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時計工房

「わ、時計がいっぱい」


 ユリウスと共に入った時計屋で私は目を丸くする。


 まあ、時計屋なのだから時計がたくさんあって当たり前なのだが、思い返してみれば私は時計屋に入ったことがなかった。


 時間はスマートフォンでチェックすればよかったし、腕時計はピアノを演奏する時に気になるからしようと思ったことがない。友人知人へのプレゼントは雑貨屋さんに行くから、時計専門店には行ったことがなかったのだ。ちなみに自分のアパートで使っていたものは百均で買ったものだった。


「でも腕時計はないんだね」

「腕時計とはなんだ」


 どうやらこの世界には腕時計はないらしい。もしかすると、もう少し時間が経てば出来るのかもしれないが。


「手首にはめる時計なんだけど、このくらいのサイズで、革のベルトだったりブレスレットみたいなのもあったり……」

「ふむ。装飾品として売れそうだな」

「でも懐中時計よりも小さいとなると、部品の小型化が必要ですねぇ」


 私がユリウスに腕時計を説明していると、店の奥から職人らしき男性が出てきた。


「いらっしゃい。おや、アンタは例の音楽家さんじゃあないか」

「そうですけど……どうしてご存知なんですか?」

「朝の号外を見てないのかい? アンタが載ってたよ」


 ひらりと目の前に翳されたのは、ユリウスから見せてもらったものとは違う号外だ。


「……私、こんな変な顔じゃないよね?」


 紙面の私は眉をハの字にして口を尖らせている。もちろん写真ではなく絵なのだが、それにしたってレディーにあるまじき表情だ。


「ふ……、かわいらしいではないですか」


 後ろから覗き込んでいたアロイスが取り繕うように言うけれど、笑ったことは覚えておこうと思う。


「しかし、この絵はよく描けていますね」

「ジャンマリオだろう。昨日はバールにも来ていたからな」

「えっ、そうなの?」


 私は気付いていなかったのだが、店の隅の方でジャンマリオがスケッチブックに筆を走らせているところをユリウスは目撃していたようだ。


「ところで旦那方、今日はどんなご用で?」

「ああ、修理を頼みたいのだ」


 ユリウスが懐中時計を職人に見せている間、私は店の中の時計を見ることにする。


「目覚まし時計はないかな?」


 筋トレを日課にした私は、いつもよりも早く起きるために目覚まし時計を探しているのだ。だが、店内には置時計や壁に掛けるタイプの時計はあるが、目覚まし時計は見当たらない。


 テンブルグで見たクロプファーのように起こしてくれる人を雇えば良いのかもしれないが、あいにくテンブルグ以外でそんな仕事をしている人なんて見たことがない。


「早起きするための時計ですか。軍に所属する兵士には支給されると聞いたことがありますが、庶民は蝋燭に仕掛けをしますね」


 アロイスが一般市民が目覚まし時計代わりにしている方法を教えてくれる。


 それは蝋燭に釘を打つというものだった。


「火を灯して眠ることになりますが、一定の時間が経つと蝋が溶けて釘が床に落ちるでしょう? その音で目が覚めるのです」

「へえ、でも火を着けっぱなしなのはちょっと怖いですね」


 何かの拍子に倒れでもしたら火事になりそうだ。


「アマネさんのいたところにはどんな目覚ましがあったのですか?」

「いろんなのがありましたよ。パズルを完成させないと音が止まらない時計とか、動き回って捕まえるまで音が止まらない時計とか」


 震える枕なんていうものもあった。


「大昔には水を使ったものがあったと聞くね」


 修理が終わったのか、職人の男性が話に加わる。


「夜に水を容器に注ぎ始めると、朝になる頃にはいっぱいになって零れる。零れた水が外側の皿に入れてあった玉を押し流して、下に置いた金ダライに落っこちるっていう寸法だ」

「蒸気で笛が鳴る物もあったと聞いたことがある」


 職人さんの話をユリウスが補足する。それにしても、いろいろ考えるものだなあと感心する。


 どこの世界でも早起きは人類の課題であるのかもしれない。なんて、私は哲学的なことを考えたのだった。











「我々の出会いに乾杯しましょう!」


 今日も黒づくめのローマンはそう言ってグラスを掲げた。


「ユリウス殿とアマネ殿のおかげで、私もようやくユニオンを脱退することができそうです」


 上機嫌でローマンがグラスを煽る。


 その日の午後、ドレスラー卿から呼び出された私とユリウスが領主の館を訪れてみれば、ローマンも同じように呼び出されていたのだ。


 ドレスラー卿の説明によれば、バールの経営者との話し合いは滞りなく進められ、下賜する準備もすでに整えてあるとのことだった。そしてローマンは念願の領主の庇護が受けられるようになったのだという。


 もろもろの手続きを終えた私たちは、今後について話し合うべく、夕食を兼ねてバールへと足を運んだのだが、肝心のラウロのご両親はといえば――。


「私たちは今まで通り仕事が出来ればそれでよいのです」

「他のことは全てお任せします」


 と、結構あっさりした対応だったので、結局はフルーテガルトに戻ってから詳細を詰めて連絡するということに決まった。


「しかし、あの少年は幸運ですな!」

「ええ、まあ……」


 チーズを摘まみながら言うローマンに対し、私が曖昧に言葉を返すのは理由がある。


「アマネ殿はご不満ですか?」

「いえ、とんでもない。ただ、本人の意思を尊重したいのです」


 ドレスラー卿は昨日の演奏に惚れ込み、キリルに対する後見を申し出てくれたのだ。


「かの少年は今日は?」

「ガニマール一座のみんなと食事をすると言ってましたから、帰ってから話すつもりです」


 ありがたいことに、ドレスラー卿は返事は急がないと言ってくれた。決意したら便りを寄越してくれればいいということだった。ただし、後見の条件がいくつかあるので、キリルの意見を聞いてから返事をした方がよいと考えたのだ。


「ところで、ローマン。お前はユニオンを抜けるということで間違いないな?」


 ユリウスがローマンに鋭いまなざしを向ける。ローマンはユリウスと同い年であるらしいのだが、ユリウスってばすっかり上から目線だ。まあ、アロイスやクリストフに対してもそうだし、ユリウスらしいといえばそうなのだが。


「ええ、もちろんです。ただ、ブリ―ゲル商会は父が経営者です。私は独立してギルドに所属するということになります」

「カジノはどうなるのだ?」

「ドレスラー卿の庇護がいただけましたから、領で買い取ったうえで私が管理する形になります」


 つまり、ローマンは父と縁を切るということらしい。


「お父様は大丈夫なのですか?」

「さて、どうでしょうね。ブリ―ゲル商会は実質母の実家が牛耳っておりましたから、父は隠居のようなものですし、そのうちルブロイスに来るかもしれません」

「ブリ―ゲル商会の奥方はリュッケン領の商会から嫁いだのだったな」

「ええ。よくご存じで」


 リュッケン領――つまり、ホーエンローエのお膝元というわけだ。


「父親を引き入れるのは構わないが、ユニオンに母親を盾にされたらどうするつもりだ?」

「どうもしませんよ。母に対しての情は残っておりません」


 そもそもローマンがこの地に来たのは、母親が実家から養子を迎えてブリ―ゲル商会を継がせることを企んでいたからだという。


「母は判断を間違えたのですよ。リュッケン領と王都くらいしか知らぬ母にしてみれば、ルブロイスなど片田舎という認識だったのでしょう。ですが私をこの地に送り出したことが知られ、実家からは大目玉を食らったようですね」


 ローマンは含み笑いをする。ホーエンローエがルブロイスに自分の姪を嫁がせたことを考えれば、ユニオンにとってもルブロイスは重要だったはずだ。ローマンの母親はそれを知らずに厄介払いのつもりでローマンをここに送ったようだ。


「ローマン、お前はグーディメル商会について何か知っていることがあるか」

「ヤンクールの商会ですね。時々ルブロイスでも見かけておりますよ」

「ふむ。ドレスラー夫人との関係はどうだ?」


 ドレスラー卿と仲直りした奥様だが、ホーエンローエと縁が切れたというわけではない。ユリウスはまだ警戒が必要だと考えているらしい。


「ホーエンローエが妾腹の娘をグーディメル商会に預けたことはご存知ですか?」

「ああ。嫁にやったと聞いている」

「その娘と奥様が懇意だったようですね。ですが、グーディメル商会も今は大変でしょうから、そうそうルブロイスに顔を出すことは出来ないと思いますよ」


 ローマンの説明にユリウスは眉間に皺を寄せる。


「どういうことだ?」

「グーディメル商会は王族に目を掛けられておりましたから。今のヤンクールでは鼻つまみでしょう」

「なるほど。それで王都の店を閉めたのか」

「ええ。ですが、商売自体は場所を変えて続けているようです」


 ヤンクールでは王と民の間に対立があるとリシャールから聞いた。


「でもグーディメル商会は中立なのでは?」


 グーディメル商会はリシャールと同じで中立のラマディエ侯爵の協力者だったはずだ。


「王の旗色が悪くなったので寝返ったのでしょうね」


 よくあることだとローマンは言う。


「商売は機会を見極めることが肝要ですから。そういう私も、ユニオンからギルドに寝返るわけです」

「グーディメル商会と懇意にしていたホーエンローエはどう出ると思う?」


 ユリウスが質問するとローマンは肩を竦める。


「おそらくヤンクールの王が権威を取り戻すのは難しいでしょう。ホーエンローエとしてはこのままグーディメル商会と共に市民側につくしかありますまい。それが己の主義に反していようとも」


 リュッケン領には未だに農奴がいるとユリウスから聞いたが、そんな風に言うローマンもホーエンローエに対して思うところがあるのかもしれない。


「グーディメル商会が最近推している人物をご存知ですか?」


 ローマンが含み笑いをしながらユリウスを見る。


「リオネル将軍だろう?」

「ほう、さすがにご存じでしたか。では、こんな話を聞いたことはございますか?」


 そう言ってローマンはリオネル将軍について語り出す。


 それによれば、リオネル将軍は自分を売り込むのがとても上手な人物で、なんと戦地から報告書と称して自分の成果を記事にして新聞社に送り付けていたというのだ。


「リオネル将軍の弟が新聞社に勤めているそうですよ。おかげでヤンクールではリオネル将軍の評判がうなぎ上りという話です」


 自分の印象を真っ先に問うたリオネル将軍を思い出せば、ローマンの話もあながち嘘ではないような気がする。


「あの……、王族はともかく貴族に対する民の反応はどうなのでしょうか?」


 私としてはとにかくシルヴィア嬢が心配なのだ。


「貴族に寄りけりですね。普段から贅沢をしていたような者が反感をかうのは当然ですが、そもそも王は特権階級である貴族からも税を取ろうと考えていた節があります。そのため、王と対立状態にあった貴族たちは勢いづいているようですよ」


 シルヴィア嬢の旦那様であるモンタニエ侯爵はどうなのだろうか。


「どなたがどうなのかまでは流石にわかりませんが……そういえば、アーレルスマイアー侯爵のご息女が嫁がれましたね。アマネ殿のご友人ですか?」

「そうなのです。とても心配しています」

「アーレルスマイアー侯爵のご子息はなんと? この地にいらしていますよね?」

「特にはなにも……」


 ギルベルト様はシルヴィア嬢が侯爵領で他の夫人たちと交流したことは教えてくれたが、きな臭い話は特にしていなかったはずだ。


「今すぐどうこうということはない。あまり心配するな」


 ユリウスが気遣うように視線を寄越す。


「そうだよね。ギルベルト様もヴァノーネに行くって言ってたもんね」


 驚いたことにギルベルト様は私たちに同行するそうだ。なんでもヴァノーネにはユリウスと共に行ったグランドツアー以来行っていないらしく、せっかくの機会だからと言って渋る護衛さんたちを説き伏せたのだった。


「しかし、ヤンクールの王は貴族からも税を徴収しようと考えていたのか」

「そのようですね。バーニッシュ遠征で戦費が嵩んだのでしょうが、塩税を引き上げたものの思ったほど徴収できなかったのでしょうな。いずれにしても民はこれ以上税を上げても払えませんから貴族からと考えたのでしょう」


 塩の税を引き上げた話はリシャールからも聞いた。


「ヤンクールの王様って金糸銀糸の輸入を制限したりしてたでしょう? 民のためにいろいろ考えている王様だと思っていたんだけど……」

「まあ、それはどこの国でもやっておりますよ。ノイマールグントの貴族はそういったことに鈍感ですが」


 私の疑問にローマンが答えると、ユリウスがそれを補足する。


「例えば鉛筆の芯はアールダムで作られたものだが、昔は輸出が制限されていたそうだ」

「鉛筆の芯ってアールダムでしか作れないの?」

「アールダムの黒鉛鉱が使われているのだ。アールダムで作られた芯をもとにノイマールグントの学者が木で挟む鉛筆を作り今の形になったのだが、アールダムは自国の産業を守るために黒鉛鉱の輸出に制限をかけた。まあ、今度は鉛筆を削った時に出る黒鉛のくずを集めて活用する方法がノイマールグントで考案されたのだがな」


 ノイマールグントは職人が多いという印象だったが、ユリウスの話を聞く限り間違っていないようだ。


「ノイマールグントの民は真面目で勤勉です。一部のものを考えない者たちが貴族に多いというだけですね」


 ローマンがお道化て肩を竦める。


「逆にヴァノーネはこう言われておりますよ。一部の真面目な民のおかげでヴァノーネが成り立っていると」

「ふふっ、そうなんですか?」

「ええ。ヴァノーネは嘘つきで怠け者が多いのです。女性に対しては情熱的ですが」


 そういえばドレスラー卿もそんな話をしていた。


「知っていますか? ヴァノーネの兵は匍匐前進を嫌がるそうですよ」

「どうしてでしょう?」

「服が汚れるからだそうです」

「ぶふっ」


 不謹慎ながら笑ってしまうが、そんなことで軍なんて成り立つのだろうかと疑問に思う。


「それに演習の時は怠け者ですが、遠征先の言葉やマナーを覚えるのは熱心だそうですよ」

「まさか……?」

「女性を口説くためですね」


 敵地の女性を口説くためだなんて、ヴァノーネの人はどれだけ女好きなのか。


「俺はヴァノーネの民は食にうるさいと聞いたことがあるが?」

「ええ、そのようですね。兵の士気は食料の美味さに比例するそうですよ」


 そういえば、元の世界ではイタリアがそんな風に言われていたのを思い出す。確か戦地で美味しいものを食べたいがためにフリーズドライを考え出したのだとか。


 その後もローマンの舌は止まらず、ヴァノーネのへんてこな話をたくさん聞かされて笑い転げた私は、ヤンクールの話で重くなった気持ちを心の奥に押し込めたのだった。


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