不思議の山
山に入った2日目の午後、小さな湖を見つけた私たちは、そこで休憩することになった。
「シュヴァルツ、お・ね・が・い」
「しょうがねぇな」
アンナの可愛らしくも色っぽいおねだりに、シュヴァルツが苦笑する。
「何のお願いでしょう?」
「今日は天気がいいだろ? 気温も高いから、アンナは水浴びしたいんだよ」
首を傾げるモニカにリリィが答える。
「この辺りの湖は水っつーよりもぬるま湯だしな」
「えっ、じゃあ、温泉じゃないですか!」
私は俄然興味を持つ。日本人たるもの温泉だったらぜひ入りたいと思うのは当然だ。
「でも、水浴びと言っても丸見えですよね?」
「まあ、見てなって」
モニカが首を傾げると、リリィが楽しそうに言う。
「そら! 準備出来たぞー」
それは、あっという間の出来事だった。シュヴァルツが地面に何かを置き、パチンと指を鳴らした瞬間、岩の壁が出現したのだ。
「ふおぉぉぉ! すごいです! どうやったんでしょう??」
「……て、手品じゃないでしょうか?」
目を丸くするモニカに尋ねられて私は冷や汗をかく。シュヴァルツはたぶん魔力を使ったのだと思うけれど、正直に言う訳にもいかない。
「あんたたちも一緒にどう?」
「喜んで! アマネ先生、行きましょう!」
こんなに簡単に魔力を使ってみせるなんて大丈夫なのだろうかと思いつつも、私はモニカを含む女性陣と連れ立って岩の壁の中に入る。ちなみに私が女だということはモニカがうっかり口を滑らせたために既に知られている。まあ、それほど隠す必要もないのだから問題はないのだが。
「あわわ……アマネ先生、えっちですー!」
「やめて、モニカ、本当にやめて!」
極端に布面積が少ない私の下着を見てモニカが頬を赤らめる。しかしそれは濡れ衣だ! これは私が意図的に持ってきたものではない。持参した下着の全てがこんなことになってるのはたぶん律さんの仕業だ。いつの間にか入れ替えられていたのだ。
「んおおぉぉ! アンナさん、ぽん! きゅっ! ぽん! です!!」
「モニカ、はしたないですよ……」
「リリィさんも! おうつくしいおみあし! 頬ずりしたい!!」
私の小言は耳に入らないのか、モニカはどこぞのおっさんのように大興奮だ。でも、確かにアンナもリリィも発育が良い。貧相な自分のからだを見て思わずため息が出る。
「私も数年後にはきっと!」
「ええ。モニカはまだ若いので、きっと成長しますよ。若いので……」
拳を握り締めるモニカの横で、ついつい卑屈な物言いをしてしまう私だ。
「アマネさんは細くて羨ましいわぁ」
「おっぱいの形も綺麗だよね」
そんな風に慰めてくれる二人にいたたまれなくなった私は、せっかくの温泉だというのにそそくさと水浴びを済ませる。
「外で待ってますから、みんなはゆっくりしてくださいね」
「はーい」
モニカの元気な返事を背に私は岩の壁から外に出た。
出た、はずだった。
「あれ……? 森? なんで??」
確か湖の周りは地面がむき出しになっていて、その先には草地が広がっていたはずだ。だというのに、私の目の前に広がるのは背の高い木々。慌てて後ろを見てみれば、たった今出て来たばかりの岩壁も無くなっており森が延々と続いている。
「ま、迷子? この年で? うそでしょ!?」
頭を抱える私だが、とりあえず森から出た方が良いだろうと考える。だって、繁みの中にはにょろっとした生き物がいそうなのだ。森から出ればきっと湖があって、みんながいるに決まってる! そう考えた私はとりあえず自分が来たと思われる方向に逆戻りする。
「でも……随分と深い森のような……」
「おぬし、迷子なのか?」
「は……?」
ぶつぶつ言う私の前に、突然小さな少女が現れた。5歳くらいに見えるその少女の髪は艶のあるまっすぐな銀色で、透き通るような白い肌も相まってまるで妖精みたいだ。
「えーと……、お嬢ちゃんは迷子なのかな?」
急に現れた少女に度肝を抜かれたが、こんな森の中に小さな子どもがいるのはおかしい。私が迷子だとしたらこの少女も迷子なのではと聞いてみる。
「失礼なことを言うでない。わらわはこの森に住んでおるのじゃ」
機嫌を損ねた少女が口を尖らせると、銀色の髪がふわりと風に浮き上がる。
「そうなんだ……。お名前を聞いてもいいかな?」
「わらわの名か? さて、なんであったかの?」
首を傾げる少女に困惑する。
「お姉さんはアマネと言います。お嬢ちゃんは自分の名前がわからないのかな?」
「ふむ。忘れてしまったのう。いや、しばし待つがよい…………そうじゃ、アリエルじゃ。わらわの名はアリエルじゃ」
腕を組んで考え込む少女は、ようやく思い出したのか嬉しそうに言う。
「さて、アナメよ」
「アマネなんだけど……」
「言いにくいのじゃ! むむぅ……おぬしはルーンじゃ! わらわがそう名づけてやろうぞ」
「……まあ、いいけど」
勝手に人の名前を変えないでほしいと思いはしたが、私は渋々了承する。天の音と書く自分の名前は気に入っているが、幼い頃は友だちに「あーちゃん」と呼ばれていたし、アマネという名が子どもにとって呼びにくいことは知っている。
「さて、ルーンよ。おぬしはおかしな魂をしておるのう。加護が見当たらぬ」
「え……わかるの?」
少女の言葉にどきりとする。加護、つまり魔力を持っていないということだろう。この世界の人間ではないのだから当然ではあるが、それがわかるなんてこの少女はいったい何者なのか。私の中に初めて警戒心が生まれる。
「そう警戒せずともよい。しかし、おぬしはなつかしい気配がするのう」
「懐かしい?」
「そうじゃ。ルーンはにがーーーい薬を飲んだことがあるか?」
急に薬の話になって私は戸惑う。苦い薬? この世界の薬は糖衣なんて施されていないので大抵苦いのだが、一体どの薬のことを言っているのだろう。
「心当たりはないのか? ふうむ……まあ、それはよい。ルーンよ、わらわは歌が聴きたいぞえ」
「歌?」
「そうじゃ。先ほど歌っておったろう?」
「先ほどって……随分前じゃない?」
確かにアリエルの言う通り、私は『側にいることは』を口ずさんでいた。でも、それは水浴びで休憩に入る前で馬車の中にいた時だ。
「わらわは耳がよいのじゃ」
そうは言っても、蹄の音や車輪の音が響いていたのだ。外まで聞こえたとしても誰かがアリエルを見咎めているはずだが、そんな話は聞いていない。
「ええと、アリエルはこのあたりに詳しいのかな?」
不思議な少女の話についつい惹き込まれてしまったけれど、今は戻ることが先だと考え直した私はアリエルに尋ねる。
「まあ、そうじゃの」
「お姉さんは元の場所に戻りたいんだけど、どう行けばいいのかわからなくて……道を教えてくれない?」
迷子という言葉を使うのは年を考えれば憚られ、濁しながらも帰りたいのだと主張する。
「ルーンが歌ってくれたら、おしえてやらぬこともないぞ」
「本当に?」
元の場所に戻れるのなら、歌うくらいならお安い御用だ。私はアリエルのリクエスト通りに『側にいることは』を歌い上げた。
「……まね……せ……い? …………ア……ネせ……い」
歌い終わるとモニカの声が聞こえてくる。
「時間のようじゃの。ルーンよ、またあそんでたもれ」
その声を最後にアリエルの姿が掻き消える。
目を瞬いているうちに、私は元の場所に戻っていたのだった。
◆
水浴びを終えた私たちは馬車に揺られて山道を行く。
「アロイスはルブロイスで行くところがあるのですよね?」
「ええ、そうですね」
1年ちょっと前のヴィルヘルミーネ王女の演奏会の後、アロイスには家庭教師の依頼が殺到した。その際、ルブロイスからちょうど王都に来ていた貴族からも依頼があったのだという。今回は営業も兼ねているので、ルブロイスに寄ることが決定した後にアロイスが手紙を書いたところ、ぜひ寄ってくれと返事が届いたそうだ。
「アマネさんにも一緒に行っていただきたいところですが、今回は難しそうですね」
「え? どうしてでしょう?」
アロイスの言わんとするところがわからずに首を傾げる。
「ルブロイスにはユニオンが作ったカジノがある」
「へえ。そうなんだ?」
「そうなんだではない。お前、ルブロイスではあまり出歩くなよ」
お小言モードに眉間の皺を増やしたユリウスに睨まれて首を竦める。
しかしルブロイスにユニオンが進出していたとは知らなかった。ユニオンは王都から撤退して北側の小領地に逃げ込んだと聞いている。その後どうなったのかは知らないが、てっきり縮小されたのだと思っていた。
「ルブロイスとユニオンって仲良しなの?」
「ルブロイスの領主の奥方はホーエンローエの姪だ。夫婦仲は良くないらしいが、ホーエンローエはユニオンを援助しているからな」
ユリウスによれば、ルブロイスはノイマールグントはもちろんのこと、ヤンクールやヴァノーネからも貴族たちが療養に来ることが多く、ちょっとした社交会のようになっているそうだ。貴族が集まるということは商人も集まるということらしく、ヤンクールのグーディメル商会も頻繁に訪れているという。
「ホーエンローエは娘をグーディメル商会に嫁がせたと言っただろう? その繋がりで以前からルブロイスに顔を出していたのだ」
「へえ。あ! あの館ってそのための?」
「北からノイム川を下り、あの館で宿泊してルブロイスに向かうのだろうな」
どうして北側に領地を持つホーエンローエがあんな場所に館を持っているのか不思議だったのだが、ようやく謎が解けた。
ホーエンローエが治めるリュッケン領はスラウゼンの北側にある。アーベルが描いた顔に例えれば、スラウゼンが鼻の左側でリュッケン領は左側の目から額にかけて広がっている。ノイム川にも一部接しているので、ルブロイスに来る場合は川を使うと考えられる。
「ルブロイスの領主はハインツ・ドレスラー卿ですよね。好人物だと思っておりましたが……」
宮廷楽師をしていたアロイスは、宴でルブロイスの領主を見たことがあるそうだ。
「どんな方なのでしょう?」
「男性陣と共にいることが多かったですね。チェンバロがお上手で楽師たちに混ざって演奏することもございましたが、穏やかな優しいお方でしたよ」
「ドレスラー卿は悪い人物ではないな。だが、ホーエンローエの策で姪を嫁を貰わざるを得ない状況に追い込まれたと聞いている」
ドレスラー卿は宴の席でホーエンローエから強引に酒を勧められ、酔ったところで姪が登場して既成事実を作り結婚を迫られたのだという。まあ、よくある話ではある。
「既成事実があったかどうかも定かではない。姪がそう言ったというだけだからな」
「じゃあ、夫婦仲は悪いの?」
「ドレスラー卿は誠意を持って対応していたようだが、ユニオンを呼んでカジノを作らせたことで拗れたらしい」
ドレスラー卿はカジノを作ることを反対していたという。
「ルブロイスはその地を訪れる貴族たちによって繁栄している街ではあるが、療養地でもある。多少の華やかさがあっても良いのだろうが、街の者たちへの説明を疎かにしたことや、治安についての策を講じないままにカジノを作ったことを問題視しているのだろう」
ユリウスの話を聞いて私は思う。フルーテガルトの街で好き勝手なことをしている私だが、街の人たちの中にはそれを望まない人もいるかもしれない。特に何かを言われたことはないが、そういうこともちゃんと考えなければならないのだろう。
「街づくりって難しいんだね」
「何を今さら」
「だって、アマリア音楽事務所はほとんどフルーテガルトの人がいないでしょう? もっと街の人の意見を聞かなきゃいけないなって」
マリアとジゼルがいなくなった事務所では、町の顔役であるブルーノの紹介で女性を二人雇うことになっているし、エルヴェシュタイン城の厨房では農家の女性たちと商品開発を行っている。だが、私たちがしていることについて具体的に説明をしたことはなかった。街の人たちから意見を聞こうと思ったことすらなかったのは反省しなければならない点だ。
「フルーテガルトに戻ったらハーラルト様に会いに行ってみようかな?」
「門前払いを食うだけだと思うが?」
「まあ、そうだけど……」
しかし、一番厳しい意見を言ってくれそうなのが、エゴン協会のカントルで、師ヴィルヘルムの天敵であるハーラルトなのだから仕方がない。
「そういえば、ハーラルト様は体調があまりよろしくないと聞きました」
キリルは街の友人たちから聞いたのだという。
「えっ、そうなのですか? やっぱり帰ったら……いえ、ルブロイスに着いたら手紙を書きましょう」
体調が悪いなら見舞よりも手紙の方が良いだろうと考える。きっと返事は来ないだろうけれど、気が向いたら読んでくれるかもしれない。ユリウスには街をうろつくなと言われてしまったし、きっと時間はいっぱいあるだろう。
手紙に何を書こうかと私はネタ帳を取り出す。パラパラとめくるとテンブルグで書いた内容が目に映る。
「そういえば、テンブルグに先生を派遣する話もあったっけ……まゆりさんたちにも手紙を送った方が良いかも」
ついでに律さんに厳重注意をしてもらわなければと考える私は、取り換えられた下着がどうなったのか考えもしなかったのである。