テンブルグの音楽工房
テンブルグ滞在の最終日、私はギュンターに面会を申し込んだ。
「大丈夫か?」
「うん」
言葉少なに気遣うユリウスに頷いて見せる私だが、心の中は不安がぐるぐると渦巻いている。
テンブルグ領主のバルトロメウス様にギュンターのことをお願いをした私だが、少し試したいことがあってギュンターに会うことにしたのだ。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
案内係に声を掛けられ、私は待合室の席を立つ。
「行ってくるね」
「……ああ」
一緒に会うとユリウスは言ってくれたのだが、私は一人で会うことにした。正直に言えばギュンターに会うのは怖い。でも、ユリウスに着いて来てもらったら、きっと鼻で笑われると思うのだ。それはなんか悔しい。
さっさと忘れてしまえばいいのにギュンターのことが気になって仕方がないのは、なんだかんだ言っても、きっと私の中に彼を見返したいという気持ちがあるのだと思う。こうして会う直前になってみれば戦いに挑むような、負けられないという気持ちが湧き上がる。
口をぎゅっと引き結び、目に力を入れて足を踏み出す。なんだか指揮台に向かう時みたいだ。
案内係の後に続いて薄暗い廊下を歩けば、カツン、カツン、と二人分の靴音が響く。
ギュンターが収監されているこの牢獄は、テンブルグの中心街から少し離れた森の中にある。元は修道院だったというこの建物は、頑丈そうな石造りで装飾の類が一切なく、俗世間から隔離された場所であることを実感する。
通常、罪を犯した者との面会は制限があり、高位の者でなければ認められない場合が多いという。それは身分の高い者に対する配慮というよりは、訪れた者の身元を確認しやすいからだそうだ。私の場合はバルトロメウス様と面会した際に許可証を発行していただいたが、渡り人は王宮に届け出る必要があることから身元の確認がしやすく、申請は通りやすいと聞いた。
無言のまましばらく進むと、簡素な鎧を身につけた男性が立っている扉の前で案内係は足を止めた。
「こちらに掛けてお待ちください」
通されたのは礼拝堂だった。中央の通路を境に左右に背もたれ付きのベンチが並んでいる。案内係が示した最後列の右端に私が浅く腰掛けると、扉の前にいた警備兵らしい男性が槍を持って入り口近くの中央の通路に立った。
「収監者は前方から入室して左側にある椅子に座ります」
案内係が左手で場所を示す。ちょうど私がいる位置から対角線上の部屋の隅に背のないベンチが置かれている。ずらりと並んだベンチが何かあった時のバリケードになるのかもしれない。相手が私の座っている位置まで来るとすれば、ベンチを何個も飛び越えるか警備兵がいる中央の通路を通るしかない。
「あの、立ち上がってもよろしいでしょうか?」
「座ってお話ししていただきたいのですが……そちらをお使いになられるのですか?」
案内係の視線の先には、私が持参したヴァイオリンがある。
「ご迷惑でしょうか……?」
念のため、前もってバルトロメウス様に許可はいただいたのだが、現場まで話が伝わっていないのかもしれないと私は焦る。
「娯楽は制限されておりますが……音楽の差し入れということにいたしましょう」
案内係はそう言って生真面目そうに引き結んでいた口元をほころばせた。
ほどなくして左前方の扉が開く。刑務官らしき男性の後ろから手に縄を掛けられたギュンターが若干覚束ない足取りで入室して来る。その後ろには更にもう一人の刑務官がいる。ギュンターは拘束されていて動きにくいのか、椅子に腰かけようとして壁に肩をぶつけていた。
「お話ししてくださって結構ですよ」
ギュンターがどうにかベンチに納まると案内係が私に声を掛ける。私は頷いて前方に視線を向けた。
ギロリ、と鋭い視線が私を射抜く。
「…………ギュンター様、」
「誰かと思えば渡り人殿でしたか。こんなところに何の用です? わざわざ俺を笑いに来るとは随分いい趣味だな! ああ?」
尻上がりに粗雑になる言葉と声に体が竦む。ギュンターの両脇に立っていた刑務官が長い棒を使って押さえ込むのが見えた。
「大丈夫ですか?」
「……はい。すみません」
案内係に声を掛けられ、私は詰めていた息を大きく吐き出す。
「ギュンター様、私はあなたに実験台になっていただくためにここに来ました」
「ああ? 実験台だと……?」
「ええ、そうです」
そう言って膝の上に置いてあったヴァイオリンを手に立ち上がる。ギュンターが口を開く前に最初の4重音を鳴らす。
バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番』だ。情けないことに膝が震えて指先もぶれる。けれど、意外なことにギュンターは凶悪な表情のまま最後まで黙って聞いていた。
「……フン、下手くそが」
演奏が終わるとギュンターは鼻で笑い、しばらく押し黙った。私も黙ってギュンターを観察する。
「テンポわりぃ、重音が汚ねえ、ピッチが狂ってる! 基礎からやり直して……」
「はい。出直して来ます」
暗にまた来ると言えば、ギュンターは眦を吊り上げて私を威嚇する。
「ざけんな! もう来んな!」
ギュンターの悪態を合図に、面会時間が終了した。
◆
「気は済んだか?」
「うん。また来るけど、とりあえずは」
ギュンターと面会した私は、宿屋へ戻るべくユリウスと共に馬車に乗った。
「実験は成功したのか?」
「ううん、全然。もっと頑張らないとダメだ……」
私がギュンターで試しているのは、「誰かの心に響く演奏」だ。ゲロルトについてはアーベルに任せるとして、理不尽な思いやつらい思いを抱えながら生きている人はきっとたくさんいる。そんな人たちの慰めになる演奏ができるように、ギュンターを相手に実験をすることにした。あそこまで荒ぶっている人の心に響く演奏ができれば、他の人にも聞かせられるものになるのではないかと考えたのだ。
と、言い訳しつつも、結局はギュンターに認めてほしいのだという自覚は一応ある。あるけども、それはなんだか悔しいので深くは考えないことにした。
「ギュンター様がまた聴きたいって言うまで、頑張るよ!」
「その前に支払いが終わる可能性が高いがな」
ユリウスの言う通りだ。今の私の演奏ではギュンターの頑なな心には届きすらしない。
「ユリウス、ありがとうね。私の好きにさせてくれて」
「どうしたのだ? 急に」
ギュンターの襲撃からしばらくした頃、レイモンがこっそり教えてくれたことがある。
「本当はギュンター様のこと、怒ってたでしょ?」
「……当然だろう」
私は知らなかったのだが、フルーテガルトで捕縛されたギュンターの様子をユリウスは見に行っていた。その際、うっかり殺してしまいそうだからとレイモンを付き添わせたそうだ。
「ユリウスが怒ってるってわかってたのに、勝手なことしてごめん」
「次はないと言いたいところだが、駄目だと言えばお前は俺に言わずに動くだろう?」
「そんなことは……」
あるかもしれないとちょっと思う。言い淀んでいるとじろりと睨まれて首を竦める。
「お前とギュンターは会わぬ方が良いと俺は思う。俺とゲロルトのようなものだ」
「……うん。ちょっとわかるかも。ギュンター様に演奏を貶されて憎たらしいって思ったし、ギュンター様ももう来るなって言ってたし」
「ならば……」
ユリウスの言葉に首を横に振る。
「ごめんね。もうちょっと続けさせて。ギュンター様とは未来永劫分かり合えないと思うけど、やられっぱなしは悔しいし」
私がそう言うとユリウスは仕方なさそうに笑う。
「バルトロメウス様と話をしていた時、お前、何か考えていただろう?」
「えっと、何の話をしていた時?」
「刑罰だ。アールダムの話をしていた時だ」
ユリウスに言われて思い返してみる。アールダムでは囚人に労働をさせて矯正する試みを始めたという話を聞いたのだ。
「元の世界ではどうだったっけって考えてたんだよ」
「ふむ。どうだったのだ?」
「私がいた日本の場合はアールダムと同じような仕組みだったんだけどね、再犯率は確か5割だったんだよ」
「そんなに高いのか?」
ユリウスが驚くのも無理はない。私もその話を知った時はとても驚いて、本当だろうかと調べたことがあったのだ。
日本の刑務所には厳しい規律があり破れば懲罰が課せられるが、半分が再び罪を犯すことになるのなら再犯に関しては効果が薄いということだ。
例えば会社などでお前は駄目な奴だと毎日言われたり、そうと思わせるような態度を取られ続けたりしたらどうだろう。入ったことがないから想像だけど。もし、そんな環境だったとしたら、反省するよりも卑屈になってしまって社会復帰は難しくなるのではと思う。
更に、日本ではどんどん厳罰化が進んで刑期が伸びる傾向にあり、刑務所はパンク寸前だとも言われていた。
「でもね、日本の犯罪発生率はそんなに高くないんだ」
日本はたぶん、決められた枠からはみ出た人を受け入れにくい社会だったのだと思う。ただし、犯罪発生率の低さを見れば、それは一概に悪いことだとは言えない。
「世界的には脱厳罰化が進んでいたんだけどね」
「その場合の再犯率はどうなのだ?」
「一番少ない所で2割を切ってたはずだよ」
刑務所に塀がないことで知られるノルウェーの例だ。ノルウェーでも銃乱射事件というような恐ろしい事件がないわけではない。だが、厳罰化という方向に社会全体の意見が流れたりはしないのだという。歴史や宗教など社会のベースとなるものが違うので単純な比較はできないが、非常に考えさせられる事象だ。
「刑罰が軽い方が再犯率が低いということか」
「うん。確か最高刑でも禁固21年だったかな? でも刑罰だけじゃなくて、刑務所の環境や過ごし方も違うんだよ。刑罰を科すというよりも社会に戻すためのリハビリ期間っていう考え方なんじゃないかな」
ノルウェーの刑務所の写真を見たことがあるのだが、まるで学生の寮みたいな部屋で、テレビも冷蔵庫もシャワールームもあって大きな窓には柵がなかった。食事も職員と一緒に作ることができるし、休憩時間に楽器を演奏することだってできる。スタッフの数も多くカウンセリングを重要視しているようだった。
「社会全体の犯罪の抑制にはなっているのか?」
「うーん、それはそうでもないっていうか、刑務所がいっぱいで収容待ちの人もいるみたいなんだ。ただ、外国人の犯罪が増えてるらしいから、刑務所の評判が良すぎて流れ込んだ可能性があるのかも。だから一概には言えないみたい」
ノルウェーでは刑務所が満員状態だが、似たような取り組みをしているスウェーデンでは逆に刑務所が空きすぎて閉鎖されている。ただし、スウェーデンの場合は再犯率は低いが犯罪発生率そのものは若干上昇傾向にあるという。
「どれを取っても一長一短ということか」
「そうだね。でも人間は一人一人みんな違うし、犯罪者だからって十羽一絡げみたいな対応はちょっと違うのかなって思う」
ただし、私の考え方は犯罪者を社会復帰させるというのがベースにある。もしかすると犯罪者予備軍みたいな兄を持ったせいなのかもしれない。そもそも犯罪者を排除、あるいは隔離すべきという意見とは反発するものだという自覚もある。日本は犯罪発生率が世界的に少ないのに、治安が年々悪化しているという意識を持つ人が多い国だ。そういう社会では私のような考え方は受け入れ難いと思う。
「アマネ、お前にとって日本という国はどういうものだった?」
「良くないところもたくさんあったけど、いいところもたくさんあって、私は好きだったよ」
こんな話をした後では疑わしいと思われるかもしれない。だが、日本という国はおおらかさに欠けるところがある国で、良くも悪くも突出した人を生み出しにくい社会だったけれど、基本的には人々は真面目で善良だ。文化に対する柔軟性だってあると思う。ただ犯罪者に対して物騒なだけだ。
「帰りたいか?」
硬い表情でユリウスが言う。私としてはとても答えにくい問題だ。
帰りたいか帰りたくないかで言ったら帰りたい。いい感じに仕上がりそうなやりかけの仕事もあったし、ネットで買った楽譜代の支払いとか部屋が汚いままだとか、家族のことだってもちろん気になっている。
だけど、この世界にだって私にとってかけがえのない存在がたくさんいる。マリアを始めとするアマリア音楽事務所のみんなもそうだし、ヴェッセル商会のみんなだってそうだ。そして、その筆頭にユリウスがいることは言うまでもない。
問いに答えられない私は、離したくないんだよという意味を込めてユリウスの手を握り締めた。
◆
ザシャが見つけた物件は、たくさんの店が並ぶ大通りを抜けてマリアが学ぶ中等学園へ向かう道の途中にあった。
「うわ、かわいい! 素敵な工房になりそうだね!」
「だろ? 中心地には遠いけど、生徒たちに貸してる楽器も時々メンテナンスしねえといけねえから、学校に近い方がいいと思ったんだ」
薄いオレンジ色の壁に朱色の三角屋根、二階には上が丸くなっている白い木枠の窓が二つある。裏に回ると馬車が停められるようなスペースがあり、倉庫にも使えそうな小屋が併設されている。
「屋根裏もあるのだな」
ユリウスの言う通り、三階部分には正円の小さな窓がひとつ付いている。
「俺はそこで寝起きするつもりなんだ」
「二階にも居室があるようですが、そちらは使わないのですか?」
アロイスの質問にザシャはニヤリと笑う。
「その部屋は従業員に使ってもらおうと思ってんだ」
ヴェッセル商会のテンブルグ支部は厳密に言うと支部ではないらしい。一つの独立した工房という体裁をとるとユリウスは言っていた。そのためなのか、従業員を雇うことになったのだ。
「ザシャ君と一緒に住むのですか?」
「いや、とりあえずは通うって言ってっけど、ちょっと遠いだろ? 冬になったら寝泊まりしてもらってもいいし、そうしなくても具合が悪い時とか使えた方がいいだろ」
全く使う様子が無ければ、ザシャと入れ替わりでテンブルグに来る者に使ってもらえばいいとザシャは考えているそうだ。
「春になったら誰が来るの?」
「デニスが適任だと考えている。雇う者を決めたのはいいが、楽器については素人だから詳しい者の方がいいだろう」
「フルーテガルトのお店は大丈夫?」
「父がそれなりに使えるようになったからな」
ユリウスのパパさんに対する言い様はともかくとして、私としてはいろんなことを教えてくれたデニスがいなくなってしまうのは寂しいけれど、マリアにとっては安心だろう。
新しい従業員たちには経理などの事務仕事と楽器メンテナンスの受付や日程調整をしてもらうそうだ。王都支部でミアがやってるような仕事内容だ。
「しかし、ユリウス殿が彼女たちを推した時には驚きました」
「うん。私も」
新しい工房ではリナとギュンターの母親を雇うことになった。リナとギュンターの母親の窮状をヴィムから聞いた後、ユリウスが言い出したのだ。
「目が届く範囲に置いた方がよいと考えただけだ」
ユリウスがそうしようと考えたのは、例の噂話が原因だった。私がテンブルグに来たのは少なくとも中等学校の子たちは知っているわけだし、そのタイミングでリナが職を失えば私が何かしたという噂になる可能性がある。これ以上おかしな噂にならないよう先手を打つとユリウスは言ったのだった。
理由はどうあれ、私としてはもちろん大賛成だ。大嫌い宣言の後は会うこともなかったけれど、リナのことは気になっていたのだ。
求人の募集はヴェッセル商会の名前を出さずに、フライ・ハイムのフランクに頼み込んで渡り人に対する求人という体裁を取った。騙しているようで罪悪感があったが、私たちが絡んでいることを知ればリナが忌避するだろうと思ったからだ。
「まあ、すぐにバレるだろうがな」
「それはそうだろうね」
ヴェッセル商会との書面のやり取りもあるのだ。同業種だからという言い訳ができないわけではないけれど、頻度を考えればいずれ知られてしまうだろう。
「俺が説明するしかねえよな。けど、辞めるって話になっても俺は引き止めねえぞ」
「それで構わん」
私としては引き止めてほしいけれど、雇うのはヴェッセル商会だ。そこに私が口を挟むのは違うだろう。なので、もし彼女たちが辞めることになったら諦めるしかないと思っている。
「彼女たちはいつからこちらに?」
「明日だ」
アロイスの問いかけにザシャがニカリと笑う。
「ところでだ。ヴェッセル商会の名前を使わねえなら、なんか名前を考えねえとな」
「もう決めてあるぞ」
「マジかよ? ったく、相談ぐらいしろっての」
項垂れるザシャは候補を見繕っていたのかもしれない。
「何て名前?」
「マール音楽工房だ」
「マールって、マール貿易のマール?」
「そうだ」
ユリウスが言うには、この工房ではマール貿易の仕事もいずれ行うらしい。その際、マール貿易と関係がある会社だとわかる名前である方が都合が良いそうだ。
「そんな話、聞いてねえぞ!?」
「当面は特にないぞ」
「けどよぉ、テンブルグの役人が絡むんだろ? そっちに任せりゃいいじゃねぇか」
「ずっと領主導というわけではないのだ。テンブルグの大きな商会に任せても良かったが、工房を作るなら自分でやった方が早いからな」
ユリウスってばどれだけ仕事を抱え込めば気が済むのか。
「そのためにデニスをここに置くのだ」
「ああ、なるほど。でも、先のことまで考えてるなんてすごいね」
感心してそう言えば、ユリウスは呆れたように私を見た。
「お前も少しは考えた方が良いのではないか?」
「えー、来年の演奏会のことはちょっとは考えてるよ?」
「そうではない。バルトロメウス様から頼まれたことがあっただろう?」
「あ……忘れてた……」
急ぐ話ではなかったので後で考えようと思っていたのに、すっかり忘れていた。
「うぅーっ、重いです! キリルも手伝ってくださいよー」
「見ればわかるだろ。僕だって手が塞がってる」
慌ててネタ帳を取り出して書き込んでいると、外からモニカとキリルの声が聞こえてくる。二人はラウロやヴィムと共に工房で使うものを買いに行っていた。エドはギリギリまでジラルドのところで教わりたいそうで、今日は不在なのだ。
「手伝ってあげないと二人がへそを曲げちゃうかもね」
「あー……モニカは怒るとうるせえし、キリルは喋らなくなるんだよな」
「そろそろヴィムが癇癪を起すのではないか?」
「ラウロも困っていそうですね」
互いに顔を見合わせて苦笑し、モニカのご機嫌を直すべく立ち上がった。
テンブルグの長くて苦いお話は一旦終了です。次からは護衛たちのお話です。