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薬売り

 テンブルグ滞在の最終日、私はようやくマリアに会うことができた。


 その日は授業がお休みでルルも仕事が休みだというので、シモーネと三人で連れ立って宿を訪ねて来てくれたのだ。


「わ、スワブ! これを私に?」

「うん。バスーンの。三人で作ったです」


 なんとマリアたちは私にプレゼントを用意してくれていた。スワブとは管楽器の手入れに使う細い紐が付いた布だ。マリアたちがプレゼントしてくれたスワブは細長い三角形で底辺の真ん中と天辺の角に紐がついており、紐の先には小さな重りがついていた。


「こんなの、欲しいって言ってたでしょ?」

「うん。覚えていてくれたんだ……ありがとうね」


 バスーンのスワブは数種類あるのだが、この形であれば管内の手入れは一つで事足りるのだ。自分で作ろうかなと楽器の手入れをしながら零したことがあり、それをマリアは覚えていてくれたようだ。


「三角形の一辺を一人ずつまつったんですよ」

「そうなんだ。すごく細かくまつれているね。シモーネもルルもありがとう」


 感激した私は二人にハグをする。ほつれた糸が管に詰まったら大変だからと丁寧に縫ってくれたようだ。紐の部分も合わせると1メートルくらいの大きさになるから、縫うのは大変だったと思う。マリアとシモーネは勉強が、ルルはお仕事があったのにと思ったら涙が滲んでしまった。


「ふふ。お天気もいいし、どこかに出かけようか」


 照れ笑いをしながら、せっかくのお休みに宿に籠らせるのもかわいそうだと思って提案してみれば、ユリウスも一緒に行くと言い出した。


「どこがいいかな?」

「先週は旅芸人たちが来ていたんですけど、もう帰っちゃったんですよ」


 シモーネが残念そうに教えてくれる。


「それってもしかして、ガニマール一座?」

「知ってるです?」

「うん、ルブロイスで一緒だったんだよ」


 どうやらシュヴァルツ率いるガニマール一座はルブロイスでの興行の後、テンブルグに来ていたらしい。


「もしかすると次はフルーテガルトに行ってるかもしれませんね!」


 そうだったらいいなとモニカがはしゃぐ。


「どうでしょう? 冬は北で過ごすって言ってましたけど……」


 確かリリィとアンナの故郷に行くと言っていたのだ。


「ヴェルリッツだな。北は海に面していて東はルシャとの国境になる」


 ユリウスの説明でアーベルが描いた顔を思い浮かべてみる。海に面していると言うならコメカミよりももっと上の額の生え際あたりだろうか。


「いずれにしても来春には会えますよね! 陛下のご結婚の時に王都で興行したいって言ってましたから!」


 モニカの元気な声に私は曖昧に頷く。バルトロメウス様がエルヴィン陛下のご結婚も延びるかもしれないと言っていたのを思い出したのだ。


「んで、結局どこに行くんだァ? 早くしねェと昼になっちまうぜ」


 痺れを切らしたヴィムがユリウスに視線をやる。ユリウスは昼はマール音楽工房に行くことになっているのだ。私も行きたい気持ちはあるけれど、リナとはまだ顔を合わせない方が良いと考え遠慮することにしたのだった。


「差し入れも買いたいのだが……」

「私、美味しいパン屋さん、知ってるです」


 考え込むユリウスにマリアが声を掛けたことで、とりあえずの行き先が決まった。


 馬車を出すというラウロにマリアが近いから歩こうと言い、結局ヴィムが通りの向こう側で馬車に乗って待機することになり、7人が揃ってぞろぞろと歩き出す。


「マリアは買い食いしたりするの?」

「してないですよ? カッサンドラ先生にお遣い頼まれたことがあるです」


 そんな風に言うマリアだったが、シモーネやルルと顔を見合わせる様子からして、買い食いしたことがあるのだろうなと私は勘繰る。


「アルも食べる」


 ルルが無表情のままぽつりと言う。


「ふふふ、アルフォードも? 食いしん坊だね」


 アルフォードは昨晩私たちが泊まる宿に来ていたのだが、昼は無理と言って馬車で眠っているのだ。今頃はヴィムと一緒に通りの向こう側に向かっているだろう。


「ね、ルルに聞きたいことがあるんだけど」


 周りに聞こえないように声を小さくして尋ねると、ルルは目だけで私を見下ろした。


「へんてこな男の人が会いに来なかった?」

「へんてこ?」

「んーと……たぶん白と黒の格子柄の帽子を被ってたと思うんだけど」


 前もってアルフォードに聞いておくべきだったなと反省しつつ、ドロフェイと言えばあのへんてこな格好だしと思って言ってみる。


「薬売り」

「え?」

「薬売り。白と黒の帽子。被ってた」


 一瞬何のことだかわからなかったが、どうやらドロフェイらしき人物は薬を持ってきていたらしい。


「薬を置いていったの?」

「うん。歌が上手になる薬」

「歌が?」


 焦った私は思わず大きな声を出してしまう。振り返ったラウロとユリウスに何でもないとジェスチャーだけで伝え、ルルに向き直る。


「それは今どこに?」


 再び声を潜めて問えば、ルルの指がぴくりと動いた。


「お腹の中」


 ルルは自分のお腹を指差した。











 結局、私たち全員はヴィムが回してくれた馬車に乗り込みザシャがいるマール音楽工房へ向かうことになった。


 工房にはリナもいるのでどうしたものかと思ったが、私はすでに考える気力も失ってしまい、かといってルルをそのまま帰らせるのもどうかと悩みに悩んでいるうちに、反対意見を言う機会を失ったのだ。


「うーん……、わっかんないなー」

「やっぱり?」


 アルフォードならルルが飲んだ薬がどんな作用をもたらしているのかわかるかと思ったのだが、銀色の猫はルルの膝の上で首を捻った。


「ルル、変なもの、食べちゃだめです」


 め、とマリアが怖い顔をするけれど、ルルは無表情のまま「変じゃない」と反論する。


「その薬売りは何て言ってたの?」

「歌がうまくなる。あと、お金はいらないって」


 そんなのあやしすぎるではないかと私は思うのだが、前科がある私がとやかく言えるわけもない。


「それで、薬の効果はあったのか?」


 ユリウスが落ち着いた声でルルに問い掛ける。


「わからない」

「でも、ルルはちょっと声が変わった気がします」


 ルルが簡潔に答えたが、それにシモーネが反応した。


「私もそう思っていました! なんとなくアマネ先生の声に似てるような……?」


 モニカもシモーネに同意する。名指しされた私と言えば、自分の声がそもそもよくわからないので、モニカの疑問に答えることが出来ずに戸惑ってしまった。


「へたっぴーにならなかったんだからいいんじゃないのー?」


 アルフォードが暢気な声を出す。


「そんな適当な……」

「でも、おねえさんだってにがーい薬を飲んだんでしょー? それと一緒じゃないのー?」

「それを今言う必要があるのかな?」


 前科がばらされたことが恨めしくてアルフォードをつんつん突けば、ラウロとユリウスが頷いているのが視界の隅に入った。すみませんね、迂闊で。


「ルル、おくすり、苦かったです?」

「ううん」

「えっ、じゃあ黒い薬じゃないんだ?」

「ちがう」


 どうやらルルが飲んだ薬はアルフォードの予想とは違って別の物であるらしい。


 私が飲んだあの薬については、詳細はわかっていない。今度ドロフェイに会ったらルルのことも含めて問い詰めなければならない。


「はあ……私、もっと気を付けるようにするよ」

「なんだ急に」

「みんなにどれだけ心配かていたのかを実感したよ……」


 いや本当に。本人が気にしないものだから余計に心配になるわけだが、思い返してみれば私もそうだったなと反省しているのだ。


「ルル、もしちょっとでも異変があったら、すぐにアルフォードに言ってね」

「うん」

「アルフォード、お願いね」

「はーい。まかせてー」


 アルフォードならば鍵穴を伝って数時間でフルーテガルトまで来ることができるのだ。まあ、知らされたからと言ってすぐに飛んで来れるわけではないから、その前にドロフェイに対処方法を訊いておかなければならないけれど。


「そろそろ着くな。お前はどうする?」


 そうこうするうちにマール音楽工房が見えてきた。マリアは何度か来ているらしいが、シモーネは初めてで一緒に中に入るという。


「ザシャは俺たちのことを既に話してあるはずだ。お前も入っても問題ないぞ」

「ううん。私は馬車にいるよ。ちょっと疲れちゃったし」


 リナも会いたくないだろうしという言葉を飲み込んで、私は無理やり笑う。


「後でザシャを馬車に誘導する」


 アロイスとキリルのことを頼みたい私を気遣ってか、ユリウスが私の頭をポンと叩いた。


 一緒に残るというラウロが外で、再び眠り始めたアルフォードと私が中でそのまま待っていると、しばらくしてザシャが顔を覗かせた。


「よう。元気か?」

「うん。ザシャはどう? 忙しい?」

「ぼちぼちな」


 そんな挨拶を交わし終わると、ザシャが手紙を差し出す。


「わ、まゆりさんから!」

「ああ、昨日届いたんだ」


 フルーテガルトにはルブロイスから手紙を送ってあったのだが、その返事をテンブルグに届けてくれたようだ。


「小切手が入ってる……助かるけど、どうして?」


 封筒の中には小切手帳が入っていた。どういうことかと手紙を読めば、フルーテガルトに置いていても私のサインが無ければ引き出せないし、ルブロイスに出張所を作るなら何かと入り用だろうと送ってくれたらしい。


 ちなみに小切手帳は小切手が束になっている冊子で、1枚ずつ切り取って使用する。切り取られた小切手は、誰それに譲渡するという裏書と口座の持ち主のサインがあれば、本人でなくとも銀行でお金を引き出すことが出来るのだ。まゆりさんには裏書してある小切手を数枚預けてあったため、小切手帳は必要ないと判断したようだ。


「良かったあ」

「はは。そういやあお前、ギュンターに騙されたんだって?」

「なんでそんなこと知ってるの!?」

「ユリウスがこっそり教えてくれたぜ」


 リナがいる前でそんな話をしたのかと思いきや、どうやら席を外した隙を見計らって教えたらしい。


「俺が預かってる金はどうすりゃいいんだ?」

「それはユリウスに聞いてくれる? でも、ギュンター様のツケは私が出すからザシャにも小切手を渡しておくね」


 もそもそと巾着リュックから筆記用具を取り出して小切手に金額を入れていく。


「お前が払う必要があるのか?」

「写譜で返してもらうから平気だよ」


 別に全部を私が払うつもりはない。あくまでも立て替えてあげるだけで、写譜で耳を揃えて返してもらう所存だ。領収書だってちゃーんと取っておいてるし。


「それと、もう1枚はアロイスたちか相談してきたら使って」

「ああ。ルブロイスにいるんだってな」

「うん。でも突然だったから何も準備してあげられなかったんだ。だから彼らが頼ってきたらザシャも力になってくれる?」

「それは構わねえけど、そいつは直接送った方がいいんじゃねえ?」

「送るけど、ちゃんと送れるかわかんないから、少額じゃないと心配だもの」


 ルブロイスには公証人に宛てて送るつもりでいた。だが郵便の信頼性がいまいちよくわからないため、大金を一度に送るのではなくテンブルグにも一部を保管した方が良いと考えたのだ。


「なんかお前、いっぱしの商売人みてえだな」

「そうかな? お金持ちに見える?」

「いや、それは全然」


 まあ、この世界の銀行は商人向けだからそんな風に見えるのかもしれないけれど、それにしたってザシャの言い様では私が貧乏くさいということではなかろうか? 失礼しちゃうな!


「ところで、彼女たちはどう? 仕事には慣れた?」

「まあな。けど、やっぱ読み書きがな。時間が掛かる」

「それは仕方がないよ」


 日本の中学生だったのならドイツ語以前に英語も厳しいかもしれない。辞書も置いているようだが、その辞書もドイツ語なのだ。


「まゆりさんはアールダムの言葉で書かれた辞書を使ってるよ」


 アールダムは英語が使われているらしいのだ。フィンにそれを教えられたまゆりさんは、アールダムの言葉で書かれたノイマールグント語――つまりドイツ語の辞書を常備していた。


「へえ。それ、ユリウスに言って取り寄せてみるわ」

「うん。でもまゆりさんを基準に考えたら駄目だよ?」


 まゆりさんは銀行に勤めていた時に、英語しか使っちゃダメな研修合宿に1ヶ月ほど行かされたそうだ。そのため、もともと英語は堪能だったのだ。


「なあ。会って行った方がいいんじゃね?」

「……ううん。今回はまだ辞めておくよ」


 マール音楽工房にリナたちが勤めてまだ1か月弱だ。ようやく仕事に慣れ始めた頃に混乱させるようなことはしたくない。


「けどよぉ、お前はもうテンブルグに来る予定ねえじゃん」

「春になったら来るよ。ギュンター様に会って苦情を言いたいし、アロイスとキリルも途中まででも迎えに来たいんだ」

「ふーん。じゃ、俺もその時一緒に帰るかな」


 ザシャは春になったらフルーテガルトに戻ることになっているのだ。入れ替わりにデニスが来るとユリウスは言っていたので、私もそれに便乗しても良いかもしれない。


「ザシャ、彼女たちもだけど、キリルとアロイスのこともよろしくお願いします」

「なんだよ急に改まって」

「だって、ヤンクールで暴動があったでしょう? やっぱり心配なんだ」


 雪が降り始めたらルブロイスには行けなくなる。それはヤンクールの暴動がルブロイスに広がりにくいという意味では安全に見えるけれど、私たちだって行けなくなるというのは心配の種でもあるのだ。


「ま、気にかけておくから心配すんな」


 ニカリと笑うザシャを見て、私はちょっとだけ肩の力が抜けたのだった。


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