザシャとの関係を問われるとは、何か誤解があるのではないだろうか。
「なんて言ったらよいのかしら? あの職人のアマネ様に対する振る舞いが、どこか女性に対するもののように見えたんですの」
「…………気のせいではございませんか? 私はこの通り、男ですし」
「そう、ですわね…………。わたくしの勘違いですわね」
女の感って怖い。シルヴィア嬢が御明察すぎて心の中でめちゃくちゃ焦る。動揺がひどくて顔が引きつっているような気がするが、どうにか笑顔をキープして話題を逸らせようと頭を働かせる。
「あの、シルヴィア様。ええと、アンネリーゼ様はどうしていらっしゃるかご存じありませんか?」
慌てた私は適当に共通の知人の名前を出して話題を振ってみた。
「アンネリーゼ様、ですか? バウムガルト伯爵のご息女の?」
「ええ。シルヴィア様にお招きいただいた演奏会にいらしてましたよね。その時に少しお話をさせていただいたのです」
「まあ、そうでしたの。かわいらしいお方ですわよね。あの時は病み上がりでしたけれど、あれから少し時間が経ちましたもの。順調に回復なさっていれば、ますます可愛らしくなっているはずですわ」
私は病み上がりのアンネリーゼ嬢しか知らないのだが、シルヴィア嬢は元から知り合いだったらしい。アンネリーゼ嬢が臥せる前は、演奏会にもよく顔を出していたそうだ。
「マーリッツ辺境伯からご子息の婿入りの申し出があったとも伺っておりますわ」
「もう話が広まっているのですか?」
アンネリーゼ嬢の意思が無視されていないか心配で、私は無意識のうちに眉を曇らせた。
「あら、わたくしとしたことが、余計なことを申し上げましたわね。アマネ様、申し訳ございません」
「いえ、シルヴィア様が謝るようなことでは……。ええと、実はアンネリーゼ様に猫を差し上げたんです」
「もしかして、アマネ様の演奏の時にいらした猫ですの? あら、そういえば、最近アーレルスマイアーの屋敷でもあの時の猫によく似た猫を見かけましたのよ」
それってアルフォードではないだろうか? もしかするとバウムガルト伯爵、もしくはユニオンに動きがあったのかもしれない。
「わたくしの縁談相手は犬を飼っていらっしゃるみたいですの」
「そうなのですか? ヤンクールの方ですよね?」
「ええ。最近はそうでもないのですけれど、猫はどうしても魔女のイメージがありますでしょう? ですから貴族は犬を飼う者が多いんですのよ。狩りにも連れてまいりますから」
そうだったのか……。そういう独特な慣習はこの世界に慣れない私にはわからないものだ。しかしユリウスなら知っていただろうに。アンネリーゼ嬢は大丈夫だろうか。
「けれどアンネリーゼ様のお母さまも猫を飼っていらっしゃいましたから、アンネリーゼ様は喜ばれたでしょうね。お母さまが亡くなられた時にいなくなってしまったと悲しんでおられましたもの」
「そうだったのですか。可愛がってもらえればありがたいです。あの、シルヴィア様、ご縁談の相手の方はどういった方なのですか?」
アルフォードのことも気にはなるが、シルヴィア嬢はおそらく何も知らない。待っていればそのうちユリウスから話があるだろう。それよりも、シルヴィア嬢が嫁がれることの方が気がかりだ。
「ヤンクールの東側に領地をお持ちの方のようですわ。ヴィルヘルミーネ様のお側にいなければなりませんから、普段は王都にいることになるでしょうけれど、わたくしとしては少しでもノイマールグントに近くて安心しておりますわ」
「そうでしょうね。私もいずれヤンクールに行ってみたいです」
「ふふ、アマネ様なら歓迎いたしますわよ。どうせならユリウスと一緒にお出でなさいませ」
それはまずいのではないだろうか? そもそもユリウスが首を縦に振るとは思えない。
「ご安心くださいな。誤解されるような言動は慎まなければならないとわかっておりますわ。でもわたくしがどんなに幸せなのかをユリウスに見せなくてはね」
「そういうことなら、クビに縄をつけてでも連れてまいりましょう」
気丈に微笑まれるシルヴィア嬢を見て、やっぱりこのご令嬢が大好きだと私は実感した。
◆
その夜、そろそろ寝ようかと楽譜を片付けていた私は、急ぎの用だとユリウスの書斎に呼び出された。
「アルフォード! 会いたかったよー」
「おねえさーん、僕も会いたかった―」
抱き上げるとスリスリと胸元に鼻を擦りつける銀猫。しかし、もうそろそろ暑くなる季節だと言うのに、どういうわけだか静電気がパチパチと発生する。アルフォードって静電気体質なのだろうか?
ユリウスがアルフォードの首の後ろを摘まんで引き剥がし、薄いストールを私に巻き付けてくる。
「ユリウス、暑いよ……」
「寝衣1枚で部屋から出るなど、お前は自分が女だという自覚がないのか?」
「おにいさん! もう、いい加減にどうにかしちゃいなよー」
ユリウスは何故か怒っていたが、アルフォードもユリウスに八つ当たりをしている。
「知ったことか。それよりも報告しろ」
「みんなアルプ使いが荒いよ! 侯爵も忙しいから自分で報告に行けって言ってさ……わかったって、おにいさん睨まないで!」
アルフォードの抗議を無視してユリウスは「早く言え」と急かした。
「えーとね、バウムガルトの屋敷にユニオンの人が来てたよ」
「一人か? どういう人物だった?」
「二人だよ。一人は女の人だったけど、ベール付きの帽子を被ってたから顔は見えなかった」
アルフォードの言葉にユリウスは眉間の皺を深くして考え込んでいる。コツコツと長い指が机を叩く。最初の頃は不機嫌な時の癖だと思っていたが、今は考え事をしているときの癖だと知っている。
「もう一人は? どんな人物だったかわかるか?」
「うん。10代に見えたよ? 女の子みたいだった。おにいさんとおんなじ髪の色でー、目は赤っぽい色に見えたよ」
「ふむ。バウムガルト伯爵が言っていた通り、ゲロルトだな」
ゲロルト? 初めて聞く名だが、ユリウスは知っている人物であるらしい。
「話の内容は?」
「渡り人の少年って言ってたけど、たぶんおねえさんのことだと思う。アンネリーゼ嬢を使って誘き出せないかって。辺境伯の息子に知られたくないのだろうって脅してたよ」
「辺境伯の息子さん? 知られたくないって何を?」
首を傾げる私に爆弾発言を投下したのはアルフォードだった。
「そっか、おねえさんたちは知らないんだった。アンネリーゼ嬢、おねえさんに恋しちゃってるみたいだよ」
なんですと? 恋? 恋ってなんだ? あの恋か? あんな可愛らしいお嬢さんに恋されちゃうなんてラッキー? いやいや落ち着け。女だから私。自分で間違えちゃだめだ。
愕然とする私の横で、ユリウスがニヤリと笑った。
「ほーう、それはおもしろいな」
「いやいやおにいさん、絵面としては楽しいけどさー。女の子同士じゃ夢が食べられないままだからね」
「何の話? ねえ、ほんと何言ってんの? 意味がわからないよ!」
「お前の自業自得だろう? さて、惚れさせた責任をどう取るつもりだ?」
嫌な汗がだらだらと流れてくる。責任って一体どうすればいいのか。
「ででででもっ、アンネリーゼ嬢とお話したのなんて、ほんのちょっとの時間だよ?」
アンネリーゼ嬢とは演奏会前の挨拶と、演奏会後のパーティでちょっと話しただけだ。侍従長が来て移動したから時間的には15分もなかったはずだ。
「それに伯爵は私が女だって知ってるよね? ナマ着替えの時もいたもんね?」
「馬鹿者、よく考えろ。ゲロルトが知っているということは、マーリッツまでは流石に届いていないだろうが、それなりに広まっている話ということだ。今さら伯爵がアンネリーゼ嬢の説得に成功したとしても、脅しの効果がなくなるわけではない」
「そうなんだよね。侯爵は噂を知ってたみたいだよ」
まずい。私は今日シルヴィア嬢と何を話した? アンネリーゼ嬢の話をしなかったか?
「どうしよう……シルヴィア嬢にアンネリーゼ嬢はどうしてるかって聞いちゃったよ……」
「侯爵はお前の性別を知っているからいいとして、シルヴィア嬢がアンネリーゼ嬢の状態を知ったら……フッ、見ものだな」
「あああ、私、アンネリーゼ嬢の縁談の話が出た時、悲しい顔しちゃったかも。本人の意思が無視されてないかなーって心配だったから…………」
ニヤニヤを止めないユリウスを余所に、私は一人顔を青くする。余計なことを言ったと謝罪したシルヴィア嬢はどう思っただろうか。
「クッ、なるほど? そんなことがあったのか」
「ユリウス……楽しんでない? 他人事だと思って。ひどいよ……」
「助けてほしければ『お願い』してみたらどうだ? 聞いてやらんこともないぞ?」
他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ。ユリウスはひどく楽しそうだ。こんな時に『お願い』を要求されるなんて屈辱だ。しかし私に解決策など浮かぶはずもなかった。
「うぅぅ……お願いします、助けてください」
羞恥で顔が熱い私は、ユリウスに巻き付けられたストールを握り締め、恨みがましい目でそう言うしかなかった。
「ふむ…………もう少し可愛げがあるといいのだが。まあいい」
「おにいさん、いい趣味してるよね」
「黙れ。そんなことよりもバウムガルトはどう返事をしたのだ?」
「時間をくれって言ってたよ」
「妥当なところだな」
断るでもなく保留か。まあ断ったらアンネリーゼ嬢が傷つくことになるかもしれないのだから仕方がない。惚れた腫れたはともかく、ユニオンのせいでアンネリーゼ嬢が悲しい思いをするのは嫌だ。
「だがのんびりしているわけにもいかぬ。アマネ、とりあえず次の王都行きは取り止めだ」
「うぅっ、そうなっちゃうよね……」
アルフォードには会えたからいいが、まゆりさんや針子さんに会いたかった。ユニオンめ、一生恨んでやる!
「エルマーの試験もあるから俺は行かねばならんが、その間フルーテガルトが手薄になるな。護衛を増やさねばなるまい」
「ユリウスは行くの? ずるいっ!」
諦めきれない私がごねるとユリウスが視線を険しくした。
「馬鹿者、そろそろ歌手や演奏者も決めねばならんのだ。宮廷楽師の編成も確認せねばならん。編成表は先に出せるか?」
「出せるけど……でも独唱を決めるなら私も行きたいよ」
わがままを言っている自覚はあるが、独唱に関しては譲れない。侍従長と話した時にヴェッセル商会に集めてもらえとは言われたし、そのつもりではいるけれど、独唱だけはこだわりたかった。
粘る私に眉間に皺を寄せつつもユリウスは説明する。
「独唱は宮廷歌手に頼む予定だ」
「だとしても、複数から選ぶんでしょ? 私も確認したい」
だってそれは本来私の仕事であるはずだ。
「まったくお前は。音楽が絡むと周りが見えなくなるといい加減に自覚しろ」
「わかってるよ。だけどソリストを決めるのは私の仕事だよ。演奏者だって経歴ぐらいは目を通しておきたいよ」
ユリウスが深い深いため息を吐いた。コツコツとテーブルを叩く音がする。
「演奏者はこちらでリストアップする。王都で資料を纏めて声だけはかけておくが、最終的にはお前が決めろ。独唱は今回の王都行きでは決めずにおく。別に時間を設けるから曲を早めに仕上げろ」
「っ、わかった! ユリウスありがとう!」
「もー、そこは抱き着かなきゃ。おねえさん、わかってないなー」
熱くなりすぎてすっかり存在を忘れていたが、アルフォードがまだいたのだった。しかし抱き着くって、何を言っているのか。普段は男装しているとはいえ私はいい年をした女だ。
「アルフォード、私、小さい子じゃないんだよ?」
私を子どもだと思っているのではとアルフォードに言えば、やれやれというように首を振る猫。
「この国ではそれが習慣なんだよ? おねえさん、今からでも遅くないから、ほらほらぎゅーってしよう? ちゅーも忘れちゃだめだよ?」
「え、ハグの習慣があるの?」
アメリカでもハグの習慣はあった。ドイツの場合はあまりハグはしないが全くしないというわけでもない。フランスではハグをして三回キスをするという話を聞いたこともある。国によって習慣は違うのだ。アルフォードが言うのならこの国ではきっとハグとキスはセットの習慣なのだろう。
「ユリウス、ありがと」
日本にはない習慣なのでどうしても照れが入ってしまうが、どうにかこうにかぎゅーっとハグをして頬にキスをしてみた。ユリウスが座っているので覆いかぶさるような形になり、ストールがはらりとほどける。
ちなみに軽くハグすると嫌々しているように見えるらしい。アメリカ留学時代の友人に言われたことがあるので、きちんとぎゅーする。
「……別に構わん。『お願い』もそれぐら可愛げがあればいいのだがな」
憎まれ口をたたくのはどの口かな? そもそも『お願い』はユリウスが強要したものだ。あんなに屈辱的だったのにハグまで強要されたら、拳で語り合うしかないと思うのは私だけだろうか?
ムッとして私が離れようとした時、頬にキスが返ってきた。