キリルとモニカの活躍
「キリル! 襟が曲がっています!」
「自分でできるよ! うるさいな……」
母親に世話を焼かれる息子のように、キリルは小声で文句を言っている。
中等学園での演奏会のために、私たちは楽屋として用意されていた小部屋にいた。先ほどまではマリアとシモーネも来ていたのだが、生徒たちもそろそろ席に着かなければならないということで引き上げた。
「アマネさん、緊張していませんか? 手は空いておりますよ」
「今日は大丈夫ですよ」
アロイスが手を差し伸べてくれたが、今回は断っておく。キリルやモニカの前でみっともないところは見せられないし。
でも、それほど緊張していないというのは本当だ。学校という独特の空気の中にいると、緊張感よりも懐かしさが込み上げる。吹奏楽部に所属していた私は学校行事で演奏することも多かった。そんな時は緊張よりも友だちの前で演奏する誇らしさや照れの方が強くて、早く始まらないかなとわくわくしていた記憶がある。
「キリルはあまり緊張しているように見えませんね」
「モニカがあんまりうるさいので、緊張が逃げてしまったのだと思います」
肩を竦めて言うキリルだが、ここに来るまでは口数も少なく硬い表情をしていたのを私は知っている。モニカと言い合っているうちにいつもの調子を取り戻したようだ。
「準備はよいか? そろそろ舞台袖に移動するぞ」
懐中時計を見ながらユリウスが言う。
「最初はアマネ先生ですね!」
演奏順は私、キリル、アロイスという順番だ。アロイスが演奏する時は私が伴奏することになっている。
今日のメインはキリルだ。演奏時間も一番長くとってある。
今回のヴァノーネ行きではあちこちで演奏する機会が多いだろうと考え、私はキリルのためにいくつが楽譜を起こした。その中から今日演奏するのはベートーヴェンだった。
「『熱情』ではないのだな」
「うん。『ハンマークラヴィーア』って呼ばれているピアノソナタなんだよ」
ピアノソナタ第29番、別名『ハンマークラヴィーア』はベートーヴェンの後期の作品で、演奏時間が45分ほどある大作だ。作られた当初はあまりにも難しすぎたため演奏不可能と言われたが、ベートーヴェンは「50年くらい経てば弾けるようになる」と言い切ったらしい。実際は、その約20年ほど後になってクララ・シューマンやリストが演奏するようになった。
「キリルの音はベートーヴェン向きだと思うんだ」
ロマンス作品集の伴奏を行った成果がでて、当初よりも柔らかい演奏ができるようになったキリルではあったが、華やかさや柔らかさよりも緻密で力強い演奏の方が得意なのは変わらない。今回は実質デビューということもあり、キリルらしさを選択した結果、ベートーヴェンという選曲に繋がったのだ。
「お前は何故ショパンにしたのだ?」
「聴衆が生徒さんだからね、ショパンは外せないなって思って」
私が演奏するのはショパンの『舟歌』だ。ショパンの晩年の作品で演奏時間は8分ほどの小品だ。
生徒の中には初めてピアノを聞く者もいるだろう。ならば、ぜひショパンを聴くべきだと私は思うのだ。
ベートーヴェンの曲は素晴らしいが、残念なことにまだピアノ自体が彼の音楽性を表現するレベルに達していなかった。ショパンの時代にはピアノ造りの技術も演奏技術も共に発展を遂げていた。ゆえに、ピアノの良さを最大限味わうならショパンだと思う。
それに加え、音楽に興味のない生徒もいるだろうから、できるだけ情景を思い浮かべやすい曲がよいと思ってこの曲を選んだのだった。
『舟歌』とはベネチアのゴンドラを漕ぐ船頭が歌う曲のことで、色々な作曲家が『舟歌』という作品を残しているのだが、中でもショパンの『舟歌』は傑作だと言われている。きらめく水面がトリルによって表現され、ゆったりと揺れる船の様子が自然と頭に浮かぶ、そんな曲なのだ。
「アロイスはクラッセン教授からリクエストがあったのだろう?」
「ええ。ブラームスが良いと依頼の手紙に書かれておりました」
クラッセン教授は春に行われた協奏曲の演奏会には来ていなかったそうだが、周囲の評判を聞いてぜひブラームスをと言ってきたのだ。
「ピアノ伴奏で協奏曲をやっても良かったんだけどね。せっかくだから、新しく楽譜を起こしたんだよ」
アロイスが演奏するのはブラームスのヴァイオリンソナタ第1番。通称『雨の歌』と呼ばれる曲だ。この曲は第3楽章にブラームス自身が作った歌曲『雨の歌』のメロディーが使われている。そのことから『雨の歌』と呼ばれるようになったらしい。そして歌曲『雨の歌』はクララ・シューマンにプレゼントした曲だとも言われている。
「すごく素敵な曲なんだよ! ブラームスらしい旋律でね、聴いているととろ~んとしちゃうの!」
「わかります! ロマンチックですよね!」
「モニカもそう思いますか? ウットリしちゃいますよね!」
女生徒たちの目がハートになること間違いなしだ。そうモニカと頷けば、男性陣はそっと目を逸らした。何故?
◆
「わたしは、鼻が長い、です」
それを言うなら鼻が高いだ。まあ、ドイツ語では長いで正しいのだが。
演奏会は大成功に終わった。私とモニカの目論見通りアロイスの演奏では女生徒の目がハートになっていた。そして、キリルの演奏は保護者の女性たちや先生方まで目をウルウルさせていた。まあ、私も人のことは言えず、舞台の袖で目を真っ赤にしていたのだが。
「キリル、すごいです。わたしも、負けられないです」
「そうだね。私たちも頑張らなくちゃ」
マリアと共に私たちを見送りに来たシモーネが拳を握る。褒められたキリルは頭を掻いて照れている。
テンブルグ中等学園では、大学に進学する者たちの他に音楽家を志す者や軍を志す者など、いくつかのコースに分かれて勉強しているのだが、シモーネもマリアと同じコースで音楽を学んでいるそうだ。楽器はヴァイオリンを勉強中なのだとか。授業では自分の楽器を使っても良いし、学校で貸し出しもしている。貸与用の楽器は地元の工房から提供されたものが多いが、ヴェッセル商会も無償で提供している。
「本格的に学ぼうと思えば自分の楽器が欲しくなるだろう? その時のための布石だ」
とはユリウスの弁だ。さすが商人。ちゃっかりしている。
「けど、最後はモニカに全部持って行かれたよ」
不貞腐れたようにキリルが言う。
演奏会の最後、指揮を担当するモニカは舞台に上がると言ったのだ。
「私たちと一緒に舞台で歌ってくれる生徒さんはいませんかー?」
突然のことで会場はざわめいたが、モニカはめげずに笑顔を保った。すると、一人の男子生徒が舞台に上がってきたのだ。お調子者らしい男子生徒が舞台から皆に手を振っていると、更に二人の女生徒が前に進み出てきた。華やかな様子の二人が頬を赤らめつつアロイスの両隣に納まると会場のあちこちから小さな悲鳴が上がったが、大騒ぎにならなかったのは続いて登場したのが人型アルフォードと手を繋いだルルだったからだろう。
生徒ではない二人が出てくると会場は一瞬静まり返り、その後ひそひそとした囁き声が聞こえてきたけれど、ルルは全く動じた様子がなかった。彼女は将来大物になると思う。
そうこうするうちに、今度は「わたくしもご一緒させてください」なんて言いながら背の高い女性が舞台に上がった。パトリツィア様だ。どこから調達したのか、彼女は制服を完ぺきに着こなしていた。
だんだん人数が増えてくると他の生徒たちも上がって来たが、その中にマリアとシモーネはいなかった。
「会場の両側で、大きい声で歌ったです」
「私たちはモニカに頼まれていたんですよ」
モニカは舞台の上だけでなく会場全体で盛り上がるように仕掛けを施していたようだ。
「モニカも頑張ったのですね」
「でも、マリアもすっごく歌が上手になってました! 私も負けられません!」
モニカもよい刺激になったようだ。シモーネとも仲良くなったようで、手紙のやり取りをする約束をしていた。
「でも、本当にマリアも上手くなったね」
カッサンドラ先生のところで聞かせてもらったマリアの歌は、ひと月前に発表会で聞いた時よりもパワーアップしていた。伸びの良い歌声はそのままでテクニックが加わった。そして、なによりも同年代の子たちと共に学ぶことで遠慮がなくなったのが大きい。今まではどうしても大人に囲まれることが多かったから遠慮しがちだったが、別人のようにどうどうと歌い上げる姿は目頭が熱くなるほどだった。
「お前は最近泣いてばかりだな」
「そういうお年頃なの!」
ユリウスには鼻で笑われてしまうが、最近の私は若者たちの成長が誇らしくもまぶしくて仕方がないのだ。
「やーい、おねえさんの泣き虫ー」
「もうっ、アルフォードは調子に乗らないの!」
揶揄ってくるアルフォードを睨むと、シモーネにまで笑われてしまった。
「アマネさん、あさって、出発するです?」
「うん。マリアとは今日でお別れになっちゃうね」
マリアは学校があるので見送りには来られないそうだ。だが、フルーテガルトで別れた時のように涙の別れにならないのは、ヴァノーネからの帰途でもまたテンブルグに寄るからだ。まあ、そうは言っても名残惜しさはあるのだが。
「ザシャはテンブルグに残るから、何かあったら頼るといいよ」
「わかったです」
明日はヴェッセル商会の支部用にザシャが見つけた物件を見に行くことになっている。詳しい場所は正式に契約した後、アルフォード経由で知らせることにした。
「シモーネ、マリアをよろしくね」
「任せてください」
「ルルにも、元気でねって伝えてね」
「うん。ヴァノーネ、楽しんで来るです」
「お土産買ってまた来るから」
「アマネさん、迷子になったら、ダメです」
「ふふっ、わかってる」
何度も振り返って手を振りつつ、私たちは学校を後にしたのだった。