フルーテガルトへ
薄曇りの白っぽい空から僅かに陽の光が差し込む。雨の気配はないものの空気はぴりぴりと冷たくて、ポケットに手を突っ込みたくなるようなそんな朝、私たちはテンブルグを出発した。
「モニカ、寒くないですか?」
「大丈夫ですよ! あとちょっとでフルーテガルトなんですね!」
隣に座るモニカの膝に毛布を掛けてやりながら尋ねれば、元気な声が返って来る。
「まだ7日はかかるがな」
宣言通りに昨晩お仕置きを実行したユリウスは少し眠たげな声を出す。
「ラウロ、ヴィム、寒くないですか?」
下ろされたカーテンから顔を出して御者台の二人に声を掛ければ、手綱を握るヴィムは眠そうにしながらも前を向いたまま「問題ねェよ」と返事をした。ラウロはといえばそんなヴィムを不安そうに横目で見ている。本当はラウロが御者をすると言ったのだが、座っているだけだと眠くなるからとヴィムが手綱を手にしたのだ。
「アマネ先生、またテンブルグに来たいです!」
「モニカはお友だちがたくさん出来ましたからね」
モニカはシモーネやルルのほか、リナとも仲良くなったようで安心する。この世界の友だちが増えるのはリナにとってもきっと良いことだと思う。そういう私は未だリナの前に姿を現せずにいるのだけれど。
「プリーモさんとルイーゼさんも、素敵なご夫婦でしたね!」
出発間際に二人が顔を見せてくれたことは私に嬉しい驚きをもたらした。プリーモはギュンターが収監されている牢獄で会ったロホスから、私がテンブルグに来ていることを聞いたようで、見送りだけでもとわざわざ来てくれたのだ。
「プリーモさんはバスーン奏者なのですよね?」
「ええ。奥様のルイーゼもトラヴェルソがとっても上手なのです」
「いつかお二人の演奏を聞きたいです!」
二人にはエルヴィン陛下のご結婚を祝う宴で手伝ってもらうつもりでいたのだが、なんとルイーゼのお腹の中に赤ちゃんがいるということで、今回はプリーモだけが参加してくれることになったのだ。
「いつ頃生まれるのでしょうね?」
「7月頃だと言っていましたよ。落ち着いた頃にまたテンブルグに来たいですね」
私は春にまた来る予定だが、その時は今回のように大人数では来られないだろう。何せ次はスポンサーがいない。
「ルブロイスにも行かねばなるまい」
「そうだね。アロイスとキリルに任せっぱなしというわけにはいかないもの」
雪が融けた頃にルブロイスに行きたいところだが、春になればまた演奏会が始まる。
「ルブロイスの雪が融けるのっていつ頃かな?」
「街道は山の北側だから、3月の終わりか4月の初め頃ではないか?」
「そっか……」
だとすれば、私がルブロイスに行けるのは陛下のご結婚を祝う演奏会が終わってからになりそうだ。
「4月の演奏会の日程を5月半ばに変更したら良いのではないか?」
「うーん……、でも劇場の演奏家さんたちが大変じゃないかな? 劇場は月初めにオペラがあるでしょう?」
「5月の劇場の演目を客演にしたらいいだろう?」
劇場からは来年も客演を頼まれているが、今年と同じ7月ではなく5月にし、演目をフルーテガルトと同じにすれば、劇場の演奏家たちも練習が1度で済むことになる。
「5月は演奏会が3つになるけど、陛下のお祝いは宮廷楽師が受け持つし、大丈夫かも?」
3回とも出演するのは、アマリア音楽事務所の者だけだ。冬の間にそれを見越して練習を積めば、なんとかなりそうな気がする。
「だろう? その予定ならば4月にお前がルブロイスに行くことも可能だ」
ユリウスの提案通り、フルーテガルトの演奏会を5月で調整することにし、ネタ帳を広げて書き込んで行く。
ルブロイスはフルーテガルトと違い、すでに集客が出来ているのだから、道の駅と言ってもフルーテガルトと全く同じというわけにはいかないだろう。可能ならテオやまゆりさんも一緒に行って、アイディアを出してもらいたいところだ。
そんなことを取り留めなく考えているうちに、隣に座るモニカの頭が視界の隅でゆらゆらし始めた。朝が早かったから眠ってしまったのだろう。
毛布をもう二枚取り出してモニカとユリウスに掛ける。ユリウスも眠ってしまったようで、相変わらず眉間に皺を寄せたまま目を閉じている。
眠る二人を眺めているうちに私も瞼が重くなってくる。ヴィムとラウロには悪いけれど私も寝てしまおうかなと考えた時、覚えのある気配を感じた。
「ドロフェイ……?」
「静かに。二人が起きてしまうよ」
ドロフェイが口元に人差し指を当てるけれど、いつの間にか周囲は薄暗くなっていて、いつもの変な空間に連れて来られたことはすぐに察せられた。
「聞きたいことがたくさんあるんだけど……でも、まずはありがとう」
「なんのことだい?」
「ホーエンローエのお屋敷から助けてもらった時のことだよ」
エドとラウロが対決している時、ドロフェイはオーブリーを足止めしてくれていたとユリウスから聞いた。あの時も顔を合わせたけれど、ちょっとの時間しかなかったから改めてお礼を言わなきゃと思っていたのだ。
「構わないけれど、礼なんて言われたら調子が狂ってしまうじゃないか。僕はキミを叱りに来たというのに」
ちょっと拗ねたようにそっぽを向くドロフェイだったが、私にとっては聞き捨てならない話だ。
「私、叱られちゃうの? 何かしたっけ?」
「全く……キミは相変わらずだ。テンブルグでフラフラしていただろう? あの男にまんまと騙されて」
それは周りにも散々叱られたのだから、もう勘弁してほしい。
「ねえ、ドロフェイ。エドとルルに会ったんでしょう?」
「はぐらかそうとしてもダメだよ」
そういうつもりは無かったのだが、ドロフェイはそんなことを言って私の頬を摘まむ。
「ミケの所で僕が言ったことを覚えているかい?」
「覚えてるよ……」
守られるのが私の役割だと、ドロフェイはそう言ったのだ。私に何かあれば守る者たちを殺してしまうとも。
「だったら特訓なんてする必要はないだろう?」
「あれは…………体力づくりだもの」
なぜドロフェイがそのことを知っているのか聞きたかったけれど、どうせはぐらかされるのだろうと私は適当な言い訳をする。
「それよりもドロフェイ、エドとルルに何を――」
私が言いかけた時、頬を摘まんでいたドロフェイの手が後頭部に回って抱き寄せられた。
「ドロフェイ、待って! 今、あの音が――」
フルーテガルトを発ってすぐの頃に聞こえたあの不穏な音が聞こえたような気がする。
だが、確かめようにもドロフェイの胸に耳を押し付けられ、もう片方の耳は手でふさがれて聞き取れない。
「ドロフェイ! 放して!」
ぎゅうぎゅうと締め付ける腕から逃れようともがくけれど、ドロフェイの腕はビクともしない。
「駄目だ。キミが危ないことに首を突っ込まないと約束しないのなら、放すわけにはいかないよ」
「するよ! 約束するから!」
そう叫べばドロフェイは少し腕を緩めてくれた。でもやっぱり解放はしてくれなくて、困った私はドロフェイを見上げる。
「ドロフェイ?」
眉を寄せたドロフェイの顔が一瞬見えたと思ったら、ふわり、と手が私の目を覆った。
「キミは……」
ドロフェイが動く気配と同時にポツリと呟かれたその声が、思った以上に近くから聞こえて私は身を固くする。
「どこにも行ってはいけないよ」
いつも通りの掴みどころのない声音なのに、どうしてか子どもの懇願みたいに聞こえる。
戸惑った私が口を開こうとすれば唇に何かが押し付けられた。目を押えられているせいで上向いた私の口をこじ開けて甘ったるい液体が侵入してくる。
「んぐっ」
驚いて思わず嚥下すると、唇が柔らかいもので塞がれる。
呆然とする私が我に返った時には、ドロフェイの姿も不穏な音も消えていた。
----- Ende von Kapitel 3 -----
※第三章完結です。
※今後の更新予定について、活動報告に載せてあります(2019.04.26)。