風の報せ
その辺りにはパンが焼けるいい匂いが漂っていた。
「ふわぁぁ……、いい匂い! 涎が……っ」
暗い話を聞いた後だったが、私は殊更に明るく振る舞う。
ラウロに心配をかけないためだ。ドロフェイお得意の変な術のおかげでラウロには私たちの会話は聞こえていなかったらしい。だが、暗い顔をしていれば心配をかけてしまうとドロフェイに指摘されたのだ。
「フフ……キミの食欲が正常なようで安心したよ」
「うん。最近、ご飯がおいしくて、太っちゃいそうなんだよ」
いいことじゃないかとドロフェイが笑った時、ある一軒の扉が音もなく開く。出て来たのは腰まであるさらさらのプラチナブロンドを風に靡かせた、睫毛が長くて美しい顔立ちの人物だ。濃い緑色の長いローブを身につけていて体系がわかりにくいが、見えている首や手は華奢で女性のように見える。
「久しぶりだね。ドロフェイ」
「ミケ」
んん? 今、なんて言った?
「その子が今度のジーグルーンかい? 渡り人なんだよね? 随分と小さいね? ああ、そんなに見開いたら目が零れてしまうよ」
「は、はじめまして。アマネです」
矢継ぎ早にあれこれ尋ねられて戸惑うが、初対面なのだからと挨拶すればその人は綺麗に微笑む。見惚れた私だが、とりあえず早く名前を知りたい。
「僕はミケリーノ。よろしくね」
略してミケ。なるほど……。いいのか、それ? しかし、ミケさんは「僕」というからには男性であるらしい。
「そちらは?」
「護衛のラウロです」
ミケさんは「よろしくね」と微笑んで私たちを招き入れる。
「ちょうどパンが焼けたところだよ。さあ、入って」
「相変わらず用意のいいことだ」
「君が来ることを風が報せてくれたからね」
ドロフェイがミケさんと話している間も私の視線はキョロキョロと落ち着きなく彷徨う。
そこは不思議な部屋だった。たくさんの種類の植物があちらこちらの棚を占拠していて、どこからともなく吹いてくる風にその葉を揺らしている。
「すごい……レイモンさんの研究部屋よりもたくさんあるんじゃないでしょうか」
「あ、ああ。そうだな」
ラウロも圧倒されたように頷く。
「花はないみたいですね」
「ミケが花みたいなものだから、ね」
本当にそういう意図があるのかはわからないが、ドロフェイの言葉に納得する。なぜならこの部屋はミケさんがいてこそ、という感じがするのだ。
「どうぞ座って。今、お茶を入れるから」
柔らかな物腰でミケさんが促す。
「あ、お構いなく……」
「キミ、そんなこと言っていいのかい? お腹がすいているんだろう?」
「そうなのかい? なら、食事にしようか」
私は恨めし気にドロフェイを見る。そんなことをこんな綺麗な人にばらさないでほしい。
奥の部屋に入っていったミケさんが、良い匂いのするパンが並んだトレイを手に戻ってくる。
「お手伝いさせてください」
「ふふ、じゃあお願いしようかな。奥の部屋の突き当りに竈があるから、その中からスープを持ってきてくれるかい?」
「わかりました!」
ミケさんを見ていると、綺麗な人の役に立ちたいと思わずにいられない男性の心理というものがよくわかる。
私が喜び勇んで席を立つとラウロが音もなく着いて来た。ガタンと椅子を鳴らしてしまった自分の落ち着きのなさにガッカリだ。心を落ち着けて奥の部屋に入るとそこは清潔に整えられた厨房で、ミケさんが言った通り奥の竈には湯気が立った寸動鍋があった。中を覗いてみると、黄金色に透き通ったスープがなみなみと入っている。
「コンソメスープ!」
この世界に来て食べたことがないわけではないが、普段はレンズ豆やじゃがいものスープが多かったので、思いがけず大好物に巡り合えるなんてと興奮が納まらない。
「おい、落ち着け」
「わ、わかってますよ!」
私の方がおねえさんなのにラウロに注意されてしまって頬が熱くなる。
「ん? 何かお団子のようなものが入ってますね」
よく見れば、白っぽい団子状のものがスープの中に入っている。何だろうなとわくわくしながらスープをよそっていると、隣の部屋からくすくすと笑い声が聞こえてきた。声を抑えたつもりだったのだが、抑えきれていなかったようだ。
厨房の作業台には他にも料理がいくつか並んでおり、ラウロがそれを手に部屋を往復している。私も負けていられないとお手伝いに精を出す。
「手伝ってもらって悪いね」
「いえいえ、お礼を言うのは私たちの方ですよ。これ、ミケさん……じゃなくて、ミケリーノさんが一人で作ったんですか?」
「ふふ、ミケでいいよ。料理は好きなんだ」
すごいなあ。面倒くさがりの私とは大違いだ。
「これはテンブルグでよく食べられている料理で、叩いて伸ばした肉にパンの粉を付けて油で揚げてあるんだよ」
日本のカツのような料理を指してミケさんが説明してくれる。
「このパンは? おもしろい形ですよね」
先ほどから気になっていた三日月形のパンだ。生地は違うが形はクロワッサンに似ている。
「キプフェルと言うんだ。テンブルグは小麦作りが盛んでね、小麦粉を使った料理が多いんだよ。ほら、スープの中にも」
私が先ほどよそったスープのお団子は、どうやら粗挽きの小麦粉で作ったお団子だったらしい。口に入れるとコンソメスープがじゅわっと染み出してほっぺが落ちるかと思った。
「もっと食べるかい?」
「いえ、もうお腹いっぱいです。すっごく美味しかったです!」
大満足の食事を終えるとミケさんが声を掛けてくる。
「良かった。ラウロ君は? もっと食べられるだろう?」
ミケさんが尋ねるとラウロがおずおずと皿を差し出す。おかわりしたい気持ちはわかるよ! おいしいもんね!
「キミ、小食は相変わらずだね」
「えー、前よりもたくさん食べられるようになったのに」
お皿は何も残さず綺麗になっているし、パンだってスープだって完食したというのにドロフェイはそんな意地悪を言う。
「こんな小さなキプフェルなんて、幼い子どもだって3つくらいは食べるよ」
「そんなに? だって、生地が結構ぎゅっと詰まってるというか、しっかりしてるのに?」
見た目がクロワッサンみたいなキプフェルだが、中は違っていて重みのあるパンなのだ。
「ふふ、大きくなれないね」
それは私の地雷だ。でもミケさんは美人なので許します。
「ミケさんはアーベルのことも知ってるんですか?」
ラウロがおかわりを堪能している間、私たちは雑談に花を咲かせ始めた。
「一応ね。ここに来る前、アーベルに会ったのかい? どうりで火の気配がすると思ったよ」
「火の……? ということは、ミケさんも何か加護をお持ちなのですか?」
「僕は風だね」
「もしかして、さっきの『風が報せてくれた』って、本当に風が?」
「どうかな?」
謎めいた笑みを見せるミケさんだが、ドロフェイやアーベルと同類ということなら、きっと自由自在に魔力を操ることができるのだろう。
「キミ、アーベルとは仲が悪かったじゃないか」
「まあね。彼は上品さとは程遠いから。でも、ドロフェイは好きだよ」
臆面もなく言うミケさんだが、アーベルが上品ではないのは頷ける。
「護衛の彼もいいね。静かで食べ方も品がある」
「ラウロは私が見つけたんですよ」
ラウロが褒められると私も嬉しい。ついつい自慢してしまう。食べ方が綺麗なのは、ラウロのご両親が料理に関わるお仕事をしているからではないかと本人は言っていた。
「そうなんだ? 僕を見つけたのはドロフェイだったよね」
「覚えていたのかい?」
「ふふ、忘れるわけないだろう」
微笑み合う二人は一枚の絵のように美しいが、私は空気を読まずに聞いてみる。
「見つけたってどういうこと?」
「言葉通りさ。まあ、僕が探していたのは水の加護持ちだったのだけど」
「僕たちの中で一番最初に生まれたのがドロフェイなんだよ。二番目が僕」
まるで兄弟のように言うミケさんだが、ドロフェイが600歳を超えていることを考えればミケさんもそれなりの年齢なのだろう。
「えっと……、ミケさんってお年は……?」
「400年くらいは生きてるかな? アーベルは300年くらいだね」
うわあ、やっぱり。
「すみません、不躾なことを聞いてしまって……」
「そんな風に気を遣わなくても構わないよ。君はジーグルーンでしょう? 言ってみれば君だって仲間のようなものだからね」
ミケさんの言葉には慄いてしまった。
「え、私も……? もしかして何百年も生きちゃったり……?」
「ふふふ……」
「ミケ、揶揄うものではないよ。キミはとりあえずは普通の人間と同じ寿命だよ。とりあえずは、ね」
ドロフェイの言い方は不穏だったが、これ以上年の話をするのは良くないと自制が働く。
「ところで、聞いても良いでしょうか?」
「なあに? なんでも聞いていいよ」
「お二人は……アーベルもだから三人かな……? どういう存在なのでしょうか?」
私の質問にミケさんはドロフェイの顔をちらりと見る。
「ドロフェイ、教えてあげないのかい?」
「別に知らなくても問題ないだろう?」
「君は面倒なだけだろう? アーベルですらちゃんと教えているらしいのに」
やれやれとミケさんは肩を竦める。
こうしてミケさんによる魔力講義が始まったのである。