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テンブルグの領主

 コツン、コツン


 遠くで窓を叩く音がする。その音で目が覚めた私はもそもそと布団から出てガウンを羽織る。カーテンの隙間から外を覗くと、向かい側の建物の前で長い棒を持った男性が2階の窓を叩いているのが見えた。


「どうした?」


 隣の寝台で眠っていたはずのユリウスが声を掛けてくる。たぶん恋人だと思われる私たちだが、別々の寝台で寝ているのだということを念のために記しておきたい。まあ、そうは言っても、目が覚めた時にユリウスの顔が目の前にあって驚いたことがないわけではないけれど。


「おはよう。ごめん、起こしちゃった?」

「いや……ああ、クロプファーか」

「くろぷふぁあ?」


 オウム返しに聞く私に、人間目覚ましのような仕事のことだとユリウスが教えてくれる。雇い主が決めた時間に窓を叩いて起こしてあげる仕事らしい。


「アールダムから伝わった仕事らしいな」

「ふうん。じゃあ、マルコもああやって起こしてもらってるのかもしれないね」


 金属加工職人であるマルコはまだアールダムで修業中だ。いつでもねぼすけなマルコは、なかなか起きなくてクロプファーを困らせているかもしれない。


「それよりアマネ」

「なあに?」


 ユリウスの手が伸びて頭を撫でられる。ひんやりとした朝の空気に手のぬくもりが心地よくてふわふわした気分になる。


「髪がすごいことになってるぞ」

「へ……? うわあ、ほんとだ!」


 頭を押さえてバスルームに飛び込む。


「うわーん、ドライヤーが欲しいよー」

「ドライヤーとはなんだ?」

「風がぶおーって出て、髪を乾かす道具……って、ユリウス! 入ってこないで!!」


 不届き者を追い出しながらどうにかこうにか髪を直す。今更だろうという声が聞こえたけれどとりあえず無視する。今日はテンブルグの領主に謁見する予定なのだ。遅刻したら目も当てられない。


「クロプファーのおかげで早起きして良かった」


 ようやく見られるようになった髪に安堵しつつ鏡を眺める。


「髪、切ろうかな……?」


 短い方が渇かすのが楽だし。


「髪留めが不要になるではないか」

「まあ、そうだよね……って、ユリウス! まったくもう……」


 鏡に映る自分の怒った顔とは対照的に綺麗に微笑んで髪に口づけるユリウスを見れば、頬を染めて降参するしか選択肢はなかった。











「バッハはバロックの作曲家ですよね?」

「そうですね。バロックのほぼ終わりの時期になります。対位法を駆使した音楽を確立したバッハは、バロックの集大成を成し遂げた人物とも言えます」


 キリルの問いに私は答える。


「バロックの音楽って、私はあまり好きではありません。なーんか小難しいというかいかめしいというか、ちゃんと姿勢を正して聴かないといけない気分になります!」

「ふふ、バロックは意外と華やかな音楽だと私は思いますが、ロマン派などに比べると自由さに欠けるのは確かですね」


 昨年のヴィーラント陛下の葬儀まで、この世界で演奏されていた音楽はバロック音楽に近いものだったのだが、半年ほど渡り人の世界の音楽を聴き込んだモニカにとっては、堅苦しい音楽に聞こえてしまうようだ。


 音楽を時系列に追うと、ルネサンスやそれよりももっと前の中世の音楽は宗教のための音楽、バロックは王族や貴族のための音楽、そして古典派からようやく市民のための音楽になると私は考えている。


「ならばベートーヴェンは市民のために音楽を作った作曲家ということでしょうか」


 アロイスの問いに私は微笑む。


「そうですね。貴族や王族に依頼されて書いた曲もありますが、ベートーヴェンは父親が宮廷歌手だったのに宮廷音楽家にはなりませんでしたから」


 ベートーヴェンの最盛期にフランス革命が起こったことを考えれば、彼が活躍した時代は市民が力を持ち、そのエネルギーがどんどん膨らんでいった時代だったことは想像に難くない。


 彼はドイツのボンで生まれたが、作曲家としてはウィーンで活躍し、人生の終焉もその地で迎えた。彼の葬儀には宮廷関係者からの使者はなく、万単位のウイーン市民が駆け付けたという。この逸話からベートーヴェンは市民のために曲を作り、市民に愛された作曲家だったと私は思う。


「私としては、貴族でも市民でも一生懸命頑張って生きている人々のために、良い音楽を届けたいですね」

「私は貴女の楽器です。貴女の意のままに演奏いたしますよ」


 アロイスの言葉にモニカが両手で顔を覆う。キリルは意外と真面目な顔をしてアロイスを見ていた。


「そろそろ広場に着くぜ」


 ヴィムの言葉を合図に、それぞれが降車の支度をする。


「ラウロ、モニカとキリルをお願いしますね」


 モニカとキリルはラウロをお供にカッサンドラ先生のお宅でピアノの練習、アロイスとエドは魔力の師の家へ向かう予定だ。


 そして、私とユリウスはテンブルグ領主との謁見に向かっていた。


「うー、なんか落ち着かない」


 領主の館に着き、待合室のような部屋に通されると今更のように緊張してきた。改めて考えてみると、きちんと手続きを踏んで偉い人と謁見した経験がない。エルヴィン陛下と初めてお会いしたのは大聖堂での事前演奏会だったし、アーレルスマイアー侯爵にお会いしたのはご自宅に伺った時だった。


「ヴァノーネでも同じように謁見するのだ。練習だと思え」


 そんなことを言うユリウスは、何度かバルトロメウス様にお会いしたことがあるそうだ。


「どんなお方?」

「髪や目の色はエドと似ているな」


 エドは金髪碧眼の王子様だ。


「バルトロメウス様の母君はアールダム出身なのだが、アールダムは金髪の者が多い。目の色も青が多いな」

「へえ、なんでだろう?」

「アールダムはその昔、ノイマールグントから海を渡った北の国に侵略されたのだ。北の国にはそういった色合いの者が多いから、王族の先祖が北の国の出身である可能性が高いと言われている」


 さすがユリウス。物知りだなあと感心していると、ユリウスが微妙な顔つきで私を見た。


「どうしたの? 何かついてる?」

「いや、遺伝とは面白いものだと思ったのだが……お前の子はやはり背が小さいのだろうかと」

「ひどいよ!」


 ちなみに私の家系は別に低身長というわけではない。兄もそこそこ大きかったし父母も普通だ。私は突然変異なんて言われていた。


 そんな無駄話をしていると、侍従っぽい少年が部屋に入って来た。どうやら私たちを案内してくれるらしい。


 こちらへどうぞ、と少年が先立って歩いていく。ほどなくして、ここに偉い人がいますよと言わんばかりの物凄く豪華な扉が見えてきた。アーチ形の観音開きの扉は細かい彫刻が施され金色に色付けされている。両側には制服をきっちりと着た二人の男性が、長い槍を持って立っていた。


「渡り人様をお連れしました」


 兵士の一人に少年が声を掛けると、重々しく頷いて扉を開けてくれる。重そうなのに音もなく開いていく扉に私はごくりと唾を飲み込む。


 意を決して踏み入れた部屋の中は、煌びやかな光に溢れていた。広い室内の三カ所に設置されているのは、おそらくフライ・ハイムのフランクが言っていたシャンデリアだろう。壁には美しいタペストリーがいくつか飾られている。目を凝らせばそれらはどうやらプチポワンの刺繍であるようだった。


 部屋の奥には高い背もたれを持つ椅子がある。その背や座面にもプチポワンが施されている。だが、残念なことに椅子そのものはそれほど凝った作りではなく、刺繍に負けている印象だ。


 椅子から少し離れたところには、ひげを生やしたちょっと小太りの男性が一人立っている。体系がエグモントさんに似ていると思ったら、変な笑いが込み上げて困った。


 侍従の少年が椅子の数歩手前で待つように言って下がって行く。小太りの男性がちょうど視界ギリギリに入ってしまうので、笑ってしまわないよう私はユリウスを壁にするために少し下がる。何事かとユリウスが怪訝そうに見てきたが、ここで説明するわけにもいかない。困って眉を下げればユリウスが後で説明しろというように睨んで来た。


 そんな私たちの攻防をよそに一人の男性が入ってくる。金髪碧眼の男性だ。あれがおそらく領主のバルトロメウス・ディンケル様だろう。


 その男性を一目見て、私は親近感を抱いた。


 だって、その男性は背が低いのだ! もちろん私よりは大きいけれど、どう見ても成人男性の平均よりもかなり小さい。テオよりちょっと大きいくらいじゃないだろうか?


 隣のユリウスが礼を取るのが視界の隅に映り、心の中でコロンビアポーズを決めていた私も慌てて真似をする。


「顔をお上げください。テンブルグ伯のバルトロメウス・ディンケル様です」


 たぶん小太りの男性の声が聞こえて、私はそろそろと顔を上げる。


「渡り人殿でいらっしゃいますね。テンブルグにようこそ。私はバルトロメウス・ディンケルと申します」


 高めだが落ち着いた声でその男性が名乗る。


「お初にお目にかかります。渡り人のアマネ・ミヤハラでございます」


 初対面の挨拶をどうにか口にすると、バルトロメウス様はニヤリと笑った。何かおかしかっただろうかと内心冷や汗をかく。


「ギュンターの件では大変なご迷惑をおかけしました。いずれきちんとお詫びしなければと思っていたのです」

「とんでもございません。お心遣いを受け取っておりますので、こちらこそお礼を述べなければと参上した次第です」


 バルトロメウス様の言葉と表情が合っていないことに戸惑うけれど、想定していた言葉だったので予習通りに答える。


「ところで渡り人殿、テンブルグの街ではおもしろい噂が囁かれているそうです」


 噂については話題に出る可能性を考えないわけではなかったが、こうも直球で来るとは思わなかった。


「……おそれながら、私も耳にしております」

「ほう。どのような内容なのでしょう? 私には誰も教えてくれないのです」


 そう来たか。私自身の口から言わせようとはなんて悪趣味な。


 どう答えたものかと一瞬考えるが、しょせん私だ。うまい切り返しなど思いつくはずもない。


「私が稀代のジゴロだと聞いております」

「ほう。そのようには見えませんな。渡り人殿はどう思われますか?」


 その質問なら答えられる。


「なれるものならなってみたいと思いました」

「なぜ、そう思われるのです?」


 楽しそうに問いを重ねるバルトロメウス様に私はやけくそ気味に応える。


「稀代のジゴロならば、このような時にもっと気の利いた受け答えができると思いますので」


 私は嫌味を返したつもりだったのだが、それを聞いたバルトロメウス様は腹を抱えて笑い出した。


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