ヘルム教
王都を発ったのは朝日も昇らぬ朝方だった。
私は昨日受け取ったドレスを着込んでいる。
いつまでも結婚しない兄を心配したケヴィンが見つけた、アールダムの商人の娘で兄の花嫁候補。
ケヴィンが考えた設定だ。
「ユニオンはまだアールダムまで手を伸ばしていないからね」
なるほど。ヤンクールやヴァノーネでは見破られる恐れがあるということのようだ。
「アマネさん、『バッテリー』というものはどうなりましたか? 問題ありませんでしたか?」
デニスに言われてはっと思い出す。昨日の夕食前にデニスに渡されたのをすっかり忘れていた。籠からタブレットを取り出して接続してみる。問題なく充電できるようだ。
「問題ないです! あ、わわっ」
「何をしている。落として壊れてももう手に入らないが、いいのか?」
「良くない!」
道はある程度整備されているが馬車の乗り心地はそれほど良くない。しかも街道は石畳すらしかれていない。ガタゴトと揺れる馬車の中では落としてしまう、とバッテリーを繋いだまま布に包み籠に戻した。
「ふふ、そんなに大事なものなの? むこうの世界はどんな世界? これはどう使うのかな?」
「それは音楽がたくさん詰まってて……ええと、録音技術ってこの世界にないんだっけ? 音を記録することなんだけど……」
「ないな」
「ユリウスはもうちょっと話を膨らませる努力をしようよ」
代わりにケヴィンが聞いてくる。
「録音ってどういうもの? 音の記録ってなんかすごそうだよね」
「音は空気を振動させて伝わるんだけど、それを信号に変換して記録するんじゃなかったかな?」
「それは商品化できないのか?」
「無茶言わないで……」
そんなことができるなら音楽家はやってない。物理学者にでもなっていただろう。
「相変わらずだね、兄さんは。でもアマネちゃんが来てくれて本当はうれしいんだよ。僕も嬉しいしね」
「そんな風には見えないんだけど?」
ケヴィンの言葉に疑いの目を向ける。ユリウスを見れば無視されてしまったのだ。
「ほら、僕たち男だけの兄弟でしょう? 妹が出来たみたいで嬉しいんだよ」
「妹って……私、ケヴィンより年上だよ」
年上だと主張するとケヴィンの表情が消えた。ユリウスは相変わらず無視を決め込んでいる。
「ええと、どうすりゃいいの、この空気……」
「アマネちゃん、僕はね、妹が出来たみたいで嬉しいんだよ」
ガシリと両肩を掴まれた。大事なことだから二回言ったのだろうか? 慌てた私はつい言ってしまった。
「わかった、わかったから……ええと、ケヴィンおにいちゃん! わかったから!」
ケヴィンが両手で顔を覆った。ユリウスを見れば口元を手で覆って顔を背けている。笑いたきゃ笑え! と私は自棄になった。
「ユリウスお兄ちゃん、ケヴィンお兄ちゃんを何とかして」
「…………俺を巻き込むな」
「もうっ! デニスさーん」
頼みのデニスは困ったように微笑むばかりで今回は助けてくれないようだ。
「ユリウスー」
「知るか」
けんもほろろに返されて私をヘソを曲げた。
そっぽを向いていると、復活したケヴィンがつんつんと頬を突いてくる。
「妹よ、機嫌を直しておくれ」
「まだその設定引っ張るの? 花嫁候補はもういいの?」
「馬車に乗り込むときに誤魔化せればいいのだ」
ふーん、じゃあもういいのか。
つまるところ私はまだ支部にいる設定であるらしい。だったら外に出てもいいのではないだろうか?
「御者台に乗ってみたい」
「却下だ」
「えー、いいでしょ? 私、ここにはいないことになってるんだよね?」
「襲撃犯が王都の外で待機してたらわからんだろう」
「なにそれ! ドレスを着ても無駄だったってことじゃない!」
「何もしないよりはマシということだ。それよりもお前、陛下の葬儀のことを考えておいた方がよいのではないか」
確かに。本決定ではないとはいえ、もし決まってしまったら時間的に厳しい。
陛下の葬儀は九月と言っていた。今は五月の後半だ。二ヶ月前までに楽譜を見せろとも言っていたので七月までには書きあがっていなければならない。ひと月ちょっとしかないのだ。
「演奏時間は30分くらいなんだよね。既存の曲から探すか、作ってしまうか……」
「既存の曲ではだめなのか?」
「楽器のことを考えると、作業時間的にはあまり変わらないんだよ」
この世界にない楽器の代わりを探したり、音域を確認したり、そのために編曲することを考えれば、一から作るのとあまり変わらないのだ。そもそも私は原曲をいじるのがあまり好きではない。作曲者の意図を捻じ曲げる行為に思えてしまうのだ。
「うん。作ろう。本決定後にとりかかろう」
「ならばやるべきことを考えておけ」
「そうだね。TODOリストを作っておこうっと」
籠からタブレットを取り出して起動する。まだあまり充電されていないのでメモ程度にしか使えないが、揺れる馬車の中で紙に書くのはきつい。
「まず頼んでおいた楽器の確認をして、それから……あ、ユリウス、金属加工の職人さんって紹介してもらえるかな?」
「ザシャに言っておく。この文字は? お前の母国語か?」
「うん、そうだよ」
タブレットに打ち込まれた文字をユリウスがしげしげと見ている。
「追加で頼む楽器はー……あ! ヘルム教のことも勉強しないと。教会も見ておきたいし、ヴィルヘルム先生にも会いに行かないと。楽典もあるし……」
リストアップしてみれば、フルーテガルトに戻ってからやらなければならないことが山積みなことに気が付いた。
「ヘルム教のことなら、フルーテガルトに着くまでに教えてもらったら?」
「それもそうだよね。ええと、誰が先生役をしてくれるのかな? ケヴィン?」
「そういうのはデニスが上手いから」
「お任せ下さい」
デニスが請け負ってくれたので、遠慮なく質問する。
「オペラの演目が神話だったんですよ。死んだ自分の妻を蘇させるために冥府に行くっていう」
「オルペウスですね」
「ヘルム教って一神教なのになんで冥府の神がいるんですか?」
「オペラの神話とヘルム教に関連はないのですよ」
「そうなんですか? でもヘルム教って異端に厳しいっていうか、他の宗教を許さないイメージがあるんですけど」
この質問に答えたのはユリウスだった。デニスには手に余る質問だったらしい。困らせて申し訳ない。
「オペラの演目はジーア神話と言ってヘルム教よりも古い多神教だ。だがこれは教えというよりも哲学に近いもので、太古より哲学者の議論に使われていたものが広まったと考えた方がよい。信仰とは少し違うため、ヘルム教とも共存できたのだ」
「そうなんだ? じゃあオルペウスを元に考えたらダメなんだね。故人が復活するって部分を使いたかったんだけど」
マーラーの交響曲第2番、最終楽章に使用されているクロプシュトックの賛歌のような使い方ができないだろうかと考えていたのだ。
「解釈によるが、具体的にはどういうものだ?」
「えーとね、生きるものは必ず滅びて、滅びたものは必ず蘇るって感じ。元の世界の宗教で、世界の終わりにあらゆる死者を蘇らせて裁きを行うっていうのがあって、そういう考え方がヘルム教にないかなって」
「それならヘルム教の教えと同じだね。問題ないと思うよ」
ケヴィンが後押ししてくれる。
「それならいいんだけど。私自身は特定の宗教に所属しているわけじゃないから、実はよくわからないんだよね」
「アマネちゃんは神を信じていないのかい?」
「信じていないっていうか、いてもいなくてもどっちでもいい感じ」
ケヴィンもデニスも信じられないという顔をしている。ユリウスはいつも通りの不機嫌顔だ。
「お前、外でそれを言うなよ。異端扱いされる」
「でも渡り人には日本人もいるでしょ? 私と似たようなものだと思うけど」
「確かに渡り人の考え方は独特だと言われておりますし、尊重もされていますが……」
「アマネちゃんみたいにはっきり言い切ったって話は聞いたことがないよ」
それはたぶん、そういう機会がなかっただけだろう。そもそも日本人は宗教に寛容だ。そういうものかと受け入れて反発しないだろうから問題にならないのだと思う。
「人様の信仰にケチをつけるつもりはないんだよ。元の世界でも国外に行けば宗教ってデリケートな問題だったもの」
キリスト教を信じていない人にクリスマスカードは送れないのだ。相手が何を信仰しているのかわからない場合は、そういう文言を使わずにグリーティングカードを送る。正直とても面倒だった。
「でも葬儀の曲を作るなら無視できない問題でしょう?」
だからわざわざ侍従長にも言ったたのだ。後々問題になりそうな点は共有しておいた方がいいに決まっている。軽くあしらわれてしまったけれど。
そもそも一つの宗教を信じる者にとって、日本のように宗教チャンポンな状態は思いもつかないのだろう。自分の不安がうまく伝わっていないことはなんとなくわかってはいたが、詳細を話す時間もなかったのだから仕方がない。
「まあいい。それで葬儀の曲は詩を入れるのか?」
「できればそうしたい。どこかにいい詩人さんはいない?」
「呼んだかな?」
呼んでません。暗黒詩の押し売りは受け付けないよ!
「ケヴィンに頼めばいいではないか。その方が安上がりだぞ」
「……王宮は通さなくていいの?」
「問題ない。むしろ王宮を通すと上前撥ねられるぞ」
「さいですか……」
守銭奴めとこっそり考えていると、ユリウスにため息をつかれた。
「何が問題だ? 女はああいう詩が好きなんじゃないのか?」
「はい?」
誰がそんなことを? と思わずデニスを見る。
「師ヴィルヘルムが」
困ったよう言うデニス。
先生のお茶目さんめー。いや確かに面白いけどね。
「ふふ、また目がまんまるになってるよ。かわいい妹のためなら、ケヴィンお兄ちゃんは頑張っちゃうんだけどな」
暗黒詩の作者様が乗り気でいらっしゃる……
「お前の宗教観が一般的ではないことを知るケヴィンに監修させるべきだ」
どうしよう。退路がない。
「ヨロシクオネガイシマス」
私に残された道は一つしかなかった。
◆
「今の歌って、渡り人の世界の歌?」
「あー……、また歌ってた?」
うるさくしてごめんね、と照れ笑いするアマネちゃんは、僕よりずっと年下に見えるけれど年上であるらしい。
「前も歌っていたな。渡り人の娘と」
「ああ、まゆりさんと歌った曲だね。『浜辺の歌』って言うんだよ。歌詞はね……」
淀みない説明は彼女の外見を裏切ってしっかりした内容だ。
「[あした]は今は明日って意味なんだけど、昔は朝っていう意味だったんだよ。[夕べ]も前日の晩っていう意味で今は使われているけど、この歌では夕方っていうことだね」
「現在と意味が違うということは、随分昔に作られたものということか?」
「うーん、確か大正初期だから……ちょうど100年くらい前になるのかなあ?」
兄さんが女の人とまともに雑談していることに驚くけれど、彼女の見た目を思えば、まあ無くはないのかなとも思う。
この世界の一般的な女性は、15歳くらいになると結婚を意識せずにはいられない。つまり、若い女性に話しかけられたら、男はそれなりの心構えを持って接しなければならないのだが、兄さんはそういうことがどうにも面倒らしく、若い女性を避けている節があった。
もともとの性格もつっけんどんな所はあるんだけど、でも子どもには優しい面をみせたりする。とってもわかりにくいけど。
でも、アマネちゃんは見た目は子どもに見えるけど、話してみるとちゃんと大人だ。なのに兄さんには忌避感がないように見える。これはもしかして、もしかしちゃうのかなと僕は期待しているんだけど、本当のところはどうなんだろう?
「王都へ向かう時に歌っていただろう? あれが聞きたい」
「いいけど……外見ててよ」
「フ……、何故だ?」
意地の悪い笑みを見せる兄さんは、とても楽しそうだ。
「もうっ、恥ずかしいから! いいから向こう見てて!」
恥ずかしがりながらも歌い出すアマネちゃんを、こっそり横目で見ている兄さんの口元は、珍しく穏やかな笑みを形作っている。
今みたいな時間がずっと続けばいいんだけど。でも、その前にまずは襲撃犯を捕まえなくちゃいけない。
面倒事はサッサと終わらせるに限ると、流れる景色を睨みつけた。
◆
襲撃があったのはフルーテガルトまであと半刻程で着く峠だった。
異変に最初に気付いたのは意外にも私だった。
「この辺りって動物とかいる?」
「野兎とか小さなものならいたと思うけど……どうして?」
「うーん、もうちょっと大きいような気がするけど、向こうに何かがいるみたい」
位置的には少し距離があるが、パキパキと枝を踏む音やザクザクと草を踏むような音がする。
「ラース」
「おうよっ!」
馬車のスピードが上がる。四半刻もかからずに峠を抜けられるようだが、上り坂になって少しだけスピードが落ちた。
そして、矢が飛んできた。
伏せていろと座席に頭を押し付けられ、突っ伏した私の視界に紐状のそれが映った。手にしているのはケヴィンだ。
「じっとしててね」
ウインクでもしそうな気楽さでケヴィンは馬車の後ろ側のカーテンからするりと出て行った。どうやら馬車の屋根に乗り上げたようだ。器用なことに骨組みを足場にしていた。
鞭!? 女王様!?
驚いていると頭上からヒュンヒュンという音が聞こえてきた。
「お前は動くな」
ユリウスの声が聞こえ、籠を渡される。スマホとタブレットが入っている籠だ。
『壊れてももう手に入らないが、いいのか?』
先ほどのユリウスの言葉を思い出し、慌ててスクエアネックの胸元に押し込む。
ユリウスはと言えば、先ほどまでケヴィンが座っていた座席を力づくで外し、幌に押しつけてバリケードにしている。
ふいに水のにおいがした。
パタ、パタ、と頭上から音がする。
雨かな? と思った時、頭上からケヴィンの声がした。
「兄さん、まだ……もうちょっと待って。10数えるくらい」
「アマネ、カウントしろ」
言われて数を唱える。正しいリズムは身に染みている。テンポ60でカウントすればいい。
「3」
「見えたっ! 抜けるぞっ」
ラースの声がする。
「2」
「あと少しです」
デニスの声も聞こえた。
「1」
ダンッ
ケヴィンが馬車の後ろから飛び込んでくる。
「0」
「息を止めておけ」
ユリウスの声と同時に巨大な水の塊が落ちてきた。