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白鳥の湖

「わたくしは聞くことができませんが、頑張ってくださいませ」


 婚約を祝う会の当日、イルメラに送り出されて部屋を出るとアロイスとクリストフが待っていた。


 演奏は午後からになるが、最後のゲネプロがあるため午前中の早いうちに会場に移動しなければならないのだ。


 今回は宮廷楽師に混ざる形でアマリア音楽事務所の演奏家たちが入るので、カルステンさんがコンマスを務める。ただしソロ部分はアロイスが務めることになっていた。ヴィルヘルミーネ王女がアロイスの大ファンであるため、独身最後のトキメキをと思った私の差し金である。まあ、隣に未来の旦那様が座っているんだけどね。それぐらいは許されるよね。


「2人とも、調子はどうですか」

「問題ございません」

「僕はすごく緊張してるよ。誰かに手を握ってほしいくらいだよ」


 オーボエは『白鳥の湖』の代名詞になるほど目立つから仕方がない。


 気持ちはよくわかるので手を握るくらいならと思って差し出そうとしたら、アロイスが先に手を出してクリストフに微妙な顔をされていた。結局3人共手が空いたままであることは、念のため記しておきたい。


 さて、『白鳥の湖』だ。この物語では冒頭でオデットが悪魔ロットバルトに白鳥にされてしまう。アメリカン・バレエ・シアターの公演を見たことがあるのだが、木の洞を使ってロットバルトが人間に変身したり、オデットが白鳥になったり、早着替えや入れ替わりがハリウッドぽくてとてもおもしろかった。


 ただし、この冒頭部分は序奏として演奏され、バレエとして演じられることはあまりない。


 第1幕はジークフリート王子の誕生日で始まる。道化師や友人たちがたくさんお祝いに駆け付け、賑やかで華やかな宴の様子が描かれる。曲もトランペットやホルンなど華やかな金管が曲を彩るのだが、マルコがアールダムから送ってくれた改善された楽器のおかげでよい演奏になりそうだ。


 そんな楽しいひと時を過ごしているとジークフリート王子の母が登場し、翌日開催される舞踏会で花嫁を選ぶように言う。まだ結婚したくないというジークフリート王子は友人たちと共に湖に狩りに出かけて場面が終わる。


 第2幕の舞台は湖だ。第1幕の華やかな王宮と静かな湖畔の描写は演出しがいのある部分だろう。


 余談だが、私も最初はそうだったのだが、バレエというとどうしても男性のタイツ姿だとか極端に短いチュチュだとか、目のやり場に困りそうで敬遠しがちな方も多いと思う。だが慣れると気にならなくなるし舞台の美術や衣装を見るのも楽しいので、もっと広く楽しまれるようになればいいなと思っていたりする。


 さて、第2幕は例のオーボエソロで始まる。白鳥に変えられてしまったオデットが登場し、狩りに出かけたジークフリート王子と出会うのだが、お邪魔虫な悪魔ロットバルトも登場する。


 この辺りは第1幕と違って短いチュチュを来た白鳥たちがたくさん出てくる。会場で遠くから見れば、衣装も相まって本当に白鳥のようでおもしろいし、DVDでアップになったところを見るとダンサーさんの背中がびっくりするほど筋肉質で、それもまた興味深かったりする。


 たくさん出てくる白鳥たちの全てが元は人間の娘さんだったのかどうかはわからないけれど、そうだったとすれば悪魔ロットバルトのハーレム願望に引いてしまう。引くほどたくさんの白鳥たちが出てくる。


 それはともかく、第2幕の最大の見せ場は『王子とオデットのグラン・アダージョ』だ。アロイスがソロを演奏するところだ。ハープやチェロとの掛け合いも美しく甘い旋律で、チャイコフスキーが実はあまり好きではない私でもうっとりしてしまう箇所だ。


 そんなこんなでオデットに永遠の愛を誓うジークフリート王子だが、ロットバルトに引き裂かれて第2幕が閉じる。


 第3幕は再び王宮に戻って華やかな舞踏会シーンとなる。花嫁候補がたくさん出て来てダンスを披露していくけれど、王子は首を横に振り続ける。そんな中、悪魔ロットバルトが娘のオディールをオデットに変身させて連れてくるのだ。そして案の定、王子はオディールに魅了されて永遠の愛を誓ってしまう。


 オデットとオディールは1人のダンサーが2役を演じるのだが、静と動の対比が『白鳥の湖』の見どころの一つと言える。私が見たアメリカン・バレエ・シアターの公演は、本当に同一人物か? と思うほど化粧も表情も違っていた。


 でね、オディールに誘惑されちゃう王子なんだけど、ちょっとチョロすぎると思うのだ。抱き締めようとするとするっと逃げられちゃったり、近づこうとするのを制されてしまったりで、それはそれで見ていておもしろいのだが。王子が一人で踊るシーンなんかはどんどん浮かれていく様子がわかって「うわあ」って言っちゃいそうになる。


 たぶんオディールも思っていると思う。「王子wwwチョロいwww」って。一番盛り上がる36回転なんかは、もうね、勝ち誇ってるというか得意げにくるくる回っちゃうから。


 それでまあ愛を誓った王子にロットバルトがネタバラシして、オディールと共に高笑いしながら去っていき、第3幕が終わる。


 第4幕は再び湖のシーンとなる。王子がオデットに許しを乞い、ロットバルトが2人を引き離そうとして争いとなる。バレエではちゃんと戦うシーンもある。


 ラストは演出によって変わってくる。王子がロットバルトをやっつけちゃう場合もあれば2人とも死んでしまうけどあの世で結ばれるみたいな場合もある。


 今回は婚約祝いなので、王子が悪魔をやっつけるという解釈にしてあった。僭越ながらヴィルヘルミーネ王女もオデットのように王子様と幸せになるといいよ! というはなむけのつもりだ。


 さて、そうこうするうちにゲネプロを終えていよいよ本番が始まる。


 客席を見ると王女が真ん中に座り右側に婚約者と思しき男性が、左側にエルヴィン陛下が座っていた。エルヴィン陛下の隣は空席だ。ルシャの姫君が座るのかと思ったのだが、今日はいらっしゃらないのだろうか?


 疑問には思ったけれど、舞台に立った以上は始めなければならない。


 カルステンさん、アロイス、クリストフと順々に視線を合わせる。緊張感の中にもいよいよ始まるというわくわくした雰囲気を感じて指揮棒を振り下ろした。






 ◆






 大歓声に包まれながら礼をするために客席を向くと、エルヴィン陛下の隣には澄んだ緑色の目を持つ女性が微笑んでいた。


 うわあ、やられた!


 そう思ったけれど、表情に出さないように気を付けて頭を下げる。


 鳴りやまない拍手の中、演奏で大活躍したクリストフ、アロイス、宮廷楽師のチェリストを手で指し示す。それぞれ立ち上がってお辞儀をすると拍手が一層大きくなる。そして全員を立ち上がらせ栄誉を分け合った。


 良い演奏だったと思う。王女の満面の笑みが見えて、喜んでもらえたようだと安堵する。


 ハンカチを手にしたシルヴィア嬢の姿も見える。


 まったくもう、シルヴィア様ってば。いつもは毅然としているのにどうしてこんな時に涙ぐんじゃうかな。もらい泣きしてしまうではないか。


 ありがとう。ぜったい幸せになってね。


 そう、心を込めて深く頭を下げた。






 ◆






 後片付けを終えて部屋に戻るとイルメラは当然いなくて、代わりにドロフェイが待っていた。心なしか顔色が悪くて表情も暗い。


「会場にいなかったけど、聞いていなかったんだ?」

「いいや。会場にはいなかったけど、聞いていたよ」


 応接セットに足を組んで座ってるドロフェイに話しかけるとよくわからない答えが返ってくる。どうやって? と思ったけれど、ドロフェイだもんねと思って聞くのを諦める。


「久しぶりだね」


 お茶を入れてドロフェイに出すと、無言のまま勢いよく飲んで驚いた。


「なに? どうしたの? 体調悪い?」

「ただの二日酔いさ」


 ドロフェイでも二日酔いになったりするんだとさらに驚く。


「キミの所に来ていた侍女だけど、彼女、ワクだから」

「ふふっ、ザルじゃなくてワクなの?」


 そう言うからには二日酔いの原因はイルメラなのだろう。シルヴィア嬢がそういえばドロフェイは毎晩ルシャの姫君のところに入り浸っていると言っていた。


「キミはどうなんだい? アルコールは強いのかい?」

「ううん。全然。すぐ眠くなっちゃうんだよ」

「ふうん」


 ドロフェイが手を伸ばして私の頬をふにふに摘まむ。


「どうしたの? ひょっとして疲れてる?」

「ああ。とっても、ね。癒してくれるかい?」

「どうやって?」


 演奏でもすればいいのかと思ったけれど、二日酔いだと頭に響きそうだ。首を傾げているとドロフェイが近づいて来てはぐはぐと唇を食まれた。


「ふははっ、その顔、おもしろすぎる……っ」


 驚いて固まっているうちにドロフェイが笑い出してテーブルに突っ伏す。あれ? 私、ケンカ売られてるのかな?


「もうっ、失礼すぎるよ!」


 毒気を抜かれたけれど一応怒ってみる。なんだか大きい猫みたいだと思ったのは内緒だ。


 ドロフェイは顔だけ向きを変えて私を見た。無言のままじっと見つめられて居心地が悪いが、ドロフェイには聞きたいことがたくさんあったことを思い出す。


「ゲロルトは無事? あの後どうしてる?」

「たぶん、ね。しばらく僕の部屋にいたけど、いつの間にかいなくなったよ」

「そう……助けてあげないの?」

「彼には彼の役割があるけれど、僕には関係の無いことだから」


 ゲロルトの役割? ドロフェイにも役割があったように、ゲロルトにも役割があるということだろうか?


「ひょっとしてゲロルトの役割のために、誰かが火の加護を目覚めさせた?」

「言っただろう? 僕には関係のないことさ」


 にべもなく言うドロフェイは、これ以上のヒントをくれるつもりはないのだろう。私はため息を吐いた。


「私、助けてもらったのにお礼を言ってないんだよね」

「ふうん。ゲロルトは髪留めを持っていたけれど、あれはキミのではないのかい?」

「私のだけど……?」

「じゃあ、それがお礼ってことでいいんじゃないかな」


 簡単に言うドロフェイだが、命を助けてもらった私としては、直接会って礼を言わなければ気が済まない。それに、結局ゲロルトがどうして助けてくれたのかはわからず終いなのだ。


「キミが先にゲロルトを助けたんだろう?」

「そうなのかな?」

「追われているところを助けられたと言っていたよ」


 フライ・ハイムの近くで会った時のことだろうけれど、あの時は私が話をしたかっただけなのだ。


「それよりもキミ、あの男はどうするんだい?」

「あの男って?」

「テンブルグの指揮者だよ」

「…………どうしたらいいんだろうね?」


 思い出したくなかったギュンターの話題を出されて心が重くなる。ヴァノーネに行く途中でテンブルグにも寄る。ギュンターもそこにいるはずだ。でも会ってどうしたらいいのか、もしくは会わない方が良いのか、よくわからないのだ。


「ふうん? 僕が始末してあげてもいいけど?」

「や、それはダメ。大丈夫。自分で考えるから」


 不穏なものを感じて慌てて首を横に振る。人の気持ちがわかっているのかいないのか、よくわからないけれど、とにかくドロフェイに頼んではダメだと思う。


 とりあえず話を逸らされなければと私は知恵を絞る。


「ええっと……ドロフェイって600歳だよね? ずーっと王宮にいたの?」

「そんなわけないだろう。ここに来たのは……いつだったかな? エルヴェシュタイン城が出来た後だよ」


 ドロフェイが言うには、エルヴェシュタイン城の建設現場をウロウロしていたら、ヴィーラント陛下と共に見学に来たエルヴィン陛下に遭遇したらしい。


「本人は違うって言ってたけど、あれは絶対に迷子になっていたと思うんだ。彼をヴィーラント陛下の元に届けたらご褒美をくれると言うものだから、城の建築に携わりたいと言ってみたのさ。僕は人だった頃は建築の仕事をしていたし、その方が都合も良かったから、ね」


 都合が良いというのは、おそらくあの地底湖のことだろう。そもそも建設現場をうろついていたのも、地底湖の様子を見に行っていたからかもしれない。


「エルヴィン陛下に懐かれてしまって、城が完成した後もこうして王宮にいるわけさ」

「ふうん。じゃあその前は?」

「300年前に起きて、ウルリーケに会って。その後は特に何もしてなかったよ」

「え、眠ってたの?」


 600歳だというから、当然600年生きているのだと思っていたのだが、ずっと起きていたわけではないらしい。


「そうか。キミは知らないのだった。水の神の神話があるだろう? 人が言う水の神は次のジーグルーンを探す時期まで眠るのさ」

「そんな……」


 共に生贄にされたのだから、ジーグルーンと水の神はずっと一緒にいたのだと思い込んでいた。ユリウスは確か300年ごとに生贄を出すのではと予想していた。次のジーグルーンを探す時期が300年ごとだとしたら……。


「一緒に生贄になったジーグルーンには、生贄にされた後は会えなかったってこと……?」


 私の問いにドロフェイは答えず、肩を竦めるだけだった。


「300年前、ウルリーケを連れて行けたら僕はお役御免だったのだけど、ね。おかげでつまらない300年を過ごすことになってしまったというわけさ」


 お道化たようにドロフェイは言うけれど、次のジーグルーンを探すために300年も無為に生きなければならないなんて、そんな簡単なことではないだろう。容姿を考えれば年はとらなそうだし、ずっと誰かといるわけにはいかないはずだ。


「……もし、ウルリーケさんを連れて行っていたら、ドロフェイはまた眠ることになったの?」

「いいや。魂が解放されるのさ。そうして、共に生贄となった者が次の僕になる。そういう仕組みだよ」


 ならば、今回私を連れて行かなければ、ドロフェイはまた300年を過ごすことになるのだろうか。


「キミが気にすることではないと思うけど?」

「……わかってるよ」


 聞いたばかりの話が悲しすぎて目の奥が熱くなるけれど、ドロフェイと共に行けない私に泣く資格なんてない。


「それよりもウェルトバウムの根がどうなったか、気にならないかい?」


 はぐらかすように言って、ドロフェイは片手を振った。


 いつの間にか手の中には青いビー玉のような球体がある。今度はもう片方の手をその上に被せて少しずつ開いていくと、ビー玉がぐぐぐっと大きくなって水晶玉のようになった。


「これってエルヴェ湖の中?」


 顔を近づけて目を凝らせば、ゴツゴツした岩と木の根っこが見える。


「もう少し大きくしようか」


 ドロフェイが水晶玉の上部を人差し指でくるくる撫でると、まるでビデオカメラみたいに木の根がズームアップされた。


「傷の残りは……あと1個と半分くらいかな?」


 初めてウェルトバウムの根を見たのが去年の12月だ。1年経ってはいないけれど、これからヴァノーネに行くことを考えれば、ちょうど折り返し地点だとも言える。減った傷も半分。


「来年の誕生日までギリギリかな……?」

「その時に何かあるのかい?」

「うん。まあね……」


 ドロフェイの過去を聞いてしまった私としては、ユリウスとの約束をドロフェイに話すのは不謹慎なことのように思えた。


「ふうん。そういえば、僕たちの賭けの期限は決めていなかった、ね」

「うっ、…………決めた方がいい?」


 せっかく無期限だったのに、とうとうドロフェイに気付かれてしまったかと肩を落とす。


「フフ……まあ期限を設けてもあまり意味がないのだけど」

「そうなの?」

「キミは勝っても負けても、ハーベルミューラの毒を浄化し続けなければならないのさ」


 ドロフェイの言葉に眉を顰める。なんだか思っていたのと違う。


「それって賭けになってないような気がするんだけど……もしかして、最初から騙すつもりだった?」

「場所が違うだろう? キミがハーベルミューラに行くのか、フルーテガルトにいるのか。これはキミにとっては大きな違いではないのかい?」

「そうだけど…………ねえ、ずっと音楽を奉納するのは良いとして、私が死んだあとはどうなるの?」


 簡単に死ぬつもりなどないが、次のジーグルーンを探すのは300年後だ。流石にそんなに長生きできるはずがない。


「ふうん。誤魔化されてはくれないか」

「どういうこと?」

「フフ……、君は天寿を全うしたらハーベルミューラに行くことになるのさ」


 ドロフェイが言うには、ハーベルミューラに行けば300年後まで奉納が続けられるらしい。300年も生きるなんてドロフェイのように人間の世界にいるとしたら辛いとだと思うが、毎日音楽を奉納して暮らせるなら私にとっては悪くないあの世生活といえる。


「ねえ、その場合ってユリウスはどうなるの……?」

「まったく君は本当にウルリーケに似ている。彼女も同じことを気にしていたけれど、僕が今もジーグルーンを探す役割を続けていることを考えれば、わかりそうなものだけれど?」

 ウルリーケさんの水の神はドロフェイではない。つまり、彼女にとっての水の神はハーベルミューラに行かずに済んだということだ。


「よかった……」


 思わず安堵の息を吐くと、ドロフェイはひどく難しそうな顔をした。


「なんだかそれではつまらないような気がしてきた」

「えっ、ちょっと待って!」

「はははっ、キミ、揶揄いがいがありすぎるよ」


 爆笑するドロフェイだが、彼のこれからを思えば私はいつものようには笑えなかった。


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