慈善演奏会の楽屋
割れた窓はすぐには直せないということで、私はユリウスの部屋で休むことになった。私は寝台を譲られ、ユリウスは二間続きの手前の部屋に陣取っている。
襲撃の後だから一人では心細かろうなどという配慮ではない。警戒心が無さすぎて目を離すと浚われていそうだというユリウスの主張が認められたからだ。
アルフォードも私と一緒に着いて来た。昼間は寝ているが、夜は活動タイムだという。いやいや、髪をぐちゃぐちゃにするのは勘弁してほしい。
「よろしいですか? 悪戯をしたら鍵穴を塞いで閉じ込めてしまいますよ」
鍵穴を塞ぐのはアルプに対する有効な手段であるらしい。デニスに言い含められて、銀猫はフルフルと身を震わせていた。
猫と言えば、話が終わってアルフォードが猫の姿を解いたところ、人の姿になったはずのアルフォードは私にも見えなくなってしまっていた。そして私は宮廷道化師を思い出した。どうやら術とやらはタイムリミットがあるものだったらしい。
そんなわけでアルフォードは猫のままである。寝台に横たわる私の枕元にちょこんと座っている。
「アルフォードはヴェッセル商会に居付くつもり?」
「うーん、すぐいなくなっちゃうんでしょう? 夜に誰もいないなら夢が食べられないよ。おねえさんの夢、食べたかったなあ」
「夢って、おいしいの?」
「男の夢はおいしくない。女の人の方がおいしい」
そういうものなのか。ちなみに昼間は胸に布をきつく巻いて誤魔化しているが、寝る時はさすがに苦しいのでしていない。なのでアルフォードが私を女と認識していることに違和感はない。
「ふーん。でもなんで私のは食べられないんだろうね?」
アルフォードによれば、そういう人もいるらしい。企業秘密なのか、その辺りは教えてくれなかった。
「じゃあ今日はご飯抜きだね」
「昨日も食べてないのにー! いいもん、外で食べてくるから」
「え、ちょ、アルフォードっ! 待ちなさい!!」
アルフォードの姿が瞬時に消えて、銀色の影が鍵穴から出て行ってしまった。
「うるさいぞ。騒いでないで早く寝ろ」
「ユリウス! アルフォードが出て行っちゃった! 外でご飯食べてくるって!」
「放っておけ。アルプとはそういうものだ」
手前の部屋からユリウスが入って来て叱りつけてくる。でもアルフォードは一応助けてくれたのだし、なんだかかわいいなと思い始めていたところだったので、急にいなくなってちょっと寂しい。
ユリウスは盛大なため息をつき、大きな手で私の目を覆った。
「さっさと寝ろ」
「……うん」
されるがまま大人しく目を閉じると、宮廷道化師から守ってくれたことを思い出し、安心感から眠気が込み上げてくる。
「ユリウス」
「なんだ」
「…………なんでも、ない」
なんとなく呼んでみたくなっただけという言い訳は、まどろみに溶かされてしまった。
◆
「アールーフォーーードーーーーっ!!」
「ひどいよ! 言いがかりだよ! 僕じゃないよ!」
翌朝、目覚めた私の髪は再び爆発していた。枕元には銀色の猫。
僕じゃないのにと抗議する猫はデニスに連行された。
ラースは大笑いしているし、ユリウスは目を合わせまいとしている。笑いたければ笑えばいいよ!
そんなことよりも私は大事なことを思い出した。
チェンバロの楽譜ができていない!
「早く髪を整えろ。会場のアーレルスマイアー侯爵家には午前のうちに入るように言われている」
「聞いてないよ……」
どう考えても間に合わないではないか。仕方なく書きかけの楽譜を持って行くことにする。
髪をどうにかこうにか整え、言われるがままに盛装してアーレルスマイアー侯爵家に向かう。今日は淡い緑色のジュストコールだ。白い絹糸で刺繍が施されたそれは、前回同様ユリウスの一番下の弟くんのものだ。
「朝、弟から知らせが来た」
会場へ向かう馬車の中でユリウスが言った。
「この衣装の持ち主の?」
「いや、二番目だ。今日の午後に王都に着くそうだ」
二番目と言えば、あの暗黒詩の作者様だ。どんな顔をして会えばいいのか……しかし、そういえば私たちは演奏会が終わったらフルーテガルトに発つのだ。あれ? でも何の準備もしていない。
「予定を変更してフルーテガルトへは明日の朝に出発する。ケヴィンも、弟も同行する。一人でも多いに越したことはない」
ラースが御者をする以上、護衛の手が足りないということらしい。
襲撃は再びあるのだろうか。馬車に乗り込む時のユリウスやラースの様子は、昨日と今日で明らかに違った。こんなに気を張らなければならないのかとゲンナリしたが、二人にはなんだか申し訳なかった。
「また襲撃があるのかな」
「おそらくは。案ずるな。フルーテガルトに着けば少しは安心できる」
「どうして? フルーテガルトには襲撃犯は来ない?」
「余所者は目立つからな。絶対とは言えないが、襲撃犯が動きづらいのは確かだ」
そう言われると、フルーテガルトが急に懐かしくなってきた。ハンナやザシャ、エルマーに会いたくなってくる。
ふいにユリウスの手が伸びてきて私の頭に添えられた。
「まだ寝ぐせがついている」
不機嫌そうに低い声で言って、ユリウスが手櫛で髪を梳いてくれる。不器用な気遣いに少し心が上向いた。
「今日の出演者って、シルヴィア嬢のお友達なんだよね?」
「ああ。ギルベルト様とそのご友人もいる。それとシルヴィア嬢の家庭教師も演奏すると聞いている」
演奏者の人数は私とユリウスを含めて九名だという。どんな楽器でどんな演奏を聞かせてくれるのかと考えるとわくわくしてきた。
「アマネ、わかっていると思うが、昨日の襲撃のことは言うな。アルプのこともだ」
「アーレルスマイアー侯爵には言わないの?」
「後で知らせるが、今はどこに誰が潜んでいるかわからん」
「ふうん、アルプのことはどうして?」
「アルプは女の夢しか食べない。忘れたのか?」
すっかり忘れていた。迂闊に話せば女であることがバレる可能性がある。
「演奏よりもお前が口を滑らす方が心配だ」
「うっ、なんか自分でもそれは心配かも」
二人で顔を青くしているうちにアーレルスマイアー侯爵家に到着した。
通された控えの間には、着飾ったシルヴィア嬢とギルベルト様の他に数人の男女がいた。
「アマネ様、ユリウス、今日はご参加くださりありがとうございます」
「急な話で悪かったね。君たちの順番は最後にしておいたよ」
トリか……。皆さんの演奏をゆっくり聞きたかったので演奏順は早い方がよかったのだが仕方がない。
ギルベルト様とシルヴィア嬢が集まっている皆さんを紹介してくれる。ギルベルト様の友人が二人、シルヴィア嬢の友人が二人で、今は侯爵と歓談中だというシルヴィア嬢の家庭教師を含めて今日の演奏者だという。
ギルベルトの友人たちはオーボエとバスーンを演奏するようだ。両方とも私がザシャにキーを付けるように頼んであるダブルリードの楽器だ。どちらも元の世界にもあるが、指孔を塞ぐために補助をするキーは付いていない。
一度はチェンバロのソロや伴奏を行う者が多いらしく、貴族の教養としてチェンバロが必須であることが察せられた。
シルヴィア嬢が主催ということで出番が一番多い。チェンバロの他にヴァイオリンも演奏するという。そしてシルヴィア嬢の家庭教師、シルヴィア嬢、ギルベルト様の三人で弦楽三重奏もあると聞き、私は楽譜が見たくてうずうずしてしまった。
「みなさんお揃いですかな?」
シルヴィア嬢の家庭教師が入ってきて、演奏する部屋へ案内される。控えの間よりも入り口に近い広い部屋で演奏を行うようだ。
部屋は予想よりも広く、低い舞台が設けられていた。出入口が二つあり、舞台に近い方から演奏者は出入りするのだとシルヴィア嬢が説明してくれる。
丸いテーブルがいくつか置かれ、コンサート会場というよりはディナーショーの会場みたいだ。そのうちの一つにアーレルスマイアー侯爵と美しい金髪を結い上げた女性がいた。
美しい髪を見れば紹介されるまでもなく侯爵家の血筋の方だと知れたが、シルヴィア嬢に促されるままに二人に近づき挨拶をする。女性は思った通り、シルヴィア嬢の姉君で、すでに嫁いでいらっしゃるらしい。アーレルスマイアー侯爵夫人はすでに故人であると聞いていたが、その代わりに客をもてなすのだろう。
「渡り人様と伺っておりますわ。演奏を楽しみにしております」
「今日はたくさんの貴族を招いているが、頑張りなさい」
プレッシャーをかけてくるのは止めていただきたい。まあ誰が来てもやることは変わらないのだが。
一度、控えの間に戻り、今日の簡単な流れが説明された。
演奏会の前にお客様を入り口でお迎えするのは、アーレルスマイアー侯爵家の方々だ。私たちは演奏する会場で出迎える。シルヴィア嬢が始まりの挨拶をする際は、全員で舞台前に並ぶ。
その後、最初の演奏者を残して私たちは控えの間に戻る。私の出番は最後の方なので、中盤にある休憩までは会場にいてもいいと言われた。
演奏会が終わったら昼食会を行うようだ。
「昼食会と言っても、席も決まっていない立食パーティーですのよ」
シルヴィア嬢のその言葉を聞いて安心した。食事のマナーなんて自信が無い。昼食会では一通り参加者に挨拶をしたら帰ってもいいようだ。
昼食会が控えていることもあり、演奏会は昼には開始される。つまり来場者は午前中に入場するということだ。もう半刻もすれば来るだろうと言われた。
まだ会場に入るには少し早いので、私たちはそのまま控えの間に留まった。
「ユリウス、久しぶりだな。君も王都に住めばいいのに」
「学生の時みたいに、また読書クラブに行こうよ」
女性だけでなく男にもユリウスはモテるのかと意外に思う。私に見せる表情は、呆れ、不機嫌、睥睨、のいずれかであることが多いのに、彼らの前では割と穏やかな顔つきをしている。
男装をしているせいか、ご令嬢たちは私を遠巻きにするばかりで、少し居心地が悪かったが、気が付いたシルヴィア嬢が声をかけてきてくれた。本当によくできたご令嬢だ。
「アマネ様、今日演奏されるヴァイオリンはヴェッセル商会のものですの?」
「はい。ユリウスが使っていたものを貸してもらったのです」
「まああ、羨ましいですわ! でも、そのヴァイオリンでよい演奏をなされば、ヴェッセル商会の株もますます上がりますわね」
それは失敗したら株が下がるということではないだろうか。心配が顔に出てしまったのかシルヴィア嬢がくすくすと笑った。
「ふふふ、申し訳ございません。意地悪を言ってしまいましたわ」
「楽しそうですわね。わたくしたちもお話に混ぜてくださいませ」
シルヴィア嬢の笑い声に、遠巻きにしていたご令嬢たちも集まってきた。まさかシルヴィア嬢はこれを狙っていたのだろうか。
「アマネ様は渡り人様なのですよね? 突然こちらに来られて戸惑われたのではございませんか?」
「どうでしょうか。私は怪我をしていて数日寝込んでおりましたので、あまり事態を飲み込めていなかったのです。それに、ヴェッセル商会の皆がよくしてくれましたから」
失敗した時のためにというわけではないが、ここぞとばかりにヴェッセル商会を持ち上げておく。
「アマネ殿、よろしいですかな。少し楽譜を見せていただきたいのです」
ご令嬢たちと歓談していると、シルヴィア嬢の家庭教師が話しかけてきた。
「もちろんです」
そう言ってヴァイオリンの譜面を手渡す。チェンバロのバッハは書きかけなので渡せないのだ。
「ほう、線が五本ですか……横が時間軸、縦が音の高さというのはこちらの楽譜と同じですが、随分記号が多いですな。この記号は?」
「曲全体の調を示しています。音符の横にあるものも同じですが、これは臨時のものですね」
「この矢印のようなマークは?」
「音の強弱を示します。このように音符とセットで示されるものはアクセント、長く書かれているのは少しずつ強めたり弱めたりします」
「ふむ、非常に興味深い」
興味を持ってもらえたようで良かった。記号とその説明が欲しいと言われたが、楽典はまだ出来ていない。やることが多くて正直手が回らないが、なるべく早く完成させてお渡しすることを約束した。
「そろそろ来場者が見えますわ。移動しましょう」
シルヴィア嬢の声がかかるとユリウスが私に近付いてきた。
「ここならば問題ないとは思うが、演奏会場では警戒を怠るな」
「えっと……うん」
家庭教師との楽譜談議に警戒心などどこかに飛んで行ってしまっていた私は、頬を書きながら頷くしかなかった。