テレーゼ
王都の謁見の翌日、私たちは朝から練習のために劇場へ向かった。
「おはようございます!」
初日に広場で助けてくれたチケット売りのおばちゃんたちに、私は元気よく挨拶する。ちなみにおばちゃんたちには昨日お菓子を差し入れしてある。
「今日も練習かい? 小さいのに頑張るねえ」
「転ばないように気を付けるんだよ」
私を小さい子のように扱うおばちゃんたちだが、私はすでに反論を諦めていた。だって、どう言っても信じてくれないのだ。
「明日が演奏会だよねえ」
「そうなんですよ。たくさんお客さんが入ると良いのですが」
「そりゃあこんな小さい子が頑張ってるんだ。私たちもたくさん宣伝したからね。きっといっぱい来てくれるよ」
おばちゃんたちの話では、ヴァノーネの劇場は立見席なら入場料が安いため、一般市民もよく来るのだという。
「ではヴァノーネのみなさんは耳が肥えていらっしゃるのですね」
「あはは。何言ってんだい。アンタの歌声だってすばらしかったじゃないか」
「ふふ、ありがとうございます。でも今回は歌わないんですけどね」
お母さんに褒められているような気分になって照れながらそう言うと、おばちゃんたちはびっくりしたように目を丸くした。
「歌わないのかい? じゃあ、何をするんだい?」
「ピアノとヴァイオリンの演奏をするんですよ」
「へえ、子どもなのにすごいねぇ」
「あたしはあの歌がまた聴きたいけどねえ。周りの連中にも綺麗なボーイソプラノが聴けるって宣伝しちまったよ」
おばちゃんたちの話に今度は私が驚く番だ。なんでまだそんなことになってしまったのか……。まあ、最初の騒動が原因だろうとは思う。
「アマネ先生、最後に歌ったら良いのではないでしょうか?」
モニカが遠慮がちに声を掛けて来る。おばちゃんたちの前ではどういうわけかモニカは大人しいのだ。
「アンタ、いいこと言うね! そうおしよ」
「えへへ、褒められちゃいました」
ポンと肩を叩かれてモニカは照れ笑いをした。
「チィース! センセ、今日も超ご機嫌じゃ~ん?」
「モニっちもチィ~ス!」
おばちゃんたちと別れると例のチャラ男2人組がホールを掃除していた。
「下っ端はつれえよ的な~?」
「ちゃけば、モニっちも下っ端じゃね?」
「一緒にしないでください!」
2人がモニカを揶揄う光景は、ここ数日で見慣れたものになっている。私は構わず舞台へと突き進み練習を開始した。
今回の演奏会で私が演奏するのはベートーヴェンなのだ。
ピアノでベートーヴェンを演奏することにしたのは、キリルの演奏に触発されたというのが大きい。彼に先生と呼ばれるからには、私だっていつまでものんびりしてはいられない。
ピアノの譜面立てに楽譜を置く。その表紙には『ピアノソナタ第24番』と書かれている。
――テレーゼ
『ピアノソナタ第24番』の通称だ。
この曲はあの『熱情』の4年後に発表され、伯爵令嬢テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックに捧げられたという。
ベートーヴェンはブルンスヴィック家と関わりが深く、彼女たちの従妹であるジュリエッタと恋に落ちたという説があり、ジュリエッタには『ピアノソナタ第14番』通称『月光』が献呈されている。
また、テレーゼの妹であるヨゼフィーネとの間に交わされた恋文も発見されている。ただし、ヨゼフィーネは31歳も年上の男性に請われて結婚した後に未亡人となっていたし、当時の慣習として、貴族の男性と平民の女性の結婚は認められてもその逆はあり得なかった。
これらの話からテレーゼこそが不滅の恋人なのではという話がまことしやかにささやかれてもいるが、私の勝手な憶測ではテレーゼは恋よりも仕事に情熱を捧げるタイプの女性という印象だ。そう印象付けるエピソードとして、テレーゼがハンガリーで初めて保育施設を作った人物であることが上げられる。
それはさておき、この曲はベートーヴェンの多くの曲に見られる雄大さとはまた違った一面を持つ。軽やかで明るく生命力にあふれる曲調は、同時期の作品であるドラマ化された某コミックスで有名な『交響曲第7番』にも見受けられる。遺書を書いた約7年後、四十を手前にしたベートーヴェンの音楽人生が充実していたことが伺われる。
「センセ、パネェっス!」
「マジリスペクトっす!」
そんな風にはしゃいでいたチャラ男2人組も、私が反応を帰さないでいるとしばらくしてホールから姿を消した。申し訳ない気持ちもあったが、午前中の練習はキリルとアロイスに譲ってもらったのだ。1秒だって無駄には出来なかった。
◆
「君の母上に感謝を伝えなければならないね」
ギルベルト様が真剣な表情で私を見つめる。
「ど、どうしてでしょうか?」
私は視線を横にずらしながら答える。
「君のような素晴らしい女性をこの世に…………ええと、なんだったかな?」
横に立つディルク師匠がギルベルト様にカンペを渡す。それを見た私はため息を吐いた。
「そんな歯の浮くようなセリフを言っても、二コルは喜ばないのでは?」
「そうだね。でもきっとお仕置きはしてくれると思うんだ」
うっとりと言うギルベルト様は、ここ数日ヴァノーネ貴族の家を訪ね歩いていたわけだが、こんな小ネタを仕入れては私を二コルに見立てて練習をしているのだ。
その練習が一息ついた頃、ノックの音と共にラウロが名乗る声が聞こえてきた。私たちの茶番を無視して買ってきた新聞を読んでいたユリウスがようやく顔を上げる。
入室してきたラウロはギルベルト様がいることをさほど気にする風でもなく、ちらりと視線を寄越しただけだった。私はラウロのこういう動じないところがすごいなあと思う。ラウロを見つけた自分はもっと褒められても良いのではないだろうか。
「リパモンティ家の女中に聞いて、昔働いていた人物を訪ねてきた」
ラウロが前置きも無しに言うと、ユリウスは無言のまま視線で先を促した。
「子爵は若い頃に画家を目指していたそうだ。なかなかの腕前だったらしい」
「なるほど。ではリパモンティ家に飾られていたという絵は?」
「子爵が昔描いたものたそうだ」
ラウロがそう言うとユリウスはギルベルト様に視線を投げかけた。
「僕が調べる必要はなかったじゃないか」
ユリウスの視線を受けたギルベルト様が口をとがらせるが、ご自分のお年を考えた方が良いのではないかと私はこっそり考える。
「付け足す内容はないと?」
「いや、あるにはあるけどね」
ギルベルト様は勿体を付けて足を組み替えるが、ユリウスが不愛想な半眼を投げかけると肩を竦めて話し出す。
「リパモンティ夫人は子爵の意向を知らないようだね」
「子爵の意向ってジャンマリオさんを軍に入れたがっているという話ですか?」
「そうだね。子爵は夫人には言ってないみたいだよ」
それってどういうことなのだろうかと私は首を傾げる。確か、子どもの頃は体が弱かったジャンマリオが立派に成長した証明として軍に入隊させ、自分のせいで弱い子がと気に病む夫人を安心させたいみたいな話だったはずだ。
「子爵は夫人には黙って事を進めようとしていたけれど、ジャンマリオ殿が家を出てしまったからね。何か察するところはあるんじゃないかな」
ジャンマリオは米をもらいに実家に帰った時、母親に会ったと言っていた。だが、おそらくはそういった話はしなかったのだろうと思う。だって、ギルベルト様の話が本当だとしたら、お母さんとちゃんと話をすればお父さんとの関係も改善があるはずだ。だが、今日劇場で会ったリパモンティ子爵も、先ほど廊下ですれ違ったジャンマリオも、そんなことは一切言っていなかった。
「夫人に子爵を説得してもらうのが一番早いのだろうな」
指先でひじ掛けを叩きながらユリウスが言う。
「ユリウスはジャンマリオさんの味方なの? なんか、珍しい気がするんだけど」
そりゃあ私だってジャンマリオがやりたいことが出来ていた方がいいとは思う。だが、ユリウスはあまりそういうことに首を突っ込まないタイプだと思っていた。
「お前も言っていただろう? カタログがあれば良いと」
「え、もしかしてジャンマリオさんに書いてもらうつもり?」
女の子の絵しか描かないジャンマリオ的にそれはありなのだろうかと思ったが、ユリウスはジャンマリオの静物画を見たことがあるそうだ。
「まあ、それぐらいならば他に頼んでも良いのだがな」
いろいろあるのだと言葉を濁すユリウスは、私から視線を逸らしてギルベルト様を見た。
「仕入れた話はそれだけですか?」
「それだけなんて酷いな……わかったわかった。そんな怖い顔はしないでくれたまえ」
ギルベルト様が降参というように両手を挙げる。
「リパモンティ夫人のご友人がノイマールグントに嫁いだという話だけれど、やはりイージドールの母上のようだね」
「えっ、ではイージドールがリパモンティ家の名を出したのは偶然ではないということですか?」
私は驚いてギルベルト様を凝視する。
「そういうことだね。ただ、イージドール自身はリパモンティ家との面識はないようだね。ヴァノーネに来たという話は聞かなかったし、そのご友人が男児を産んだことを知る人もいなかった」
ということは、イージドールは自分の母親から話を聞いてリパモンティ家の家庭教師であると偽ったということになる。もしかすると、ヴァノーネに来たことぐらいはあるのかもしれないが、少なくともリパモンティ家に面会を求めたりしたことはないと考えてよいだろう。
「アマネ殿はヴァノーネの王に会ってきたんだろう?」
「え……、ええ」
ユリウスがいつも通りに考え事に没頭する中、ギルベルト様が私を雑談に誘う。私もちょっとは考えようとしたのだが、ギルベルト様にはいつも通りのぼんやりのほほんにしか見えなかったようだ。
「威厳があっただろう?」
「そうですね。ちょっと怖い感じがしました」
「エルヴィン陛下はまだお若いから驚いてしまうよね。でもヤンクールの王は若いけれどもっと偉そうだよ」
シルヴィア嬢をヤンクールに送って行った時、ギルベルト様は王とも謁見したのだという。
「王家に伝わるという真っ赤なマントを着ていたのだけどね、マント以外は全部真っ白なんだ」
「真っ白って……もしかして髪もですか?」
「よくわかったね。ヤンクールの貴族は白い鬘を被るんだよ」
それってモーツァルトみたいだ。初めてジュストコールを来た時にユリウスに聞いたらそんなものはないと言われてしまったけれど、ヤンクールには存在しているらしい。
「付けボクロはしていませんでしたか?」
「王はしていなかったけれど、貴族たちにはしている人もいたよ」
ギルベルト様が話すヤンクールの話題に夢中になった私は、イージドールのことをすっかり忘れてしまったのだった。