ディルク師匠
「ディルク師匠! よろしくお願いします!!」
私とギルベルト様、そして鞭の先生であるディルク師匠はロイス湖の畔に来ていた。護衛がいないのに外出したらユリウスに怒られてしまうかなと思ったけれど、自分の護衛がいるから大丈夫とギルベルト様に連れ出されたのだ。
ディルク師匠は元々は剣の使い手だったそうだが、四十を過ぎた頃に背中の筋を痛めて剣よりも軽い鞭を使うようになったという。二コルとは時々打ち合いをするらしいのだが、未だ勝てたことがないのだと悔しそうにおっしゃっていた。
「アマネ殿は勇ましいね」
「まあ、ほどほどに頑張れよー」
外野から茶々を入れるのはギルベルト様とシュヴァルツだ。シュヴァルツは湖を散歩していたとかで偶然会ったのだが、私が稽古を付けてもらうとギルベルト様に聞き出して着いて来たのだった。こっそり練習したかったのにとギルベルト様を恨めしく思ったが、先生を紹介してくれたのだから文句は言えない。
「さて、アマネ殿は何故鞭を使おうと思われたのですかな?」
鞭を後ろ手に持ったディルク師匠が、鞭は持っていないけど同じ姿勢を取る私に質問する。
「悪漢が近寄れないようにしたいからです!」
私は声を張り上げて答える。自慢げに言うことではないが、切ったり張ったりは私には無理だ。体格のことも直視しなければならない。私の短いリーチでは相手に武器が届く前にやられてしまうことは間違いない。
「ふむ。守りということですか」
ディルク師匠はちょっぴり残念そうだったけれど、理由は考えないことにする。
「では、まずはあの岩を敵に見立てましょう。持ち方はこうです。腕をこのように回して」
ひゅうんひゅうん、とディルク師匠は8の字に鞭を回す。私もディルク師匠の鞭を借りて振ってみる。
「こうでしょうか……?」
「ふむ。少し打点が近いですが、リーチを考えれば仕方ありませんな」
どうにか及第点がもらえた私は調子に乗って鞭を振り回す。
「うおぉぉ! なんか私、強くなった気がします! あだっ」
鞭が弾いた小石が額を直撃する。
「やはり打点が近すぎますな。もう少し遠くを打つように心掛けた方がよろしい。次は向こうの岩が敵ということにいたしましょう」
「はいっ!」
額を摩りつつも特訓は続ける。ディルク師匠が示した岩の手前を目掛けて放るように鞭の先を飛ばすと、ひゅるるる、と飛んだ鞭の先がぽしゃん、と可愛らしい音を立てて湖に落ちた。
「あああ…………」
「釣りかよ!」
湖に落ちた鞭を引っ張っているとシュヴァルツに突っ込まれてしまう。そして更に遠くからもゲラゲラ笑う複数の声が聞こえてきた。
湖の向こう側は崖になっているのだが、その上からこちらを見ている数名の男たちが腹を抱えているのが見える。
「ふむ。もっと手首を利かせなければなりませんな。上に放るのではなく、上から下に叩きつけるイメージです」
「はいっ! ディルク師匠!」
威勢がいい私の返事が湖畔に響く。時々外野からの横やりが入りつつも私の特訓は続いた。
「才能ないんじゃね?」
「それは……言わないでください」
続けること一時間弱。私は打ちひしがれていた。シュヴァルツの言葉通り私にはどうやら鞭の才能がないらしい。手足にミミズ腫れがあるのは仕方がないにしても、自分で振っているはずの鞭に絡まるのは何故だろう? ディルク師匠もとても困ったお顔をしていらっしゃった。
とりあえず一旦休憩をということで、私は水際にある岩にだらしなく座り込んだ。ずっと鞭を握ってヒリヒリした痛みを訴える手を冷やしたかったのだ。
「自分の運動神経の無さにガッカリです……」
湖に手を浸しながらしょんぼりする。
「まあ、向き不向きはあるって」
口では慰めてくれるシュヴァルツだが、表情はそれを裏切ってにやにやと笑っている。
「はあ……お腹すいた……おさかな食べたい……」
湖の中をすいすい泳ぐ小さな魚を見つけて思わずつぶやくと、シュヴァルツが噴き出す。
「ぶっ。あれは食えねえって聞いたぜ。それにあんな小さい魚じゃ捌いてるうちに無くなるだろうに」
「アマネ殿は魚が好きなのかい?」
側で私たちの様子を見ていたギルベルト様も苦笑しながら話に加わる。フルーテガルトもそうだが魚が食卓に上がるのはノイマールグントではとても珍しいことなのだ。北側の海沿いの街や船があまり通らない川沿いくらいでしか食べられないと聞いている。
「私は肉の方が好きですな。しかし、そういえばこの辺りには珍しい魚がいると聞きましたな」
ディルク師匠も話題に乗っかる。
「この湖ではなく、西側の時計台の近くに湖がございましたでしょう?」
「ああ。そういえばここに来る前に見たね。柵で囲ってあったけれど、あそこに魚がいるのか」
「宿の者がそう申しておりましたな。なんでも数が少ないため領主が管理しておられるとか。宿の者が領館の料理人から漏れ聞いた話では、天にも昇る心地がするほど美味だそうです」
コクリと思わず喉が鳴る。天にも昇る心地だなんて、いったいどれほどおいしいのだろう? 昨日食べたラウロのお父さんのお料理もおいしかったけれど、たまにはお魚も食べたい! お願いしたら魚料理を作ってくれたりしないだろうか?
無茶なことを考える私を見てギルベルト様が微笑む。
「そろそろ宿に戻ろうか。アマネ殿のお腹が主張を始めたようだから」
気付かれていないと思っていたその指摘に私は頬を赤く染めた。
まったく、ノイマールグントの男性は耳が良すぎるよね。
◆
「なんだ? その額は」
旅芸人一座のテントに戻るというシュヴァルツと別れて宿に戻ると、ちょうど入り口でユリウスたちに行き会った。
「あー……、ちょっとぶつけちゃって……」
鞭の特訓で小石が当たったことをすっかり忘れていた私は笑って誤魔化す。
「ええと……バールの話は? どうなったの?」
話題を逸らしたかったこともあったが、バールのことはずっと気になっているのだ。
「午後に経営者に会いに行ってくる。ギルベルト様、お疲れのところを申し訳ありませんが、一緒に来ていただけますか?」
「やっと僕の出番かい? 構わないけど、理由を聞いても?」
「午後に会いにいく相手は商人なのですが、貴族の後ろ盾があるようなので」
ギルベルト様にユリウスが経緯を話す。
「そう。その方なら王都でお会いしたことがあるよ。僕の方から話をしてみようか」
「いえ、今日は経営者とその貴族の意向を探るだけですので。後日、具体的な話を受け入れやすいようアーレルスマイアー侯爵家の存在感をアピールしていただければ」
結構エグいことを言っているような気がするが、よくあることなのかギルベルト様は特に気にする風でもなく頷く。
「その会合の後、僕はドレスラー卿に会いに行こうと思っているのだけれど、君たちもどうだい?」
ギルベルト様は侯爵家の子息なので、領主と謁見することができる。渡り人の私も謁見の申し込みをすることは可能だが、今回は奥様がホーエンローエ家に連なる方だと聞いたため、遠慮しようと考えていた。
「ドレスラー夫人なら、午後からはカジノに行くんだろう?」
「そう聞いてますけど……」
どこかからヴェッセル商会がルブロイスにいることが知られたら、困るのではないかと思ったのだ。
「もうローマンに知られてしまったしな。構わんだろう」
ユリウスがそう言ったことで、私たちもドレスラー卿にご挨拶に行くことになった。
「ドレスラー卿にはピアノを納品してあるな」
「あ、そういえばチェンバロがお上手だってアロイスが言ってたよね」
アロイスの話では、楽師たちに混ざって演奏していたということだった。
「ケヴィンはどうするの?」
「僕はこれからヴァイオリンの売り込みに行くよ。というわけで、アマネちゃんの楽器を借りてもいいかい?」
「もちろん構わないよ」
この世界での楽器の販売は現物を売るわけではなく受注生産になるのだ。ケヴィンは私の楽器を見本にして売り込むつもりなのだろう。
そんな話をしていると、アロイスたちが戻って来て一緒に昼食をとりながら午後の予定を詰めることになった。
「俺とギルベルト様は今日の夜はカジノに行くつもりだから、夕食をどうするか考えておけ」
「へえ。ローマンさんに会うの?」
「それもあるが、ヤンクールの貴族たちから国内の情勢について話が聞ければと思ってな」
ユリウスはカジノで情報収集をしたいらしい。
「シュヴァルツから夕食のお誘いがあったんだけど……」
「アマネ先生! 私も行きたいです!」
湖でシュヴァルツに会った時に、みんなで食事をと誘われたのだ。モニカはきっと行きたがるだろうと思ったので許可がもらえたらと返事をしておいたのだった。だが、ユリウスたちがカジノに行くならヴィムも行きたいかもしれない。
「ふむ……ラウロは休みだったな。ヴィム、頼めるか」
「しょうがねえなァ」
「ごめんね、ヴィム」
「いいってことよ」
やっぱりカジノを楽しみにしていたらしいヴィムは少しガッカリした様子だったが、持ち合わせがあまりなかったようで潔く諦めると言い切った。
「ユリウス殿、私もカジノにご一緒してもよろしいでしょうか?」
そんな中、心なしか目を輝かせたアロイスがユリウスに声を掛ける。
「……賭け事は駄目だ」
「承知しております。ですがイカサマをするディーラーがいないか、見極める者が必要なのでは? ローマンが健全な経営者かどうかも確認したいのでしょう?」
「それはそうだが……」
アロイスはライナー時代に賭け事で借金をしていた。ユリウスはそれを心配しているのだろう。だがアロイスが言ったように慣れた者を連れて行きたい気持ちもあるらしく、難しい顔で悩んでいる。
「兄さん、せっかくだからアロイスさんにも一緒に行ってもらったら? アマネちゃんたちには僕が着いて行くよ。旅芸人のテントなんてなかなか入れないからね」
そんなユリウスを見てケヴィンが提案する。
「アロイスが使いすぎないように、お財布をユリウスが預かったらいいんじゃないの?」
まだ悩んでいる様子のユリウスに言ってみる。
「ふむ。それは良い考えだ。よく思いついたな」
「あはは……」
笑って誤魔化す私は、子どもの頃にゲーセンでUFOキャッチャーにハマり、兄にお財布を取り上げられたことがあったりするのだが、余計なことは言わないに限る。
「アマネさん……私はそんなに信用がないのでしょうか?」
そんな私を見てアロイスが悲し気に言う。
「ええと、そういうわけでは……そう! アロイスはユリウスが飲みすぎないように、見張っていてくださいね」
適当な思い付きを口にする私は、その後ユリウスに怒られることになるとは考えもしないのだった。