蔦の檻
街道を横切るように川が広がっている。向こう岸には倉庫のような建物が散らばっており、いくつかの船が停泊していた。荷を運ぶ男たちが忙しなく動いているのが小さく見える。
朝の早い時間にテンブルグを出発した私たちは、ルブロイスに向かっていた。以前アーベルが説明しながら描いた顔でいえば、顎の右側から左側へ横切る形だ。川が見えてきたということは、現在地はおそらく唇の右端の下あたりだろう。テンブルグからルブロイスまでは5日の行程だが、テンブルグの街が広い領内の西側にあることもあって地図上の距離はそれほどない。日数がかかるのは2日後に入る山道のせいだった。
「こんな高価なものをいただいちゃって良かったんでしょうか……」
私の手にはピアノを象った美しい宝石箱がある。テンブルグを発つ直前に見送りきたパトリツィア様に頂いてしまったのだ。ユリウスにもらった髪飾りとペンダントくらいしかアクセサリーを持っていない私なので、中よりも外の方が高価であることは確かだ。
「テンブルグは音楽の街として売り出したいと聞いた。宣伝しろということなんじゃないか?」
私の隣に座るエドが現実的な意見を言う。
「やっぱりそうなんでしょうか……?」
「アロイスももらっていただろう」
パトリツィア様は私だけでなくアロイスにもプレゼントを渡していた。表面上は取り繕っていたものの、どうやらパトリツィア様は演奏会でアロイスのファンになったようだ。あまり音楽は好きではなさそうだったパトリツィア様まで虜にするなんて、さすがアロイス。
中身を見せてもらったのだが、ヴァイオリンを象ったブローチだった。ガラス製の小さなビーズが宝石みたいにキラキラしていて、アロイスの目のように深い青色の石が一つアクセントに使われていた。ユリウスが言うには、その青い石はアウイナイトという宝石でテンブルグの近くの山で稀に採掘されるとても貴重な宝石であるそうだ。
「演奏会から2日しか経っていないのに、あんな素敵なものを用意してくださったなんて嬉しいですね」
「もともと土産として売るつもりで作っていたんじゃないか」
そんな夢のないことを言うエドは、ずっと前を見たきり私に視線を寄越さない。
「それで? 俺に話があるのだろう?」
「どうして話があると思ったのですか?」
「そうでもなければあの二人がアンタを離すはずがないからな」
あの二人とはユリウスとアロイスのことだろう。
私は音楽事務所の馬車ではなく、リシャールの馬車に乗せてもらっていた。同乗者は御者のエドと私の他にはリシャールとオーブリー、そしてラウロだ。ラウロは私一人では絶対に乗せられないと言い張って着いて来た。
先行する音楽事務所の馬車は、左右に分かれて座席があり進行方向に対して横向きに座るタイプのものだが、リシャールの馬車は後ろ側に商品を積むためなのか、進行方向に対して正面を向いて座席が二列ほど並んでいる。リシャールとオーブリーは後ろ側の座席に座っており、ラウロは私たちの真後ろにある一列目の座席に腕を組んで座っていた。
「声を張らなければ馬車の中には聞こえないから安心しろ」
真後ろに座るラウロを私が気にしていると思ったのか、エドがそんなことを言う。確かに気にならないわけではないのだが、まだ次の街まで数時間はあるのだ。今、話してしまって気まずくなったら嫌だなと私は考えていた。
「お話はありますけど、もうちょっと先に進んでからにしましょう」
私は巾着リュックからお菓子を取り出す。
「エドは甘いものも食べられますよね。あーんしてください」
「…………」
エドは私の手元を横目でチラリと見る。
「スミレの砂糖漬けが入っているクッキーですよ。 テンブルグで人気のお菓子なんですって」
スミレの砂糖漬けは元の世界ではショパンも好んでいたと言われている。ショパンはホットチョコレートに入れていたらしいが、ホットミルクや紅茶に入れてもいいし、ケーキの飾りつけにも使われているそうだ。
「ジラルドのところにも同じ菓子があった」
「へえ。甘いものを好まれるようには見えませんけど、そういえば私にお菓子をくれましたね」
「ミケリーノが時々持ち込んでいるらしいぞ」
私から話を聞き出すことを諦めたのか、エドは雑談に付き合ってくれるようだ。
「もう少し先に行くと森に入る。陽が陰って寒くなるから、アンタはその手前で中に入れ」
付き合ってくれると思ったのだが、そんなつれないことを言われてしまった。
「大丈夫ですよ。こう見えて病気はあまりしたことがないのです」
「怪我は多いがな」
怪我というか襲撃が多いのだが。
「すべてがアンタのせいとは言わないが、気を付ける努力はしたほうがいいぞ」
「それ、いろんな人に言われます。わかってはいるのですけど……」
ふとした瞬間に忘れてしまうのは、元の世界が平和だったからかもしれない。火事に巻き込まれたり突然殴られたり湖に突き落とされたり、絶対にないわけではないがそうそうあることではなかった。
「この国の民は貧しいからな。ヤンクールほど税は高くないからまだマシだが、旅に出たら賊に合わない者は幸運だと言われているぞ」
「そんなに高確率で襲われちゃうんですか?」
驚く私だが、そう言えばゲロルトと一緒にいた時にすでに襲われている。
「なんだ。もう襲撃にあったのか」
呆れたようにエドが言う。
「でも、ユリウスはしょっちゅうスラウゼンやテンブルグに行ってましたけど、大丈夫でしたよ?」
私がそう言えば、エドはニヤリと笑う。
「もうっ、揶揄ったんですね!? 脅かさないでください」
「だが、アンタは巻き込まれやすいからな」
「いやいや、さすがにそう頻繁に襲われるはずないでしょう」
「どうだか。気を付けるに越したことは無い」
元の世界の車や電車に比べたらずっとのんびり進む馬車は緊張感の欠片もない。前を行く事務所の馬車は、後ろのカーテンが巻き上げられていて、中の様子が少しだけ伺える。
「ふふ、なんか、モニカが膨れてます」
「キリルも不機嫌そうだな」
「後でご機嫌を取らないといけないかも」
暢気にそんなことを雑談をする私たちは、先ほどのエドの言葉がフラグになるとは思いもしなかった。
◆
馬は繊細な生き物だ。
軍などの戦闘で使われる馬は、銃や大砲の音がしても逃げ出したりしないように特別に訓練されているのだが、私たちが馬車で使っている馬は当然そんな訓練はしていない。
「おい、ぼんやりするな」
生い茂った繁みの中でエドが小声で注意する。
森に入ってすぐ、私たちは襲撃を受けた。相手は盗賊であるらしく10人ほどの屈強な男たちだった。御者台にいた私をエドはすぐさま馬車に放り込んだため詳細はわからないが、リシャールの馬車は手綱が切れて馬が逃げてしまい、急停止を余儀なくされた。
盗賊たちに囲まれる前に私はラウロに抱えられて馬車を降り、繁みに身を顰めながらその場を離れた。エドは一緒に着いて来たが、リシャールとオーブリーは別の方向に逃げたらしく姿は見当たらない。
そうして密かに進んでいると、開けた場所に馬車が1台止まっているのが見えた。心臓が嫌な音を立てる。
事務所の馬車だ。
こちらからは見えないが、馬車の向こう側に数人の気配がある。男たちの会話から察するに、ユリウスたちは拘束されているらしい。どうにか助けられないだろうかと必死になって知恵を絞り出していると、怒声が聞こえて私は身を竦めた。
「お頭ァー、二人捕まえたぜーっ!」
野太い男の声に息を呑む。リシャールとオーブリーが捕まったのだろうかとこっそり藪の間から見ていると、モニカを肩に担ぎキリルを引き摺った大男が大股で歩いてくるのが見えた。どうやらモニカとキリルは事務所の馬車から逃げていたようだ。きっとユリウスたちがうまく逃がそうとしてくれたのだろう。
男は馬車の側まで来ると二人を放り出す。
「うぅ……っ」
「乱暴するなッ!」
蹲るモニカを見てキリルが怒っている。思わず立ち上がろうとすると、両肩をラウロに抑えられた。
「もう1台はどうした」
「アイツら馬車も仲間も見捨てて逃げやがった」
「助けを呼ばれたら面倒だ。探せ」
その場にいた複数の男たちが散らばっていく。
「あっちだ!」
「追えッ」
人影が見えたのか一人が声を挙げると他の男たちも一斉に走って行く。ふいに後ろの方でカサリと草を分ける微かな音が聞こえ、私は身を固くする。
「オーブリーがうまいこと引き付けてくれたわ。今のうちに行くで」
姿は見えないもののリシャールの顰めた声が聞こえる。オーブリーが囮を引き受けてくれたことを知り、あんな小さな子どもなのにと私は唇を噛む。
エドが私の腕を掴む。
「モニカたちを……」
「後で助ける。アンタを逃がすのが先だ」
エドを睨みつけるが目を逸らされる。
「嫌ですっ。私だけ守られるなんて……」
小声で憤るとようやくエドは私を見たが、その目はひどく冷たかった。
「オーブリーの行為を無駄にするつもりか?」
そんな風に言うのはずるいと私は思ったけれど、何も言い返すことが出来ない。
「おい、道化師が言ったことを覚えているか」
肩に置かれたままのラウロの手に力が籠る。
「ラウロ……でもっ」
「俺が残る。必ず助ける」
ラウロの様子はいつもと変わらないが、私は守られている負い目と自分の無力さに歯噛みするしかない。私も一緒にと言いたいけれど、そんなことが出来る自分ではないとわかっている。
「コイツに何かあったら許さない」
ラウロがエドに向けて早口に言う。エドはラウロを横目で見て小さく頷く。
「ラウロ……」
「無事で」
決断できずにいる私にラウロが頷き、音も立てずに移動していく。
エドに引き摺られてその場を後にする私は、その背を見送ることしかできなかった。
◆
エドに連れられて向かった先にはオーブリーが待っていた。
「オーブリー君、無事で良かった……」
「すみません、アマネ様。向こうに馬を用意しています」
特に大きな怪我をしている様子もないオーブリーに安堵した私だが、その言葉に思わず眉を顰める。
「馬を? でも……」
リシャールの馬は逃げたはずだ。怪訝に思いながらも着いて行けば、2頭の馬が木に繋がれていた。馬車を引いていた馬は鹿毛と呼ばれる一般的な茶褐色の馬で、たてがみや尾は黒かったと記憶している。だが、その2頭の馬はたてがみも尾も茶色だ。
「いつの間に用意したのですか?」
「話している暇はないぞ」
訝る私を余所にエドが馬に跨る。どうしたらよいのだろうと思っているうちに、体に蔦が巻き付いた。
「何を……っ」
「後で説明する。手荒なことはしたくないんだ。大人しくしてくれ」
どうにかしようともがくが蔦はどうやっても切れず、そのまま馬に引っ張り上げられエドの前に座らされる。
「エド……加護を使ったのですね」
「口を閉じていた方がいいぞ。舌を噛む。それとも猿轡でもするか?」
リシャールたちがいるというのにという意味を言外に含める私にエドが素気無く言う。
「アマネ様、すんません。まずは安全な所に移動しましょ」
申し訳なさそうに言うリシャールは、オーブリーを前に馬に跨っていた。
仕方なく口を閉じると馬が走り出す。私が城で練習していた時よりもずっと早い。周りの木々が飛ぶように視界の端を過ぎていく。
「うぅっ、酔いそう……」
「ずっと先の方を見ろ。少しはマシになるはずだ」
エドは一応の気遣いを見せた。具合が悪くなると困るということかもしれないが。
しばらく行くと森を抜けて開けた場所に出る。小さな集落が見えたがエドはそこを素通りする。さらに行くと道が二手に分かれていたが、エドは迷わず右側の道に進んだ。
襲撃時はまだ傾いていた太陽がちょうど真上にある。ユリウスたちは無事だろうか。ラウロはうまく助け出してくれただろうか。放られて蹲っていたモニカは大きな怪我をしていないといいけれど。そんなことを考え始めると居ても立ってもいられず、つい振り向いてしまう。
「心配ない。無事だと風が言っている」
そんな私の様子を見てエドが言う。ジラルドの所で学んだエドは急激に力を着けているようだ。私に巻き付いた蔦は相変わらずビクともしない。
「だったら……戻った方が良いのでは?」
「その話は後だ」
誰も怪我はしていないのか、盗賊たちはどうなったのか、など質問してみたが、エドは何も言わずに馬を走らせるばかりだ。
夕方の気配が感じられるようになった頃、比較的大きな街に入り、エドは一軒の立派な屋敷に馬を進めた。
「リシャールたちが来るまでここでしばらく休んでいてくれ」
馬から降ろされて連れて来られたのは、貴人が住まうような立派な部屋だった。三階にあるその部屋には高級そうな家具が置かれていたが、窓は蔦で覆われていて薄暗い。
「悪いが扉には鍵をかけるぞ」
エドは蔦の拘束を解いてくれたが、部屋の外に出ては駄目だと言う。
「窓の蔦は俺の魔力で作ったものだ。切ったら恐ろしいことになるから触れない方がいいいい」
「恐ろしいことって……どうなるんですか……?」
「知りたいか?」
それは念のために知っておきたい。たぶん今夜はこの部屋で休むことになるのだろうし。
「そうだな……化け物が出る」
「……エドは私を何歳だと思っているんです?」
「化け物は流石にダメか」
苦笑するエドはいつものエドで、私は今の状況を怒っていいのか分からなくなってしまう。
「化け物はともかく、その蔦を切れば俺はわかるから、逃げられないと思ってくれ」
「逃げるなんて……どうしてそう思うんです? エドは私の護衛で、盗賊から私を助けてくれたのではないのですか?」
本当はもうわかっている。エドは私を拉致したのだ。だけど、だからといって今からエドを大嫌いになれるはずもない。
「ラウロから話は聞いたんだろう?」
「多少は聞いていますけど、こんな風に強引にする必要があるとは思えません」
エドはリシャールに頼まれて私がヤンクールに行くように説得したいのだと思っていた。だが、それならば普通に話せば良いことだ。こんな風に人攫いまがいのことをする必要がどこにあるというのか。
「それについてはリシャールに聞いてくれ」
「今回の発案者はリシャールさんなのですか? エドはもしかして何か脅されたり……」
「そうじゃない。俺は詳細を知らないだけだ。だが、リシャールは悪い奴ではないぞ」
詳細を知らないまま人を拉致するなんて、エドはそれほどまでにリシャールを信頼しているということなのだろうか。
落胆する私を余所に部屋の扉が開く。
「すみません。ジーグルーンにこんな手荒なことをしてしまって」
困ったように笑いながら部屋に入ってきたのは、べっこう飴みたいな瞳を持つ知らない青年だった。