ルシャの姫君の噂話
8月の終わり、アマリア音楽事務所のレッスンは全面的にお休みとなった。遅めの夏休み、というわけではない。私を含めて演奏者の全員が、9月の第2週に予定されているヴィルヘルミーネ王女の婚約を祝う会に出演するため王都へ行かなければならなかったからだ。
今回は国の行事ということもあり、全員が王宮に滞在している。ただし、演奏者ではないキリルとモニカには部屋が与えられなかったため、2人はヴェッセル商会の王都支部に宿泊し、毎日王宮までゲネプロを見学しに通っていた。護衛に関しては私にだけ付けられるということでラウロは王宮、エドはヴェッセル商会という割り振りになった。
婚約を祝う会である以上、ヤンクールから来た婚約者の方々も出席する。彼らは王宮に滞在しているが、即位式よりは招待客が少ないらしく私たちはそれぞれ1部屋ずつ使うことが許された。
今回もエルヴィン陛下が突然訪ねてきたりするのだろうかと1人部屋になった私は戦々恐々としていたのだが、男装しているとはいえ私が女だと知るエルヴィン陛下は、婚約者が決まったからなのか訪れることはなかった。
つまり私は未だドロフェイに会えていない。
すでに4か月近く会っていないので、さすがにのんびりな私でも気になる。ゲロルトがどうなったのかも気になっていたし、ウェルトバウムの根がどんな状態になっているのかは今すぐにでも確認したい。
エルヴェ湖への音楽の奉納は創世の泉からほとんど毎日行っている、ユリウスからもらった髪留めを付けて演奏する時はかなり効果があるような気がするのだが、実際に見てはいないのでどの程度のものなのかわからない。まあ、その髪留めはゲロルトに渡してしまったので今は持っていないのだが。
とにかくヴァノーネに発つまでには一度会えればいいなと思っているところだ。
「アマネ様、シルヴィア様が半刻後にお越しになるそうです」
「ありがとうございます。イルメラ」
ゲネプロが終わって部屋に戻ると部屋付きの侍女であるイルメラが声を掛けてきた。
前回侍女が私の物を持ち出したということがあったからか、イルメラは侍従長が選出した侍女だと紹介された。
今回は1人部屋であるため前回の部屋よりは少し狭いが、それでも2間続きになっており、奥の部屋が寝室、手前の部屋がちょっとした応接室のようになっている。
応接スペースの椅子に腰かけネタ帳を取り出す。時期は不明だがエルヴィン陛下の御結婚が来年にあるだろうから、早めに来年の演奏会の予定を立てておかなければならないのだ。
ネタ帳を開いて栞代わりの美しい赤をテーブルに置く。ゲロルトが置いていったあの羽根だ。
イルメラが入れたお茶をテーブルに置いてくれたので礼を述べようと上向くと、彼女の透き通った緑色の目は羽根に釘付けになっていた。
「ふふっ、イルメラはこの羽根が好きですよね」
「はしたないことで申し訳ございません。つい目が行ってしまいまして……」
いつものことなので特に咎め建てせずにそう言えば、頬を赤らめてイルメラが謝罪する。
「気にしないでください。綺麗な色ですし、私も気に入っているのです」
イルメラが恥じ入るように俯いて退室していくのを横目に、ネタ帳に予定を書き込んでいく。来年の演奏会は今年と同じように朗読劇も行いたいところだが、ジゼルもマリアもいないので、再考の必要がある。
更に他にも協奏曲と交響曲の組み合わせで2回は開催したい。協奏曲2曲のうち1曲はアロイスのヴァイオリンだとして、もう1曲はオーボエとピアノのどちらにしようか悩み中だ。オーボエに関してはクリストフの頑張りを評価したいと考えたのだが、ピアノの製造が波に乗り始めたヴェッセル商会からは、ピアノ協奏曲をリクエストされていた。
ピアノ協奏曲をやるとすればキリルに頼むつもりでいる。発表会の伴奏を通じていろいろな表現方法が身に付いてきたし、来年の後半までにはソリストとしてデビューさせたいとも考えているのだ。
目ぼしい曲をピックアップしてネタ帳に書いていると、イルメラが戻って来てシルヴィア嬢の来訪を告げた。
「アマネ様、ごきげんよう」
「シルヴィア様、ようこそお越しくださいました」
目を合わせると悪戯っぽい笑みが返される。こうしてお会いできるのもあと僅かだ。私たちは連れ立って庭を散策するために部屋を出る。一応、私は男ということになっているので、嫁入り直前のシルヴィア嬢と2人で部屋にいるのはあまり外聞がよろしくないのだ。
「アマネ様、お聞きになりまして? ルシャの姫君が実はすでに王宮にいらしているという話ですわ」
「えっ、早くないですか? 来春お見えになる予定でしたよね?」
「ええ。わたくしもまだお会いしてはいないのですが……」
エルヴィン陛下の婚約相手であるルシャの姫君は、現在嫁ぐための準備中で、ノイマールグント入りは来春になると聞いていた。
「王族の嫁入りですから、普通は準備に1年はかけるものなのですが……」
「少しでも早くエルヴィン陛下にお会いしたかったのかもしれませんね。お年は陛下よりも上でいらっしゃるのですよね?」
二コルの話をちょっと思い出す。横を見ればシルヴィア嬢も微妙な笑顔だったので同じことを連想したのだろう。
「ふふっ、最後にもう一度女子会で皆様にお会いしたかったですわ」
「そうですね。でも、そのうち皆でヤンクールに押しかけますよ」
シルヴィア嬢と二コルが参加した最後の女子会は、朗読劇の直後だった。それぞれが忙しくて結局3回しか開催できなかったが、絶対にまた集まりたいと思っている。
「そういえばシルヴィア様はドロフェイに会うことはございますか?」
「道化師ですわよね。ございませんけど、そのルシャの姫君の部屋に入り浸っているという噂ですわよ」
困ったような表情で、シルヴィア嬢が声を潜めた。
「エルヴィン陛下の命だという噂もございますけど、毎晩という話ですから、あまり褒められたことではございませんわね」
「そうですか……ドロフェイには聞きたいことがあったので、王宮滞在中に顔を合わせる機会があればと思っていたのですが、難しそうですね」
やんごとなきお方より自分が優先されるなどあり得ないだろう。
「アマネ様、いただいたお祝いの曲ですが、お父様が嫁入り道具にピアノを持って行ってもよいとおっしゃいましたの」
「では、私がヤンクールに行く時には、旦那様との演奏を期待してもよろしいですか?」
「それは頑張って練習しなけれないけませんわね」
シルヴィア嬢に送ったお祝いの曲は私が作ったヴァイオリンソナタだ。いつでも楽譜起こしに追われている私だが、たまには曲も作っているのだ。シルヴィア嬢には特に幸せになってほしいと思っていたし、旦那様になられる方がヴァイオリンを嗜まれると聞いていたのでお二人で演奏できるように作ったのだった。
それにしても、こんな風にお話できるのもあとちょっとだなんて悲しすぎる。
「あと3日、なのですね……」
シルヴィア嬢とヴィルヘルミーネ王女は婚約を祝う会の翌日にはヤンクールへ発つ。私は見送りの場には立たないことにしてある。身分的にどうこうということではなく、私がみっともなく泣いてしまいそうだったので固辞したのだ。だってシルヴィア嬢は女性だ。嫁ぐ際に男の私が取り乱してしまっては変な噂が立ってしまう。
「明日もまた参りますわ」
「ええ、お待ちしております」
毎回別れ際にうるっとしてしまう私にシルヴィア嬢は姉のように慈悲深い笑顔を向ける。私の方がずっと年上なのに情けないけれど、この世界に来て初めて親しくなった同性なのだ。それに、シルヴィア嬢には助けてもらってばかりで、何も返せていないような気がするのだ。
沈んだ気持ちをどうにか誤魔化し、シルヴィア嬢と別れて部屋に戻る。そろそろイルメラが下がる時間だ。イルメラはいつも夕方には別の侍女と交代する。短い間とはいえ世話になっているのだから、今日も一日ありがとうとお礼を言わなくてはと私は部屋へ急いだ。
◆
本番2日前、テンブルグから帰ってきたユリウスが部屋を訪ねてきた。
いつも通りにハグをして頬にキスすると、イルメラがギョッとしていた。二コルが言っていた通り、よほど親しくなければこういうことはしないのかもしれないと反省する。
「マリアはどう? 上手くやっていけそう?」
「ああ。カッサンドラ先生にはお孫さんがいてな、妹ができたみたいだと喜んでいた」
マリアが通う中等教育学校は全寮制なのだが、カッサンドラ先生のレッスンを受ける時はお宅にお邪魔することになる。学校の休みの日を使って訪問するらしく、お孫さんとも遊べることを楽しみにしているそうだ。
「学校のお友だちは出来たのかな?」
「同室の娘とは気が合うと言っていたぞ」
「勉強は? ついていけそう?」
「レイモンの所で学んだからな。問題ないだろう」
ああもう、まだ別れてから1か月も経っていないというのに会いたくてたまらない。
「アルフォードはどうしてる?」
「寮ではペットは禁止だから、帽子を被って過ごしているようだ」
出た、謎アイテム。
いや、アルフォードは初めて会った時からその三角帽子を被っていたのだが、そんな不思議なものだとは聞いていない。
その帽子は、人間に認識される人型をとるようになったアルプが、姿を消す時に被るものらしい。元々アルプは、成人すれば人型をとることが可能になるそうだ。そして、そうなった時は三角帽子を被って姿を消すのだという。
もちろん、私は戻ってきたら貸してほしいと頼んだのだが、どうやら失くしたら困るものらしく、アルフォードが渋っていた。
「ヴァノーネの件だが、俺も同行する」
ユリウスはマール貿易の件でヴァノーネに行かなければならないのだと言う。思ってもみなかった話に私の心は踊る。マリアにも会えるし、ルブロイスにも寄ることが出来れば温泉にも行ける!
「じゃあ、ゆっくりの行程だとダメかな? ルブロイスにも寄りたいんだけど」
「それは構わんぞ。ヤンクールの様子を見てもらっているケヴィンが、マーリッツ経由でルブロイスにも足を延ばすと言っていた。時期を合わせるように連絡しておこう」
ケヴィンはジゼルを送ってヤンクールに行ったのだが、そのまま異変がないか街の様子を探っているらしい。レオンもヤンクールにそろそろ着く頃なので、到着を待ってからマーリッツへ向かうそうだ。
「それから、ザシャも同行させる」
「ザシャも? 嬉しいけど、どうして?」
「ピアノの製造方法がマール貿易に参加する交換条件になったのだ」
私は聞いていなかったのだが、4月から6月にかけてテンブルグに行っていたユリウスは、マール貿易にテンブルグを参加させるための最後の一手として、ピアノの製造方法のカードを切っていた。
「検討すると言われていたのだがな、今回はよい返事がもらえたのだ」
「ザシャはずっとテンブルグにいることになるの?」
「いや、春までだ」
腕のいい職人であるザシャが完全にテンブルグに行くことになると、ヴェッセル商会としては痛手だ。そこで、春まで貸し出すという形にするのだという。
「おおよその旅程は手紙でもらっていたが、変更はないか?」
「うん。出発が慌ただしくなっちゃうけど、冬までには戻ってこないといけないからね」
ヴァノーネまでは10日ほどだが、テンブルグでは数日滞在したいのでおよそ1か月くらいの行程でヴァノーネに入る予定だ。帰りは寄り道しないで帰ってくるつもりだが、ヴァノーネでゲネプロを行ったりする期間を考えれば2か月以上留守にすることになる。
「でも、ユリウスが一緒だと心強いよ」
微笑んで見上げると、ユリウスは周囲を確認してから唇を寄せてきた。