不穏な音
「よく眠っていらっしゃいますね」
向かい側の座席で眠るアマネを見てアロイスは微笑む。自分が贈ったクッションを使っていたはずの彼女だが、今はユリウスの膝の上に頭がある。馬車に揺られているうちに椅子から転げ落ちそうになったところをユリウスが引き上げたのだ。
王女の婚約を祝う演奏会の数日後、アマネたちは当初の予定通りにヴァノーネへ向かっていた。今度はヴァノーネの王太子であるヴィルジーリオの婚約を祝うために演奏することになっているのだ。
王太子への謁見は11月に予定されているが、テンブルグで学んでいるマリアに会うためとラウロの故郷であるルブロイスに立ち寄るために、アマネたちはフルーテガルトを早めに旅立ったのだった。
旅は順調に進み、フルーテガルトを出発してから2日ほど経っていた。
「間の抜けた寝顔だな」
ユリウスがアマネの頬を突きながら苦笑する。
道中ではユリウスによる魔力講義が進められていた。魔力を持たないアマネは、初めのうちは興味深そうに耳を傾けていたものの、途中で飽きてしまい御者をするラウロに話しかけて煩がられたり、タブレットで音楽を聴こうとしてユリウスに怒られたりしていた。誰も相手にしてくれないことに口を尖らせたアマネは、こうしてふて寝を決め込み、今はすっかり夢の中というわけだ。
続けるぞ、というユリウスの声にアロイスは視線をアマネから剥がす。
「俺の魔術の師は、水ではなく風の加護を持っている」
「そうなのですか? てっきり水の加護をお持ちの方だと思っておりました」
ノイマールグントには水の加護を持つ者が多いことはアロイスも知っていた。テンブルグはノイマールグントの大領地であるため、そこに住まうユリウスの師も水の加護を持つ者だと思っていたのだ。
「ジラルドはヴァノーネ出身だ」
「マリアに歌を教えてくださっているカッサンドラ先生もヴァノーネのご出身でしたね。テンブルグにはヴァノーネ出身の者が多いのでしょうか?」
「山を越えるだけだからな」
ユリウスが魔術の師から聞いた話では、前途の通りノイマールグントでは水、ヴァノーネでは風、ヤンクールは土、ルシャもしくは今は無くなってしまったノイマールグントとルシャの間にあったモーリアという国では火の加護を持つ者が多いのだという。
「そういう法則がある、という程度に覚えておけ。今はその限りではないからな」
「戦を逃れて国を移った者も多いですからね」
「ああ。おそらくゲロルトの父方の家系は、ルシャの系列なのだろうな」
ユリウスがアマネを見下ろす。
「ルシャですか……モーリアではなく?」
「アマネがゲロルトからもらった羽根を見たことがあるか?」
「ええ。栞代わりに使っていらっしゃいますよね」
アマネが書付に使っている帳面の中に件の羽根が挟まれているのはアロイスも見たことがある。王都で偶然会った時に、ゲロルトが置いていったと聞いている。
「ルシャに伝わる物語に『火の鳥』の話があるのだ。ゲロルトの父方の貴族は確か炎を纏う鳥を紋章に使っていたから、ルシャの出身である可能性が高いと思う」
「火の……とり…………ストラ、ヴィンスキ…………?」
ユリウスの言葉に反応したのか、アマネの籠った声が聞こえてきた。
「まったく……暢気なものだ」
「フフ、元の世界の夢を見ていらっしゃるのかもしれませんね」
「笑い事ではないぞ。ゲロルトの襲撃がある可能性は皆無ではない」
ユリウスがその対策も兼ねて自分に魔力の扱い方を教えていることは、アロイスも理解していた。
「何故、放置していらっしゃるのか聞いても?」
暗にゲロルトのことを聞けばユリウスは眉間の皺を深くする。
「すみません。ゲロルトがあなたの従兄だという話は知っておりますが、アマネさんがゲロルトを匿っていらっしゃったことを聞いても、然程驚いていないご様子だったので不思議に思っていたのです」
発表会の直前、ゲロルトはフルーテガルトのヴェッセル商会に火の魔法陣をいくつか仕掛けていた。ギュンターによる襲撃でアマネを助けたゲロルトは、結局その魔法陣を使うことはなかったのだが、穏やかな話ではないのは確かだ。
「驚きはしたぞ。ただ、魔法陣を仕掛けたのだからゲロルトがフルーテガルトにいることはわかっていたし、アマネが知れば会いたがるだろうとは考えていた。以前から気にかけていた様子だったからな」
「なるほど」
「それに、放置していても絡んでくるのがゲロルトだ。こちらからわざわざ探す必要はないのだ」
迷惑極まりないとでも言いたげなユリウスの表情に、思わずアロイスは笑う。
「ふふっ、ですが、ユリウス殿の様子を見ていると、それほど危険視しておられないようにも見えますよ」
「まあ、アマネを助けたのは事実だからな」
ユリウスがゲロルトによる襲撃の可能性が低いと判断したのはそのせいでもあったという。
「それに、俺にとって年上の従兄というのはゲロルトだけだ。会ったことは無かったが、子どもの頃は話に聞くだけでも兄のように思っていた時期もあったのだ」
ユリウスの伯母に当たるゲロルトの母は貴族に嫁いだ。大きな商家とはいえ平民であるヴェッセル家への里帰りは許されなかったため、ユリウスはゲロルトに会ったことはなかったらしい。
それにしても、三人兄弟の一番上であるユリウスが兄という存在に憧れていたのかもしれないと思えば、常に不機嫌顔の男にも可愛らしい子ども時代があったのだなと、アロイスは微笑ましく思った。
「リレハウムが見えて来たな。降りる準備をしておけよー」
御者台からヴィムが顔を覗かせる。
「なんだ。アマネ、寝てんのか?」
ヴィムの指摘で視線を移せば、アマネが抱えていたクッションに顔を埋めているのが見えた。
「アマネさん、そろそろ着くようですよ」
「う、うーん…………」
わざとらしい寝惚け声を聞いてアロイスはくすりと笑う。いつから起きていたのか知らないが、ゲロルトの話題には加わりにくかったのだろう。
「リレハウムってどこかで聞いたことがあるような……?」
「レイモンではないか? 白いビートはリレハウムの家畜の餌だったからな」
身を起こすのに手を貸しながらユリウスが言う。レイモンはユリウスが経営する私設塾を任されている、元は実験農場の研究者である。
「そういえば……ねえ、ビートの収穫を手伝わなくて本当に良かったのかな?」
レイモンの怖い顔を思い出したのかアマネが顔を顰めた。昨年はちょうど王都から駆け付けたアロイスもビートの収穫を手伝ったことを思い出す。
「仕方ないだろう。王族の招きなのだから断れまい。クリストフを扱き使うように言っておいたから問題ない」
「クリストフは大丈夫かな? レイモンさんとケンカしないといいけど……」
「彼らは仲が悪いというわけではないのですよ」
フルーテガルトに移住したばかりの頃に一つ屋根の下で暮らしたことを思い出す。圧倒的にクリストフがやり込められる確率は高かったものの、レイモンは意味もなく怒鳴り散らしたりする男ではなかったし、クリストフも苦手に思う面があっても全く話をしないというわけではなかったのだ。
「そうなのですか?」
「ええ。女性に対しての考え方は違いますが、彼らは案外似ているところもありますから」
意外な話だったのか、アマネが目を瞬いた。
「どちらも年下の者たちの面倒をよく見ているでしょう? 二人で相談していることもありますよ」
「へえ。でも、言われてみれば二人とも面倒見が良いですもんね」
アマネがユリウスをチラリと見る。彼もまた見かけによらず子どもの面倒をよく見る気質であるが、それは彼自身が兄という立場にあったことと無関係ではないだろう。アマネはやはり先ほどのゲロルトの話を聞いていたのだろうとアロイスは思った。
「ぼんやりせずに、さっさと毛布を片付けろ」
アマネの視線に気付いたのか、アロイスが小言を言う。
「……はあい」
口を尖らせながらも素直に片付け始めるアマネにユリウスは追い打ちをかける。
「宿では昨日と同じように俺とお前が同室だぞ」
「わかってるけど……モニカと一緒のお部屋に泊りたかったな……」
「ヤンクールの連中に訝しがられては困る」
なんだかんだで同行することになったリシャールとオーブリーのことだろう。湖で溺れたアマネを助けたリシャールは、アマネが女性であることに気付いている可能性が高かったが、きちんと説明したことは無い。
文句を言いながら毛布を片付けるアマネを横目に、アロイスも降車する準備に取り掛かる。すると、ふいにアマネが手を止めた。
「どうした? 文句があるなら降りてから聞くから、さっさと支度を……」
「待って……今、変な音が……」
アマネがユリウスの袖を掴む。ただならぬ様子にアロイスもユリウスも手を止めてアマネを注視した。
「ほら、また……」
そう言われれて男二人も耳を澄ませる。しかし、聴こえてくるのは馬の蹄と車輪の音くらいで、それぞれが怪訝そうにアマネを見るばかりだ。
「…………聴こえなくなったみたい」
目を閉じて耳を澄ませていたアマネがほどなくして顔を上げた。
「どんな音だ?」
「何て言うんだろう……ゴゴゴゴって。地響きってあんな感じなのかな……?」
アマネの説明にユリウスは怪訝そうに眉を顰める。
「今まで聴こえていた『ジーグルーンの歌』とは違うのか?」
「うん。全然違う音だった。なんか、逃げ出したくなるような、あんまり気持ちの良い音じゃなかった」
恐ろしかったのかユリウスの袖を掴んだままのアマネはだいぶ顔色が悪い。
「土砂崩れでもあったのでしょうか?」
「だったら俺たちにも聞こえるはずだ」
アロイスにもその音は聞こえなかった。御者台にいるヴィムやラウロが特に何も言って来ないということは、その音はアマネにだけ聞こえたということだろう。
三人で考え込んでいるうちに馬車が停まる。
「後で周囲を確認するとしよう。アマネ、大丈夫か?」
ユリウスがアマネの手を取る。
「まだ顔色が悪いですね。アマネさん、私の手も空いておりますよ」
「ふふっ、大丈夫です」
空気を変えるようにアロイスが軽口を叩くと、ようやくアマネも笑顔を見せたのだった。