ヴァノーネの王様
馬車いっぱいに積まれたお米は船で運ぶことになり、ラウロが船着き場まで運ぶために朝から忙しく動き回っていた。
「ヴィムに手伝ってもらわなくて平気ですか?」
「問題ない。アンタの護衛がいないと俺が後で困ることになりそうだからな」
珍しいラウロの軽口だったが私は頬を膨らませる。
「昨日も劇場の前で騒ぎを起こしたそうだな」
べつに私が騒ぎを起こしたわけではないというのに人聞きの悪いことを言うラウロだが、モニカのせいにするわけにもいかず、私としてはそうだとも違うとも答えづらい。
「あれは……仕方がなかったんですよ。今日は大丈夫です。たぶん」
「アンタの大丈夫は信用できない」
今日も午後からは劇場で練習する予定だが、午前中は王宮でヴィル様に謁見することになっているのだ。そのせいもあってラウロは注意を促しているのだろうからと、私は口答えせずに大人しく引き下がることにした。
「あっ、ジャンマリオさん、おはようございます」
ラウロと別れて部屋に戻るために廊下を歩いていると、眠たげな顔をしたジャンマリオがぼさぼさの髪のまま部屋から出てきた。
「おはよう。今日も出かけるの?」
ぼそぼそとしゃべるのはいつも通りで、眠いからというわけではない。
「ええ。ジャンマリオさんは?」
「僕は絵を描くよ」
目をとろんとさせたまま、よれよれのシャツに手を入れて腹を掻きつつジャンマリオが答える。一応女性の前なんだけどと文句を言いたかったけれど、どうせ聞いてくれないだろうと私は見なかったことにする。
「そうですか。ところで、今回の絵はどんな絵なんでしょう?」
寝惚けてうっかり見せてくれたりしないかなと思って訊いてみる。いつもは途中で見せてくれるジャンマリオだが、今回は何故か見せてくれないのだ。
「完成するまで教えないよ」
「……変な顔は勘弁してくださいね」
何故かユリウスとアロイスは見せてもらっているようなので私としては納得がいかないが、何度言ってもジャンマリオは頑なに拒むので、仕方なく引き下がる。
「ジャンマリオさんは神話の絵を描いたりはしないのですか?」
天井画には以前神話の女神が描かれていたとジャンマリオは言った。そういったものを描こうと思うことはないのだろうかと私は暗に訊いてみる。
「子どもの頃はよく描いたよ。劇場の天井画を見たのが絵を描き始めたきっかけだったし」
「へえ、そうだったのですか」
ジャンマリオは劇場の天井画を見た時のことを想い出しているのか、遠くを見るように目を細めた。その表情は昨日見たリパモンティ子爵とよく似ている。
「描いてみたいと思いませんか?」
「神話をかい?」
「違いますよ。劇場の天井画のことです」
私がそう言うとジャンマリオは視線を落として首を横に振った。
「描きたいけど……無理だよ」
「描けないということですか?」
「そうじゃないけど……」
ボソボソと言うジャンマリオは、もしかすると父親が担っている役割を知っているのかもしれない。
「ええと……。お米、ほんっとうにありがとうございました」
ちょっと気まずい空気が流れたのを誤魔化すために私は話題を変える。
「昨日も聞いたよ」
「ふふ、何度言っても足りないくらい感謝してるんですよ」
できれば1反でもいいから田んぼのオーナーになりたいくらいだ。
ちなみに、田んぼ一反でおよそ6~7俵の米が採れると聞いたことがある。1俵が60キロだったはずだ。1合は大きめのお茶碗で二杯分だが米だと150グラムくらいだ。それを踏まえて仮に1合のご飯を365日食べるとすれば、年間で約55キロのお米が必要になる。多めに見積もって米俵1俵分だから、1反のオーナーになればまゆりさんと律さんの3人で食べても全然余裕だ。さすがに3食お米というわけにはいかないだろうけれど。
「今度お会いしたらリパモンティ子爵にもお礼を言わないといけないですね」
ホクホクしながら私が言うと、ジャンマリオはさっと顔色を変えた。
「パパに会ったの?」
「あー……ええと……」
そういえばジャンマリオには子爵に会ったことを伝えていなかった。すっかり忘れていた私は冷や汗をかく。
「どこで? パパは何をしていた?」
「あの……その……」
しどろもどろの私をジャンマリオが厳しい表情で問い詰める。
「教えてくれないならモニカに聞くよ」
「あわわ……待って! 言いますから!」
普段はぼんやりしているジャンマリオだが、私の弱点を把握しているとは少し見くびっていたかもしれない。
「あの……昨日劇場で……」
焦った私はついに白状してしまう。
「ふうん、そう」
ジャンマリオはそう言うと、難しい顔で黙り込んでしまったのだった。
◆
「其方が渡り人か」
豪華な椅子に腰かけた壮年の男性が、ひたりと私を見据えた。
上質な布をたっぷり使った濃紺のマントを羽織ったその男性は、私の爪先から頭のてっぺんまでをとっくりと眺める。私もまた呆然とその男性を見つめた。
金糸で刺繍が施された白いケープの上から美しいレースのリボンが、まるで長い鬚みたいに垂れ下がり、マントの隙間から赤い大きな宝石が嵌め込まれたサーベルが見え隠れしている。そして汚れひとつなさそうな真っ白な手袋をはめた手は、金の飾りが輝く杖を手にしている。
なるほど。王とはこういうものなのか、と私は男性を見て納得した。
震えそうになる声をどうにか抑えつけて名乗り、視線を目の前の王に固定する。そうでもしないとその威圧感に負けて目が泳いでしまいそうだからだ。
ユリウスはテンブルグのバルトロメウス様と謁見した時に予行練習であるようなことを言っていたけれど、全く比にならないほどの重たい威厳がちくちくと肌を刺激する。
「うむ。まだ子どものように見えるが、渡り人とはそういうものか」
幾分か視線をやわらげたヴァノーネの王が、答えにくい質問をする。
「他の渡り人にも会いましたが、そうとは限らないようですよ」
どう答えたものかと困っていると、王の隣に立つヴィルジーリオ様が懐っこい笑みを浮かべて応じた。
「そうか。明後日の演奏会を楽しみにしておる」
興味は失せたのか、王がそう言って立ち上がる。私は慌てて胸に手を当てて頭を下げた。
あっという間の王との謁見を終えると、苦笑したヴィル様が私たちを別室にと促す。謁見の間ほどではないにしろ、十分に豪華なその部屋に腰を落ち着けた私たちは、ようやくほっと息をついた。もっとも息をついたのは私ぐらいのもので、モニカやキリルはカチコチに固まったままだったが。
「王が堅物で驚かれたでしょう?」
ヴィル様が半年前と変わらない悪戯っぽい笑顔を私たちに向ける。
「ええと……少し。ヴァノーネの街の雰囲気は開放的でしたので」
主に男性が、という言葉を飲み込んで私は曖昧に笑う。
「ところでヴィル様、あらためてご婚約おめでとうございます」
そもそもそのために来たのだからと私は代表してお祝いを述べる。
「ありがとうございます。本当は花嫁が来てから演奏会をしていただきたかったのですが、来春はエルヴィン陛下の御結婚がありますから、早めにお越しいただいた方が良いと周りに言われまして」
花嫁不在のまま祝宴を行うことを実は不思議に思っていたのだが、ヴィル様の説明で私は納得した。エルヴィン陛下の御結婚は来年の5月の予定だが、テンブルグからパトリツィア様がヴァノーネ入りするのは4月であるらしい。
「ところで、今回はキリル君の演奏も聴かせていただけるそうですね」
未だ表情が硬いキリルにヴィル様が話しかける。春に行われた協奏曲の演奏会では、キリルもヴィル様と顔を合わせてはいるのだが、ヴィル様はエルヴィン陛下と一緒だったので言葉を交わすのは初めてなのだ。
「キリル、ヴィル様はお優しいので多少失敗しても大丈夫ですよ」
「そう言われましても……」
キリルが困って私を見る。まあ、演奏会には先ほど会ったばかりの王様もいらっしゃるようなので、緊張してしまうのはよくわかる。
「ヴィル様、もう一人紹介させてください」
私はそう言ってモニカを紹介する。今回二人を一緒に連れて来たのは、彼らの顔を売るためでもあるのだ。
「ほう、ノイマールグントの宮廷楽長の娘さんですか」
「……はい」
いつもは元気いっぱいのモニカも、キリルと同様に顔が強張っている。
「今回は演奏には参加しませんが、来年はオーケストラの指揮をする予定なのです」
「それは楽しみですね。頑張ってください」
「はい。ありがとうございます」
控えめながらもようやくモニカが笑顔を見せたことで私はほっと安堵の息をついた。
「ところで、ヴェッセル商会は新しいハープを開発されたそうですね」
ヴィル様がユリウスに視線を向ける。
「耳が早いですね。昨日劇場で話したばかりですが」
「ははは。今朝、稟議書が回ってきましたよ」
私たちの中では唯一いつも通りのユリウスが営業用スマイルを浮かべると、ヴィル様は楽しそうに笑った。
「そうそう、テンブルグから便りが来たのですよ。アロイス殿の演奏が素晴らしかったと」
ヴィル様がアロイスをちらりと見やる。
「恐れ多いことでございます」
アロイスは静かに頭を下げる。
テンブルグの中等学校での演奏を聴いたヴィル様の婚約者であるパトリツィア様が、アロイスの演奏を気に入ってアウイナイトがはめ込まれたブローチをプレゼントしたのは記憶に新しい。
「今回もヴァノーネの女性を虜にする演奏を期待しています」
「最高の演奏を心がけますが、ノイマールグントの男は控えめですから、ヴァノーネの女性に気に入ってもらえるか心配です」
ヴィル様がアロイスに向かって茶化すように言えば、アロイスも苦笑しながら答える。
今回、アロイスが演奏するのはドヴォルザークの『ロマンス』だ。もちろん例のロマンス作品集にも入っている。本来はヴァイオリンと管弦楽のための楽曲だが、ドヴォルザークはピアノ伴奏版も書いており、今回はキリルが伴奏をすることになっていた。
ゆったりとした美しい曲調が特徴のこの曲は、ドラマチックな個所や悲し気な個所も途中にあり壮大な物語を感じさせる。本人は自信なさげだが、アロイスの演奏ならばヴァノーネの女性の心もがっちりと掴めるのではないかと私は密かに思っていたりする。
「アマネ殿はピアノを演奏してくださるのですよね?」
ヴィル様が私に向きなおって訊いてくる
「ええ。ですが今回はヴァイオリンも演奏します」
「ほう、それは楽しみです。パトリツィア様に自慢できますね」
私が答えるとヴィル様は大げさに喜んだ。