バウムガルトの指輪
「貴方とトーマス・ホーエンローエに付き合いがあったとは知りませんでした」
胡散臭い笑みを張り付けて道化師は言った。
珍妙な服装で道化者を演じるその男が珍しく声を掛けてきたのは、風邪をこじらせたエルヴィン王子を主人の代わりに見舞った帰りのことだ。
普段は多少の人通りがあるエルヴィン陛下の部屋近くの廊下は、その日は部屋の主の体調を慮ってか、人影もなくしんと静まり返っていた。
「付き合いというほどのものではない」
自分を見る道化師の目に侮蔑の色が混じっているように感じるのは、自分に後ろ暗いことがあるからだろうかとバウムガルトは考える。
しかし、トーマス・ホーエンローエと王宮で会ったことは無かったはずだというのに、道化師はなぜ自分たちに付き合いがあることを知っているのか。無表情を保ったまま、バウムガルトは内心で警戒を強める。
「ああ、そういえばホーエンローエが治めるリュッケン領はスラウゼンの北隣でした、ね。多少の付き合いがあるのは当然でしょうとも」
さもたった今気が付いたと言わんばかりに道化師が頷く。
「ご存知ですか? トーマス・ホーエンローエは、プレル商会やヤンクールのグーディメル商会と随分と懇意にしているそうですよ」
自分を唆すゲロルトが経営するプレル商会の名前が出ても、バウムガルトは顔色を変えない。もう、腹は決まっているのだ。
「こんな噂話をご存知ですか? ヤンクールの公娼はグーディメル商会の妾腹の娘なのだとか」
公娼が王の愛人なのはバウムガルトでも知っている。ヘルム教は一夫一婦制であるため、ヤンクールの王が制度化したのが公娼だ。公娼は文字通り税金で養われているが、子どもに王位継承権はない。ただし、対外的には王妃と同等の扱いを受ける。諸国との友好を結ぶ場に公娼が出ることもあった。
「今のヤンクールの公娼は子爵家の出だと聞いてるが?」
「こっそり籍を入れることなど、ああいった者たちの常套手段ではありませんか」
公娼の身分は問われないことになっているが、王宮で侮られないためにバウムガルトのように妻に先立たれた男や、結婚する気がない身分の高い男に形だけ嫁入りしたり、養女になったことにして籍を誤魔化すのはよくあることだった。
「それがどうしたというのだ?」
「いいえ、特には。ところで、王宮を去る貴方にエルヴィン王子から贈り物を言付かったのです」
バウムガルトの様子を笑顔のまま見ていた道化師が唐突に陽気な声を上げた。
空を掴むように道化師が手を動かし、どうぞとバウムガルトに手を開いて見せる。その掌にあったのは指輪だった。シグネットリングのように太めの土台に水晶玉が埋め込まれている。贈り物という割には特に包装はされていない。
「そんな話は聞いてないが……?」
それまで無表情を保っていたバウムガルトの眉間に皺が寄る。つい今しがた見舞ったばかりのエルヴィン陛下は、特にそれらしい話はしていなかった。
「恥ずかしがっておいでなのですよ」
「だが、そのような高価な物をもらうわけには……」
「お守りだそうですよ。アンネリーゼ様のご病気が良くなるよう、エルヴィン王子が願いを込めておられました」
戸惑うバウムガルトに道化師は言い募る。
「王宮を去られても、心穏やかに過ごされますよう」
「あ、ああ……貴殿も……」
芝居じみたお辞儀をして道化師が去っていく。不思議なことに指輪はいつの間にかバウムガルトの掌にあった。
◆
「お父様……?」
気遣うような声に重い瞼を押し上げれば、バウムガルトの視界に娘の顔が映り込んだ。
「アンネリーゼ……?」
「大丈夫ですか? うなされておいででしたが……」
寝台の横に座る娘が心配気に問い掛ける。その手にはバウムガルトも良く知る渡り人が書いたという楽譜がある。
音楽好きの娘はもう少し王都にいたかっただろうに、とバウムガルトは視線を落とす。まだ夏も終わらぬうちから娘がスラウゼンに戻っているのは、自分の体調を気遣ってのことだとバウムガルトは理解していた。
「いや……問題ない」
片手で顔を覆って表情を見られないようにしてしまうのは、このところのバウムガルトの癖になっている。その左手の小指には水晶玉が付いた指輪がはめられている。
先ほど見た夢は現実にあったことだった。
道化師から指輪を受け取ったバウムガルトは、何故かその場ではめなければならないという想いに駆られた。そうして指にはめた瞬間から、指輪はどうやっても取れなくなってしまったのだ。自分の柄ではないとバウムガルトは思うが、取れないのだから仕方がない。
お茶を入れますねと娘が立ち上がる気配を感じながら、先ほど見た夢を思い起こす。
(ヤンクールの公娼がグーディメル商会の妾腹……)
何故かそのことがバウムガルトの頭にこびりついて離れない。つい先ほどまではすっかり忘れていたというのに。
グーディメル商会がホーエンローエと繋がりがあるのはバウムガルトも知っている。なぜならグーディメル商会が自分の娘のためにヤンクールの医師を手配したからだ。
「アンネリーゼ、リーンハルト殿はどちらにおられる」
「王都へ向かわれました。侍従長がお話があるとおっしゃって」
身を起こしながら娘に問いかけると軽やかな声が返ってくる。
リーンハルトはヤンクールとの国境を守るマーリッツ辺境伯の末子で、来春にはアンネリーゼの婿になる予定だ。マーリッツ辺境伯であるガルブレンは先々代の王の妹君を娶られた。つまりは現在の王であるエルヴィン陛下とリーンハルトは従兄ということになる。
「侍従長が何の用だ?」
「先日、ヴィルヘルミーネ王女がヤンクールへ向かわれましたでしょう? エルヴィン陛下が寂しがっていらっしゃるのでお話しを聞いて差し上げてくださいと。ちょうど陛下と婚約されたルシャのお姫様もいらしているので、ご挨拶もしてくるそうですよ」
王都でヴィルヘルミーネ王女の婚約を祝う宴が盛大に行われたことはバウムガルトも知っていた。例の渡り人も活躍したと聞いてアンネリーゼがはしゃいでいたのを思い出す。
その時の様子を思い出して緩んだ表情を見られぬよう、バウムガルトは窓の外に視線を移す。すると、門が開いて一台の馬車が入ってくるのが見えた。
「あら? お客様でしょうか。珍しいですわね」
ほどなくして馬車が停まる。
中から出てきた男は見覚えがありすぎる格子柄の帽子を被っていた。