閑話 クリストフの災難と幸福
「もう、クリストフさんは暇なのぉ?」
律は可愛らしく頬を膨らませた。
9月の後半、フルーテガルトでは収穫期の盛りとなった。数日後にはエルヴェシュタイン城の厨房で採れたてのブドウを使ってジャムづくりが行われる予定で、衛生管理責任者の律も立ち会うことになっている。だが、道の駅がオープンしてちょうど半年となった最近は、スタンプラリーを完遂する客も増えて景品のテディベア作りに忙しいのだ。
「だって、りっちゃん。ダヴィデも出張レッスンに行く前に王都の想い人と進展があったらしいんだよ。ベルトランにはジゼルから手紙が来ていたし、僕だけ何もいいことがないなんて、不公平だと思わないかい?」
ジゼルからは律とまゆり宛てにも手紙が届いていた。9月に始まったバレエの学校では、基礎レッスンが中心でちょっとつまらないが、寄宿舎では友人も出来て毎日楽しいと書かれていた。
「ああ、マイスターは今頃どこにいるのかな? きっとユリウス殿といちゃいちゃしてるんだろうな。でも、アロイスも案外イイ性格をしているから、当てられっぱなしなんてことはないと思うんだよ。もしかしたら3人で……クッ、羨ましい!」
飲んでもいないのにくだを巻くクリストフを放置して、律は窓の外を眺める。
南2号館に間借りしている律たちが作業部屋としているのは南西の部屋で、南側の窓からはエルヴェ湖が、そして西側の窓からはラウロが作り上げたアールダム風の庭越しに南1号館が見える。
「律に言われても、困っちゃうよぉ」
律は西側の窓の脇にある紐を引く。クリストフには知る由もないが、この紐は南1号館の事務室に繋がっており、引けばベルが鳴る仕組みになっていた。テオとまゆりによるクリストフのサボり対策である。
「僕も誰かといちゃいちゃしたい! りっちゃん、ヴィム君がいないんだし、僕と今晩食事でもどう?」
「うーん。私ぃ、他の女性に目がいっちゃってる人は遠慮したいなぁ。まゆりんを誘ってみればぁ?」
「まゆり嬢は僕のことなんて眼中にないじゃないか。まったく、レイモンなんかのどこがいいんだか……」
ぶつぶつと文句を言うクリストフを横目に、まゆりん早く来ないかなと律が考えていると、可憐な少女が部屋の入り口から入って来た。
「失礼いたします」
「わぁ、二コルちゃん! いつこっちに?」
「つい先ほど到着しましたが、まゆりさんが粗大ごみの回収を手伝ってほしいと」
ニコリともせずに少女は言う。
「そうなんだ? うふふー、到着早々ごめんねぇ」
「いいえ。私も相手を探しておりましたので、丁度良かったのです」
「相手?」
少女はよく見れば男性のようにズボンを履き、丈の長いジャケットを身につけている。足元はロングブーツで、皮手袋をはめた手には長い紐状のものを持っていた。
「おや、これは?」
部屋の隅に寄せてあった巾着袋に気付いた二コルが首を傾げる。二コルの記憶によれば、それは確かアマネの物だったはずだ。
「ああ、それはねぇ、アマネちゃんの荷物からちょーっと拝借したんだよぉ」
うふ、と律はどこか艶めかしく笑った。
「んん゛、マイスターの友だちの二コル嬢だったね」
美少女の登場にジャケットの皺を伸ばしていたクリストフが、わざとらしく咳ばらいをして、極上の笑みを浮かべる。
「僕のことは覚えているかな? オーケストラでオーボエを吹いていたのだけれど」
「ええ、クリストフ様ですね。もちろん覚えておりますとも」
いたぶりがいがありそうって言ってたもんね、と律は内心で呟く。
「クリストフ様、私と共に参りましょう」
「フ……僕でいいのかい?」
美少女からの思わぬ誘いにクリストフは髪をかき上げて恰好を付ける。
「けれど、アーレルスマイアー侯爵の次男殿には申し訳ないかな?」
「お気遣いは結構です。ギルベルト様にも時々お願いしておりますので」
噛み合っているようで噛み合っていない二人の会話を聞いて律は口を挟む。
「二コルちゃん、それ、餌に使っていいよぉ」
巾着袋を示して律が言う。
「よろしいのでしょうか?」
「一応、私が作った新品だしぃ、荷物には別な物を入れてあるからぁ、平気だよぉ」
目を細めた律に二コルは頬をひきつらせる。あの目はハンターの目だと直感したようだ。
「まだ生徒さんがいると思うからぁ、エルヴェ湖畔がいいんじゃないかなぁ」
「そうですか。助言をありがとうございます」
二コルは持っていた鞭をピシリと鳴らし、クリストフを振り返った。
その夜、全身傷だらけでよろよろになったクリストフが複数人によって目撃された。その手には小さな白い布が大事そうに握り締められていたという。