マナー教室
季節は六月に入り、葬儀の曲も順調に進んでいた。
ケヴィンは他領を回った後にバウムガルト伯爵の領地にも足を延ばすと言って、仕入れに出掛けていった。
「背中が丸くなってますわよ! もっと堂々としてくださいませ!」
「はいー」
「語尾は伸ばさない!」
「はいっ」
当面の衣食住を確保した数日後、私はとあるご令嬢と再会した。
シルヴィア・アーレルスマイアー
アーレルスマイアー侯爵家のご令嬢である。
「葬儀後のことも考えておけ。成功したら家庭教師の依頼が殺到するぞ。五線譜のこともピアノのこともあるのだ。受ける受けないはともかくとして、貴族との付き合いが増えることは十分考えられる」
ユリウスの弁である。
確かに葬儀が終わってしまえば私は無職だ。しかし私には元の世界の音楽を広めるという大いなる目標がある。そのための方法として貴族の家庭教師というのは悪くない提案ではある。
でも、フルーテガルトにいたいんだよね。
フライ・ハイムのフィンが言っていたことがある。渡り人の多くは最初に現れた場所からあまり動きたがらないのだという。その気持ちは私にもよく理解できる。万が一だとしても帰る可能性を残しておきたいのだ。
それに王都に行くときに聞いた特権階級の話もある。私が特権階級で、私を助けてくれたフルーテガルトのみんなが困っているというのなら、自分に出来ることを探したいという気持ちもあった。
だが、貴族の家庭教師をするのだとすれば、王都まで半日以上かかるフルーテガルトでは難しいだろう。
まあユリウスが言った通り、受ける受けないはともかく、身に付くまでに時間がかかりそうなマナーの勉強はしておくに越したことはないのだが。
それにユニオンへの牽制でもあるのではないかと私は予想している。アーレルスマイアー侯爵家と付き合いがあることをアピールしておけば、ユニオンも下手な横やりを入れにくいだろうと。考えすぎだろうか?
「ほら、またですわよ! カップを取るときも背中に力を入れて、背が曲がらないようにしてくださいませ!」
「はいっ」
シルヴィア嬢はなかなかスパルタである。
「そんな調子ではユリウスもヴェッセル商会も、周りから見下されてしまいますわよ」
この一言は私を奮起させた。シルヴィア嬢は人を動かす天才かもしれない。私のせいで私以外の者が嘲笑されるなど我慢がならない。どうあっても完ぺきなマナーを身につけなければ! と私はシルヴィア嬢の特訓へ日参しているのである。
「よろしいですわ。今の姿勢を忘れませんように。では、お茶にしましょうか」
シルヴィア嬢がそう言うと、レッスン中は空っぽだったカップにお茶が注がれ、休憩となった。
「ユリウスはこちらにはちっとも顔を出してくれないんですもの。がっかりですわ」
シルヴィア嬢はつれないユリウスの愚痴を言いたかったようだ。愚痴の対象は、私設塾に工房に店にと捕まえるのが困難なほど仕事に精を出している。
「いやあ、忙しいみたいで……なんか、すみません」
「アマネ様が謝ることではございませんけれど…………おかしいと思われますわよね。貴族の娘が商人に入れ込むなんて……」
「そんなことはありませんけど……ちょっと不思議ではありますね。あの不愛想のどこがいいのかと」
まあ、とシルヴィア嬢は眉を吊り上げる。
「それがよいのではありませんか。わたくしには滅多に見せてくださいませんけれど。優しいだけの男などつまらないではないですか」
「はあ、そうなんですかね…………」
「そうですわよ! それに、これからは商人の時代だとわたくしは思いますのよ!」
先見の明があるご令嬢だ。王族、大領主、そしてそれに連なる貴族たちが権勢を誇っているように見えるこの世界だが、実際は商人が融資や出資をしている場合が多いのだ。
「この国では未だに大領主が力を持っておりますけれど、多くの貴族たちは没落していっているではありませんか」
「シルヴィア様はご慧眼でいらっしゃいますね」
「当然ですわ! わたくしはギルベルトお兄様と違って一途なんですの。ユリウスと共にあるために学び、考えるのはわたくしの義務だと思いますのよ!」
すごいご令嬢がいたものだ。だが私は頑張る女性が大好きだ。
「でも本当はわかっておりますの。これでもわたくしは侯爵家の娘。商人と結ばれることはないと…………」
「シルヴィア様……」
「今までは縁談が来てもはぐらかしておりましたけれど、わたくしももう18歳ですもの。そろそろ決めなければなりませんわ」
そう言って悲し気に目をふせるシルヴィア嬢。
「お隣の……ヤンクールから縁談が来ておりますの。今回ばかりは断れませんわ」
「ヤンクールですか? そんな……」
せっかく仲良くなれると思ったのに。隣の国ではそう簡単に会えなくなってしまう。
「ヴィーラント陛下の妹君のヴィルヘルミーネ様が、ヤンクールの王弟と婚約なさいますの。わたくしもその供として、向こうの貴族の殿方と縁を結ばなければなりませんの」
「それは……いつ頃になりそうなのですか?」
「まだ決まっておりませんが……どんなに早くても1年は準備に時間をかけるものですから来年ということになるでしょうね。ですがわたくしも貴族の娘。両国の友好の懸け橋となれるように頑張りますわ。疎んでばかりはいられません」
そういう話ならば私が口を挟む余地はない。
「ご結婚の折には、私に曲を贈らせてください。貴女の幸せを私にも願わせてくださいますか?」
「嬉しいですわ。アマネ様、楽しみにしておりますわ」
シルヴィア嬢の微笑みは、寂しげながらもどこか誇らしげに見えた。
◆
「するってェと何かい? その貴族の嬢ちゃんは望まぬ相手と結婚しなきゃァなんねェのかい?」
マナー教室の帰り、エルマーのところへ寄った私はシルヴィア嬢のことを相談していた。
「ユリウスとのこと、応援したいんだけどね……」
「やめときな。身分違いの恋なんざァ物語だけで充分ってェもんだぜ。うまくいきっこねえよ」
「エルマーってほんとに13歳? サバ読んでない?」
ひでえことを言いなさるとエルマーは大して気にした風でもなく話を続ける。
「ユリウスの旦那の気持ちってもんもあるだろう? そいつを無視しちゃァいけねェなあ」
「あの仕事人間に言ったって『くだらん』で終わりそうなんだもん」
「そいつァちげェねえや」
エルマーは呵々大笑して同意する。
「ところでアマネの旦那、仕事の方はどうなんで? 進んでんのかい?」
「うん、まあ、ぼちぼち」
「五線譜ってェのを使うんだろう? お役人さんには話したのかい?」
「いや、ユリウスが話さなくていいって」
王宮に話して止められてしまったらそれ以上はどうにもならないため、ユリウスは強引に進めてしまえと言うのだ。
「ははは、ユリウスの旦那らしいや」
「強引だけど、言ってることは間違ってないんだよね」
「そうさなァ。ユリウスの旦那は奥様によく似ていなさる」
「ユリウスたちのお母さんのこと知ってるの?」
ユリウスの母親が亡くなったのは七年前だ。エルマーは当時6歳である。どういう繋がりがあったのだろう?
「おいらはまだガキだったが、強烈なお方だったからなァ。つい姉御って言っちまいそうな切れ者で……」
「待って待って。エルマー、ほんとにサバ読んでない!?」
6歳児は姉御なんて言わないと喚く私にエルマーは流し目で言った。
「おいらの初恋をそんな風に言わねェでくれよ」
衝撃の告白に私は愕然とするしかなかった。
「おう、帰ったぜ」
「アマネ? なにそんなに驚いてんだ?」
店の裏口を軋ませて、ザシャと見たことが無い男性が入ってきた。エルマーと同じくすんだブロンドの長い髪と切れ長の灰色の目。発言からしてもエルマーの血縁ではないだろうか
「えーと、エルマーのお兄さん? お邪魔してます」
「おうよ。元気になったみてェで何よりだ」
「あ、もしかして東門の? その節は大変お世話になりました」
東門に勤めるエルマーの兄のことはユリウスに聞いたことがある。エルヴェ湖畔から街に私を運び入れる際、大騒ぎにならないように周りに言い聞かせてくれた人だ。
「いいってことよ。それより何だァ? 湿気たツラしてたが、エルマーが迷惑でもかけたか?」
「いえいえ、そんな、とんでもない」
「ヴィム兄、人聞きの悪ィことを言わねェでくれよ。おいらの初恋の話を聞かせてやってただけだぜ」
「ぶはっ、お前、あの話したのかよ?」
ザシャが堪えきれないという風に笑いだした。
「ああ、お前が姉御、姉御って奥様にくっついて歩いてた話か」
「くくくっ、旦那がいるお人にゃ言い寄れねーつって、せめて子分にしてくれって言ってたよなーお前! あはははは!」
それは惚れる。6歳のエルマー、かっこよすぎる。
「なんでェ、おいらをからかいに来たのかい? ザシャの旦那は」
「そうだ! じゃなくて、ちげーんだよ、エルマー! お前の兄貴、また仕事辞めるって言い出してよー」
「……ヴィム兄、またかよ。おっかさんに知られたら泣かれるぜ?」
「るせぇよ…………」
『また』と聞こえたような気がするが、ヴィムは定職に就けないタイプなのだろうか。
「んで? 辞めてどうするつもりなんでィ?」
「今のフルーテガルトには仕事なんざねえぞ?」
「わーってるっての」
フルーテガルトに仕事がないのは、ザシャに探してもらった私もよく知っている。
「王都にでも行ってみるかと思ってなァ」
「おいおいヴィム兄、おいらがアカデミーに行っちまったら、おっかさんがたはどうするんで。子どもたちがみィーんな出ていっちまうなんざァ、可哀そうだと思わねェのかい?」
すごい。エルマーの方が兄に見える。いや見た目的にはヴィムはザシャやユリウスと同じ26歳で、門兵なだけあって上背も高くて見栄えのする青年なのだが、言動だけ見ればエルマーの方が年上みたいだ。
そういえばユリウスが、エルマーの兄は短気でエルマーの方が落ち着いていると言ってたことを思い出す。
「そのうちクルト兄が帰ってくるだろ」
「人任せはよくねェなァ。まあおいらも人のことァ言えねェが…………よし決めた。おいらが残る」
クルトはエルマーたちの一番上の兄で、王都の人気菓子店で修業をしているという。しかし今の流れだとエルマーがアカデミーの受験を取りやめるということではないだろうか。せっかく頑張ってきたのにもったいない。
「あああああ! しゃーねェな!! わーったよ、続けりゃいいんだろ、続けりゃあ」
ザシャもエルマーもニヤニヤ笑っている。もしかして狙ってた? ヴィムって弟に弱いの?
「よし言質とったぜ。アマネも聞いたよな?」
「え、あ、うん」
「ヴィムー、次にこんな騒ぎを起こしやがったらマルコの刑な」
マルコの刑とは? なんだその最終兵器感。マルコって金属加工職人だよね? のんびりした話し方のいつも眠そうなマルコだよね?
「マルコの旦那の説教は長ェからなァ」
あ、そゆことですか。まあ長そう。というか眠くなりそう。
「居眠りすっと鉄パイプが飛んでくるからな」
…………もう何も言うまい。突っ込み疲れた。
「そういやあ、アマネ。マルコに頼んでた楽器って出来たのか?」
「あ、うん。これから見に行くつもり」
ナイス話題転換。今日のファインプレー賞はザシャに決まりだ。
「エルマー、お菓子ごちそうさま。ヴィムも、お仕事頑張ってね」
「俺も行くわ」
「おう、二人とも世話になったなァ。また来てくんねェ」
「…………悪かったな」
不貞腐れるヴィムがなんだかおもしろくて、ザシャと二人で苦笑しながら店を出た。