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白紙の楽譜

 来場者が続々と入ってくる。私は笑顔の仮面を張り付けたまま、ユリウスに促されるがままに挨拶するばかりだ。


「アマネ、私が幼少の頃に音楽を教えていただいた師ヴィルヘルムだ」

「はじめまして。ヴィルヘルム先生、ぜひゆっくりお話を伺いたいです」


 ユリウスの音楽に対する理解の深さを思えば、ぜひお話ししたい方だ。


「私は普段はフルーテガルトにおりましてのう。いつでも訪ねて来てくだされ」


 師ヴィルヘルムは息子さんを訪ねて王都に来たという。フルーテガルトでの再会を約束し、先生はお連れの方と一緒に前の方の席へと移動していった。


「アンネリーゼ・バウムガルトです。本日の演奏会を楽しみにしておりました」

「ヴェッセル商会のユリウスと申します。体調が優れないと伺っておりましたが、快癒なされたようで安心いたしました」


 ユリウスが私の前に立ち挨拶をする。相手は中学生くらいのご令嬢だ。しかし『バウムガルト』の名前にさすがに私も警戒する。


 重い病だったという話は本当なのだろう。アンネリーゼ嬢は線の細い子どもだ。ニコリともしない家令らしき男性が付き添っているが、アンネリーゼ嬢は頬を上気させてはにかんでいる。


 その様子に今日の演奏会を本当に楽しみにしていたのだろうなと思い、私はユリウスの袖を引いた。


「アンネリーゼ様、私はアマネと申します。今日は楽しんでいらしてくださいね」

「ありがとうございます。アマネ様は何を演奏されるのですか?」

「ヴァイオリンとチェンバロです。アンネリーゼ様は楽器はなさいますか?」

「あまり練習出来ていないのですが、チェンバロを教わっております」


 少し腰をかがめて目線を合わせて話をする。一生懸命お話しされる様子はなんだか健気だ。ユリウスをちらりと見れば、ものすごく苦いものを食べたような顔をしていた。後でお説教を食らうかもしれないが、きっとこのご令嬢は何も知らない。


「アマネ様、昼食会でもお話しできますか?」

「もちろん」


 そう微笑んで言えば、アンネリーゼはホッとしたように席に移動していった。


 小さな背中を見送ると、シルヴィア嬢が舞台側の入り口から入ってきた。私たちも舞台前に移動する。会場を見渡せば、空いている座席がほどんどないほど盛況だった。


 いつの間に来たのが気づかなかったが、昨日会った侍従長の姿もある。何人かと一緒に来たようで、周りの男性たちと密やかに会話をしていた。


 シルヴィア嬢の挨拶が終わり、私はユリウスに引き摺られるように控えの間に戻った。会場で演奏を聞きたかったが、お説教タイムとなるようだ。


「警戒心はどこにやったのだ?」


 周りに他の演奏者たちがいるせいか、ユリウスは小声と笑顔を持って威圧してきた。ここは素直に謝った方がいいだろう。笑顔が怖いです。


「ごめんなさい……」

「そのような顔をするな。他の者が気にする」


 そう言って頬を両手で挟むのはやめていただきたい。痕が残らないように気遣っているのか、それほど痛くはないが、皆様に変顔を晒すのは恥ずかしいのだ。


「仲がいいんだね。ユリウスが気を許すなんて珍しい」

「そう見えるんですか?」


 くすくすと笑いながらギルベルト様の友人の一人が近づいてきた。今のが仲良しに見えるとは眼科をお勧めしたい。


「僕は前半の最後の方だから、まだ時間があるんだ」


 そう言って私とユリウスに椅子を勧めてくる。説教タイムが中断され、これ幸いと私は椅子に陣取った。ユリウスの方は見ないようにする。


「ユリウスも。そんな顔していたらご令嬢たちが怖がってしまうよ」


 もっと言ってあげてください。お名前は覚えていないがギルベルト様のご友人に心の中で声援を送る。


「バスーンを演奏されるのですよね?」

「うん。僕は手が大きいから、トラヴェルソやオーボエよりもこっちの方が演奏しやすいんだ」

「私の元の世界にもあるんですよ。私も演奏していました」

「へえ。バスーンがあるんだ?」

「はい。惚けた音だったり、せつない音だったり、とても表現の幅が広い楽器ですよね」


 ちょっと身を乗り出してしまった私を見て、ギルベルト様のご友人はおもしろそうに笑った。


「音楽が好きなんだね、君は。今度僕の友人を紹介させてくれるかい? バスーンの名手なんだよ」

「ぜひ!」

「楽しそうですわね」


 最初の演奏が終わったのか、シルヴィアが控えの間に入って来た。代わりにシルヴィアの友人が一人出て行く。


「彼女はチェンバロのソロを演奏しますのよ。アマネ様、よろしければユリウスとお聞きになられては? わたくしもすぐに参りますし」


 素晴らしい提案をしてくれるシルヴィア嬢に笑顔で返事をしてユリウスを促す。リードを準備するギルベルト様のご友人にもエールを送って演奏会場へ向かう。


「アマネ、あまり向こうの世界のことは話すな。興味を持たれては面倒だ」

「心配しすぎじゃない?」

「お前に関しては心配しすぎるくらいで丁度いいのだ」


 会場へ向かうあいだも、ユリウスのお説教が続く。会場に着くとギルベルト様ともう一人のご友人が退出してくるところだった


「あ、チェンバロの演奏が始まっちゃう!」


 急いで舞台から遠い方の出入口に向かい、静かに入場する。着席するとすぐに演奏が始まった。


 細かい同音の連打があり、進行もダイナミックな躍動感のある曲だ。


 チェンバロは通奏低音、伴奏として用いられることも多い楽器だが、主役にもなり得ることを主張しているように感じられる曲だった。演奏しているご令嬢は早いパッセージも音が濁らないように指の動きを工夫している。なかなかの腕前だ。


 曲が終わり、ヴァイオリンを手にした次の演奏者が入ってくる。シルヴィア嬢のもう一人のご友人だ。


 この世界のヴァイオリンは元の世界ではバロック・ヴァイオリンと呼ばれるヴァイオリンだ。一番の大きな違いはネックの角度だが、これは突き詰めれば弦の長さの違いによるものだ。


 ヴァイオリンの音量を大きくしようとすれば、弦を強く張らなければならない。弦を強く張ると音程が高くなる。それを解消するために弦の長さを伸ばさなければならない。


 ヴァイオリンの音量が増すことで、結果パガニーニのような存在の登場に繋がったと言われている。


 流石にパガニーニのような奏法は、この世界ではまだ見られないようだが、シルヴィア嬢のご友人の演奏は技術よりも表現力が豊かで、心に染み入るような音色が印象的だった。


 演奏者が変わり、先ほど話したバスーンの彼が入ってくる。一瞬目が合って小さく微笑む。伴奏は先ほどチェンバロのソロ演奏を行ったシルヴィア嬢のご友人だ。


 バスーンとチェンバロの掛け合いで進行する曲だった。バスーンがメロディーを奏でる時はチェンバロは和音を演奏し、それが終わるとチェンバロが旋律を奏でる。


 バスーンはボーカルと呼ばれる細い金属製の管から息を吹き込む。吹き込まれた空気は楽器の一番下を通って最上部のベルから音となって出てくる。つまり、見た目の1.5倍以上の長い管を持つ楽器だ。


 それにしても演奏者たちはいずれも予想よりも技術的に優れているなと感心する。貴族の習い事と侮ってはだめだなと反省した。演目はバロック後期という感じの曲が多く、自分の選曲が不安になってくる。


 休憩前の最後の演奏が始まる前に、ユリウスに促されて席を立つ。シルヴィア嬢のヴァイオリン演奏だったので聞きたかったのにとユリウスに問うような視線を向けたが肩を竦められた。


「休憩になると人が動くからな。今のうちに戻ったほうがいい」


 控えの間に向かいながらそう説明された。


「お前は狙われていることを忘れていないか?」

「そ、そんなことはないよ!」

「信用ならん。お前は音楽が絡むとそれ以外が全部疎かになる」


 図星だ。


 テスト前でもピアノやヴァイオリンの練習に明け暮れて、兄に部屋のカギごと取り上げられたことを思い出す。あの時の嬉々とした兄の表情は死んでも忘れない。


 控えの間に戻ると、驚いたことに銀色の猫がいた。私のヴァイオリンケースの上に陣取っている。


「え、アルフォード? なんでここに!?」


 他の人がいるせいか、みーみーと甘えた声を出して銀の猫が寄ってくる。昼間だから寝ていると思ったのに、なんでここにいるのだろう。


「馬車で寝てたんだろう」

「うええ、そのまま寝ててくれれば良かったのに……」


 よそのご令嬢に迷惑かけたらダメだよと小声で釘をさしておく。アルフォードはヴァイオリンケースに戻り、守っているのだと言わんばかりにぺたりと寝そべった。


「おやおや、随分かわいらしい騎士殿ですな。そろそろ休憩が終わりますよ」


 後半は前半よりも少ない演目で、残すところあと四曲だ。そのうち二曲が私なので準備を始める。


 アルフォードに退いてもらってヴァイオリンを取り出す。簡単に音を確かめ、その場にあるチェンバロを使ってチューニングしておく。


「出入り口付近で聞いてちゃダメかな?」

「まったく。仕方ないな」


 ユリウスが折れてくれたので、楽譜と楽器を持って会場へ向かう。気が付けばアルフォードはいなくなっていた。


 出入口近くで演奏に耳を傾けていると、あっという間に自分の順番がくる。


 ユリウスに促されて舞台の中央へと歩み出すと、そこにはアルフォードがちょこんと座っていた。会場からくすくすと笑い声が聞こえる。ユリウスは笑顔のままだが目が死んだ魚みたいになっている。どうにでもなれ、という声が聞こえた気がした。


 いいのかこれ? と思いながらもチューニングしてヴァイオリンを構える。ユリウスを見てタイミングを合わせて演奏を始めた。


―― ヴィエニャフスキ『スケルツォ・タランテラ』


 この曲はナポリの舞曲タランテラのリズムを取り入れたテンポの速い曲だ。


 本来はピアノで伴奏されるのだが、今回はチェンバロであるため音域が足りず、だいぶ改変した。


 ヴィエニャフスキは作曲家でもあったが、非情に高い技術を持つヴァイオリニストでもあり、この曲も恐ろしく難しい。ボウイングに高い技術力を要求され、演奏中は気を抜く暇なく緊張しっぱなしになるため、変な汗をかいてしまうのだ。


 初演奏披露だというのにこんなに難しい曲を選んだのは、「なるべく派手で難しい曲」というユリウスのリクエストがあったからだ。


難所に次ぐ難所をどうにか無難にやり過ごして演奏を終え、客席の反応を見る。なんだかすごく沸いていて困惑するが、人々の視線がアルフォードに向いているのに気づき、何をやったんだと青くなる。


 しかし師ヴィルヘルムなどの音楽関係者らしい者たちの視線はまた違っており、真剣味を帯びた強い色が伺えた。最悪の予想よりもだいぶ良い反応だ。


 気を取り直してチェンバロの演奏をすべく、書き掛けの楽譜を立てかける。ユリウスが横の椅子に移動するのを見て、そういえば譜めくりを頼んでいたことを思い出す。


 まずい。途中から楽譜が真っ白なことを伝えていない。


 どうしようかと思ったが、ユリウスをチラリと見て誤魔化すように笑って演奏を始めた。


―― バッハの『イタリア協奏曲ヘ長調』


 今回は第3楽章だけを演奏する。


 チェンバロは強弱の付けにくい楽器であるが、鍵盤が二段になっているものに関しては『強』『弱』の二種類をつけられる。


 アーレルスマイアー家のチェンバロはヴェッセル商会が納めたものなので、その辺りはユリウスから事前に聞いていた。そのためこの曲を選んだのだが、支部のチェンバロも二段で本当に助かった。実を言えば、二段のチェンバロを演奏すること自体が初めてだったのだ。


 あ、楽譜が白紙になってしまった。


 譜をめくるユリウスの指がピクリと動いたのが見えた。どうしてだかちょっと楽しくなった私は、たぶんここらへんでページが変わるよ、というタイミングでユリウスに目線を送る。眉間に皺が寄りかけた笑顔でユリウスが譜をめくってくれた。


 演奏が終わると客席の反応を確かめる余裕もなく、どうにかこうにかお辞儀をして急いで廊下に出る。しゃがみ込むと同時にふつふつと笑いが込み上げて来て、口を塞いで肩を震わせ、声もなく笑った。


「事前に言え」


 そう言うユリウスを見上げれば、口元が緩んでいてますます笑いが止まらなくなった。


白紙の楽譜はベートーヴェンの逸話です。ピアノ協奏曲の初演で楽譜が間に合わず、譜めくりを頼んだ相手に目配せでめくらせました。演奏会後、2人は大笑いしていたとか。

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