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渡り人と殺人事件

 ユリウスは報告書に目を通していた。


 その報告書はユリウスが拾った娘本人から聞いた内容と、娘が親しくする者たちから聞き出した内容をデニスが纏めたものだ。


 自分よりも頭ひとつと半分ほど小さいその娘を、ユリウスは思い浮かべる。


 アマネ・ミヤハラ。渡り人には多いニホンという国の出身だという。そしてとてもそうは見えなかったが、年は自分よりも一つ下だった。


 治療のために短くなった髪は、発見当時も肩につかない程度には短かったと記憶している。白いチュニックにカーキ色のズボンを身に着けて倒れていたその人物を、ユリウスは発見当初、少年だと勘違いしたものだ。


 細い体躯はおそらく食べることにそれほど興味がないせいだろうと、共に生活するうちに知れた。あの娘ときたら楽譜を眺めていれば寝食を忘れてしまうのだ。


 黒目がちな大きな瞳はあまり動きがなく、ぼんやりと一点を見ている場合が多い。しかし楽器や楽譜というような音楽が絡む場合に限っては、鮮やかに、時には貪るような色を見せる。


 そして特筆すべきは耳の良さだ。三階にある元は母が使っていた部屋で寝込んでいた間は、足音で誰が来たのか聞き分けていたし、一階の奥にある工房で試演奏をすれば音程の狂いを指摘することもあった。


 その反面、人の話し声などは対象外であるらしく、試しに少し離れた場所で会話した内容を聞き取らせてみたが徒労に終わった。


 楽譜を眺める時以外、娘はぼんやりしていることが多いため、無意識に人声を排除しているのではないかとユリウスは予想している。小声で話される内容など聞こえない方がよい場合が多いのだ。


 こうして改めて思い返せば、娘の印象は静かでおとなしいはずなのだが、どこか危なっかしくもあった。注意力や緊張感といったものが欠如しているのかもしれない。


 その証拠に何もないところで転んだり、カップをひっくり返したり、物を落としたりすることも多く、そんな時の娘は決まってわあわあとやかましい。


 それでいて音楽が絡めばまた違った様子を見せる。


 そういえば、一度だけ工房でチェンバロを試弾したことがあった。禁じていたためか曲を演奏することはなかったが、一つ一つの音を確かめるように、音階を辿っていた姿を思い出す。


 あの時は不覚にも目を奪われた。あんな風に愛おしげに楽器を奏でる者など、ユリウスは見たことがなかった。


 まるでそれぞれの音が宝物であるかのように、ゆっくりと鍵盤に指を滑らせる姿は、神聖な儀式のようでもあり、無邪気な児戯にも見え、恋人に語り掛ける少女のようにも見えた。


 美しい旋律を奏でていたわけではないというのに、息を潜めてつい聞き入ってしまった。ずっと見ていたいとすら思った。


 今後、娘をどう扱うのか、考えなければならないことは山積みで、決めかねていることも多い。


 娘に話す内容を頭の中で整理しながら、引き出しから小箱を取り出す。中には美しい装飾が施されたボタンが入っていた。


 無意識のうちに机を指で叩きながらユリウスは目を閉じる。仕事が立て込んでいたこともあり、目の奥に疲労を感じる。


 しばらく目を閉じたまま考え込んでいると、入室の許可を求める声がした。


「ザシャだけど、今いいか?」

「入れ」


 部屋に入ってきたザシャは勝手知ったる様子でソファにドカリと座った。


「さっきアマネに会ってさ、仕事のこと言っといたぜ」

「そうか」

「仕事がないっつーのは本当だけどさあ……お前、自分で言えよ。ここにいていいって」


 態度も口調も砕けているのは、ザシャがユリウスと同い年で子どもの頃からの友人だからだ。


「んな顔してるから怖がられるんだぜ?」

「うるさい。生まれつきなのだから仕方あるまい」

「いやいや赤ん坊の頃はさすがに眉間に皺なんか寄せてねーだろ?」


 ユリウスはザシャのニヤけた顔を思いっきり睨み付けたが、ザシャは肩をちょっと竦めただけで全く堪えた様子がない。


「報告はそれだけか」

「あ、そういや楽器の改善、いくつか頼まれてる」


 ユリウスが問うとザシャは視線を横に流した。思わず、というようにユリウスの声が尖る。


「それはいつのことだ?」

「いやあ、あはは、おととい……いやその前……だったかなー?」


 報告を忘れていたのだな、とユリウスは睥睨する。


「詳細を言え」

「んー、トラヴェルソとバスーンとオーボエにキーを付けたいって。音域を広げるんだと」


 ザシャがニヤリと笑って指を2本立てる。2オクターブという意味だと理解したユリウスは、強欲なものだとため息を吐く。だが、おもしろいと思っている自分がいることは自覚している。


「ふむ……できるか?」

「誰に言ってんだ?」


 ザシャが不敵に笑う、表情がほとんど変わらないユリウスに対して、ザシャの表情はころころとよく変わる。


「試作が出来たら言え。忘れるなよ?」

「りょーかい。けど、アマネを工房に勧誘しねえのか?」

「今はな。いずれ考えると言ったはずだ」


 せっかく転がり込んできた渡り人だ。使えるならば工房か店で働かせてもいいとユリウスは考えていたが、今は他に優先すべきことがあったし、娘の演奏技術によっては貴族などの富裕層から引手があるかもしれない。


「そうだけどよー。他に取られちまうんじゃねえか? 今日も鍛冶屋の前でぶつぶつ言ってたし。ピタゴラスがどーとか……」

「ピタゴラス? ベートーヴェンではなく? ……まったく気の多いことだ」


 アマネに渡り人の説明をした時に、真っ先に出てきた人名をユリウスは覚えていた。そして大きな勘違いをしていた。ザシャはその勘違いに気づいていたが、おもしろいからと黙っているのだ。


「ベートーヴェン? のことは前に言ってたぜ? ずっと一緒にいたかったって」


 正確には『同じ時代に同じ場所で生きたかった』なのだが、ザシャはだいぶ脚色している。


「そうか。報告はそれだけか?」

「ああ。また何かあったら知らせるわ」


 そう言ってザシャはニヤニヤしながら退室していく。


「アマネに当たるなよ? 親父さんに怒られるぜ?」


 去り際の余計な一言に、ユリウスは手当たり次第に物を投げつけたい衝動に駆られるが、かろうじて思い留まった。


 アマネから話を聞きだす相手として、ザシャを差し向けたユリウスだったが、人選を間違えたかもしれないと後悔する。しかし他に適任者がいなかったのだから仕方がない。デニスや他の者は陛下の事件の調査に回していたのだ。


 机に置きっぱなしにしてあった手紙が、ユリウスの目に映る。王宮の伝手であるアーレルスマイアー侯爵からのものだ。


 手紙は王宮の様子をユリウスに伝えるとともに、渡り人の動向を問うものだった。一度、連れてくるようにとも書かれていた。


 アーレルスマイアー侯爵はヴェッセル商会の出資者であり、ユリウスは幼いころからその子息とも親しくしている。当然、渡り人についても相談していた。


 アマネの来訪は時期が悪すぎたとユリウスは考える。


 よりにもよって陛下の崩御と重なるとは。一見、何らかの意図がありそうだが、そもそもアマネを回収したのは午前で、生きているヴィーラント陛下の姿は昼食の席で確認されていた。事件に直接関係していないのは明白だ。


 陛下の急死をユリウスが知ったのは、娘を発見した翌日の朝早くだった。アーレルスマイアー侯爵から早馬があったのだ。


 それによればヴィーラント陛下はエルヴェシュタイン城で昼食をとり、いつも通りに侍従を一人伴って午後の散歩に出かけたという。夕方になっても戻らないことを心配した城勤めの者たちが、総出で捜索に当たり、エルヴェ湖のほとりで冷たくなった陛下を発見した。


 死因は溺死だった。付き添っていた侍従は行方知れずだ。


 陛下が倒れていた周辺の砂地は、発見当時は乱れがなかったという。まるで誰かが綺麗に均したかのように、誰の足跡もなかった。陛下自身の足跡すらなかったというのだから不自然極まりない。


 行方不明の侍従は小柄で、成人男性を抑えつけて溺死させるような力はなさそうだったが、当然、疑われて捜索が行われた。


 しかし、それも徒労に終わり、侍従は未だ見つかっていない。犯人に連れ去られたのか、侍従自身が犯人なのか、それとも単なる事故で恐れをなして逃げただけなのか、意見が分かれているようだ。


 これらのことは表向きは秘されており、陛下が亡くなったのは事故ということになっている。ユリウスが知り得たのはアーレルスマイアー侯爵のおかげだった。


 だが、実を言えばユリウスは陛下殺害犯に心当たりがあった。以前、煮え湯を飲まされた相手でもあり、思うところもあった。


 だが相手は周到で用心深いのだ。それに本人が手を下したとは限らない。


 義務感から渡り人を保護したものの、恩恵にはさほど興味がないユリウスは、犯人を誘き出すために使えるかもしれないと当初は考えていた。考えていたはずなのだが……。


「ユーくん、パパのお願い、聞いてくれるよね?」


 滅多に部屋から出ない父の顔が思い浮かぶ。ユリウスは深い深いため息をつく。


 七年前に母が亡くなった直後、部屋に引き籠った父をユリウスは人任せにした。これはそのツケだというのだろうか。


 娘が夜中に魘されていることに気付いたのは父だった。


 狼狽した父はユリウスを叩き起こし、様子を見るようにと娘の部屋へ連行した。部屋からほとんど出ない父の慌てた様子に、何事かとユリウスは腕を引かれるがままに部屋に入った。


 そこには寝台の上で身を縮めて泣いている娘がいた。


 母国語なのか何を言っているのか判然としなかったが、その様子が幼い子どものようで哀れだと父は思ったようだ。


「ユーくん、お兄ちゃんなんだから慰めてあげないと!」


 そう言って父は脱力する息子の手をとり、夢うつつのまま泣く娘の頭に無理やり乗せた。


 慰める? 父はついに頭がおかしくなったのか? この手はどうすればいいのだ? 撫でればいいのか? その前に……お兄ちゃん、だと?


 父の正気を疑うも、「お兄ちゃん」というキーワードにユリウスは引っ掛かりを覚えた。なんだろうこの響きは。確かにユリウスは三兄弟の一番上だが、「お兄ちゃん」なんて呼ばれたことはない。


 いやいや、ちょっと待て。この娘は陛下殺害犯を誘き出す重要な道具だ。いやしかしお兄ちゃん……


 表情は変えずに心の中だけで取り乱す息子を他所に、父は言った。


「うちには男の子しかいないでしょう? 僕、娘が欲しかったんだよね」


 父はその後、自分の娘であるかのように渡り人を気遣い愛でた。


 ユリウスはといえば、お兄ちゃんとしての使命感を燃やしたのかどうかは不明だが、娘の部屋へ日参していた。寝ている娘の頭を撫でに。


 娘の青白い寝顔を見ていると、放っておいたら死んでしまうのではないかと心配になる。顔色もさることながら、手足も少し力を込めただけでパキリと折れてしまうのではないかと思うほどに細い。


 娘が回復したとして、見知らぬ地で頼れる知人もいない状態で、女が一人で生きていくのは困難なことだろう。


 そんなことを考えながら頭を撫でているうちに、娘が泣きながら言う言葉に自分の名が混じるようになった。意味はわからないながらもどんどん絆されていっているような気がしなくもないユリウスだったが、忙しさを言い訳に気付かないふりをしている現状だ。


 一方、父は未だ娘の前に姿を現してはいない。影からこっそり覗いては微笑んだり涙ぐんだり憤ったりと非常に忙しい。


「そんなに気になるなら、本人の前に姿を現せばよいではないですか」

「だって、もし嫌われちゃったら、パパ悲しいもん」


 いい年をして「もん」はやめてくれ。そして俺を巻き込むな。とユリウスは切実に思う。


 そういえば、娘の男装が決まった時の父もひどかった。「女の子なのに」とユリウスの部屋でしくしく泣くのは止めてほしい。言い出したのは外ならぬ本人だというのに、なぜ自分に言うのかとユリウスは憤ったものだ。


 結局、渡り人を保護したことはまだ王宮に知らせていない。


 倒れていた場所と日だけを考えれば陛下殺害の犯人と関係がある者として疑われかねない。


 もちろん、時間を言えば疑いは晴れるだろう。だが、犯人がそれを耳にしたらどう思うのか。何かを目撃された可能性を考え、行動を起こすこともあるのではないか。


 いやいや、それこそユリウスが狙っていたことではあるのだが、どうにも罪悪感が付きまとって仕方がない。


 だが、いずれにしても陛下殺害犯は放置できない。


 それに娘が回復して外に出るようになって一週間。流石にそろそろ王宮へ知らせなければならない。


 自分がこんなに思い悩んでいるというのに、あの娘はどこをほっつき歩いているのだか。


 扉を睨むユリウスの眉間の皺は、ますます深くなるのだった。


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