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劇場客演とリシャール

 劇場の公演が最終日を迎える今日、私はダヴィデたちと共に久しぶりに救貧院の音楽教室に顔を出した。ジゼルが夏にはヤンクールに行ってしまうため、以降はモニカにも担当してもらうことになっているのだ。


「みんな、上手ですねぇ。『側にいることは』は歌いなれている感じですよね」


 救貧院の子どもたちを前に、モニカが目を丸くする。


「覚えやすいですし、ジゼルが鼻歌で歌っていたら真似するようになってしまいまして……」


 当初の学習計画に『側にいることは』は含まれていなかったせいか、ダヴィデが私を伺うように言った。


「任せているのですから、気にする必要はないのですよ」


 特に問題ないことを伝えるとホッとしたように笑った。


「ベルトランは意外ですね。あまり子どもたちの面倒を見るタイプには見えませんでしたけど」


 数名の子どもたちに囲まれて楽譜の読み方を教えているベルトランは、思っていたよりもずっと馴染んでいるようで安心する。


「ちょっと気取ったところがありますからね。でも根はいい奴なんですよ。モニカやキリルのことも気にかけていますし」

「ええ。それはクリストフからも聞いています」


 ベルトランが事務所の一員になった時、クリストフは反対していたが、なんだかんだ言ってもフォローはしていたようだ。たぶん、ベルトランもクリストフのそういう面を見てよい方向に影響を受けているのだと思う。


「ダヴィデ先生、お医者さんが来たよー」

「ダヴィデ先生が好きなおねえさんも一緒だよ!」


 子どもたちの声で入り口付近を見れば、ちょっと草臥れた感じの服装をした三十歳前後の男性と、質素ながらも小奇麗な服装の女性がいた。二人は顔立ちがよく似ており、言われるまでもなく血縁であることが知れる。


「ダヴィデが好きなお姉さん、と聞こえたような気がしますが、どういうことでしょうね?」

「いやあ……あはは……」


 ベルトランに引き続き、私が知らないところで恋の花が咲いていたらしい。ちらりと横を見れば、頬を染めたダヴィデが苦笑いしていた。


「ゲゼル先生、初めまして。ミヤハラと申します。侍従長から話は伺っております」

「渡り人様ですね。ヨハネス・ゲゼルです。よろしく」


 あまり口を動かさずにボソボソと話すゲゼルは、侍従長の手配で毎月救貧院に来てくれるようになったお医者様見習いだ。アカデミーに在学中で医学を学んでいると聞いている。


「こちらは診察の手伝いをしている妹のカタリーナです」

「はじめまして」


 言葉少なに挨拶をするカタリーナは、ニコリともしない硬い表情だ。


「カタリーナさん、ひと月ぶりですね。今日も素敵な髪形です」

「後ろで括っているだけですが」


 ええと、うん。まだダヴィデの恋は花が咲いていないっぽいことが、よくわかるやり取りだった。


「診察用に部屋を借りておりますので、順番にそちらに行かせますね」


 ダヴィデがめげずにカタリーナに笑いかける。


「愛想のない妹ですみません。もう二十歳になるというのに浮いた話も無く、私も困っているのです」

「カタリーナさんはゲゼル先生が診察の手ほどきを?」

「いえ、うちは父も医師の端くれでして。妹は普段は父がやっている診療所を手伝っているのです」


 診察の様子を見学させてもらえるということで着いて行くとゲゼルが話しかけてきた。妹と同様に無口なのかと思いきや、意外と話し好きであるらしい。カタリーナは手慣れた様子で準備をしている。


「ああ見えて子ども好きなのです」

「ゲゼル先生から見て子どもたちの様子はどうでしょうか?」

「ここに来るようになった当初よりは、だいぶ良いですね。ミヤハラ様が言ってくださったおかげです」


 去年の冬の直前に救貧院に来た時、咳をしている子どもが多かったことから侍従長に医師を派遣するように頼んだのだが、成果があったようで安心する。


「私は医師ではありませんから適当なことは言えませんが、病が写らないようにするだけでも違うのではないかと思ったのです」

「ええ、適切な判断だと思います。私はアカデミーの勉強もあって月に一度だけですが、カタリーナには時々様子を見に来てもらっています。病人の隔離もそうですが、清潔な状態に保つというような習慣は、なかなか徹底されませんからね」


 勉強もあるのに余計な仕事を増やしてしまったのではないかと心配したが、ゲゼルは特に気にする風でもなく言った。


 それにしても、普段も見に来てもらっていたとは、カタリーナにも感謝しなければならない。


「あの、うちの事務所の者がもし失礼なことをしているようでしたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」


 生真面目そうなカタリーナにダヴィデが無理に言い寄って、彼女が救貧院に顔を出しにくくなっては困るのだ。


「失礼だなんてとんでもない。表情には出しませんが、救貧院に来るのも実は楽しみにしているのですよ」


 そういうゲゼルも表情はあまりない。ひょっとして医師をしているという父君も似たタイプなのだろうか? もしダヴィデの恋が実って彼らの家に挨拶に行くことになったら、こっそり覗いてみたいものだと思った。いや、着いて行くのはさすがに遠慮したいけど。






 ◆






 誤解を恐れずに言えば、私の中のメンデルスゾーンのイメージは金ぴかで華やか。そんな感じだ。


 たぶん、あのファンファーレで始まる結婚行進曲のせいだと思うのだが、どうしてもメンデルスゾーン=派手みたいなイメージが染みついている。さらに言うと、メンデルスゾーンは銀行家の息子だったので、私の中ではお金持ちのお坊ちゃんなイメージなのだ。


 そういう先入観があるせいか、『交響曲イタリア』やピアノ曲の『春の歌』なんかを聞いても派手だなあという感想がまず出てしまうのだが、彼のヴァイオリン協奏曲は冒頭だけ聞くと、そのしっとりした旋律に作曲者の名前を二度見してしまう程に違う印象を持つ。


 もちろんあまりにも有名すぎる曲だし、第三楽章はメンデルスゾーンらしく明るい華やかさがあるため、実際に二度見する人はいないだろうけれど。


 それはさておき、高音の美しい旋律で始まるこのヴァイオリン協奏曲は、アロイスのためにあるのではないかと思う程にはまりにはまった。


 元々アロイスは高音を柔らかく美しく響かせることができるヴァイオリニストだったが、渡り人の世界の曲をたくさん聴いて演奏もしたせいなのか、表現が深まって身を捩るような切なさを感じさせたその演奏は、日に数名の失神者を出すほどだった。


 私はと言えば、前回同様アロイスの音に痺れて心臓がばっくんばっくんしっぱなしだったけど、アロイスが前回よりも冷静だったおかげで袖でべろちゅーされるなんてことはなかった。


 そんなこんなでヴァイオリニストとしての地位を固めたアロイスだったが、私の方は不完全燃焼だ。せっかくのベートーヴェン、せっかくの交響曲が、自分の中で満足のいくものにならなかったのだ。


 聴衆は熱狂していたけれど、私の中にはずっとコレジャナイ感があって、それはやっぱり私の人生経験の貧弱さからくるものなのだろうなと思う。世界を渡ってもベートーヴェンにはかなわないのだ。


「悪い演奏ではありませんでしたが、満点とは言えませんな」


 最終日の演奏後、楽屋に顔を出したフォルカーが言う。


「そうですね。実はゲネプロの時からどう表現したらよいのか、迷うというか、わからなくなるところがありました」

「ふむ……私が聞いた限りは解釈が甘いと感じたのは第二楽章の葬送行進曲ですな」


 私が迷ったのもフォルカーの指摘した第二楽章だ。人の死に触れたことのない自分が演奏するのは早かったのかもしれない。


「しかし、あなたはまだお若い。何度でも挑戦したらよろしいのです」


 フォルカーは珍しく私を慰めて帰っていった。せっかくなのでモニカと親子水入らずの時間をと言ったのだが、固辞されてしまった。


「終わったのなら帰るぞ」


 フォルカーがいる間もずっと楽屋から出て行かなかったラウロが言う。今日はラウロがずっと付き添っている。演奏中も袖でじっとしていたのは、ユリウスにゲロルトのことを報告したからだろう。


 ゲロルトはあの後、私がお茶のおかわりをもらいに行っている隙に姿を消した。引き留めたとはいえ拘束するつもりも警官に引き渡すつもりもなかった私は、実はちょっとだけ安心した。


 ゲロルトが去ったテーブルの上には美しい赤い羽根があった。その羽根は中指くらいのサイズで、根元の方がピンク色に近い赤で先にいくに従って朱に近い赤になっていた。


 その羽根がどういう意味を持つのかはわからなかったが、たぶんゲロルトのものなのだろうと判断した私はそれをネタ帳に挟んで巾着リュックに入れてある。


「ラウロは明日帰るんでしたっけ?」

「いや、俺はアンタと一緒に帰る。エドは明日帰るが」


 ラウロは今回の劇場公演の護衛として最初から着いて来たが、エドは救貧院の音楽教室のためにダヴィデたちを王都まで連れて来てくれたのだ。こういう時、馬車を買って良かったなと思う。


 ちなみにアロイスはダヴィデたちと帰るが、私は1日遅れて帰ることになっている。何故かはわからないけれど、ユリウスはたぶんゲロルトを警戒しているのだろう。護衛対象が多いよりも少ない方がいいとか、そんな感じではないかと思う。


「ダヴィデたちもそろそろ支部に帰ったでしょうか?」

「さあな。俺はずっと楽屋にいたからわからん」


 それもそうかと出入口に向かえば、件のエドが誰かと話していた。相手は壁の影になって見えなかったが、私たちが近づくと顔を出した。


「リシャールさん、また聴きにいらしてたんですか?」

「いやあ、なんや気に入ってもうて」


 あまりいい演奏じゃなくて申し訳なかったけれど、気に入ってくれたのならまあいいかと思い直す。


「今日はうちの従業員も連れて来たんですわ」


 リシャールに促されて顔を出したのは、アルフォードと大して変わらない年頃の少年だった。


「オーブリーです。素晴らしい演奏でした!」


 べっ甲飴みたいな瞳を輝かせ、子どもらしく興奮を隠さずに言う少年に思わず笑みが零れる。


「気に入っていただけたようで、嬉しいですね」


 しかしこんな子どもを連れ歩くとは、ヤンクールは教育制度がノイマールグントとは違うのだろうか。


「こいつは特別出来がええんですわ。わざわざ学校に行かんでも、その辺の大人よりも賢いんで、私もよう言い負かされて困るぐらいですわ」


 もしかすると、店をほったらかしにしがちなリシャールのお目付け役なのかもしれないなと私は納得した。


「ところで、リシャールさんはいつまでこちらに?」

「しばらくは王都におりますけど、8月の発表会は見に行こう思うてます」


 そんなに長く店を留守にして大丈夫なのかと思わないでもなかったけれど、せっかく半月かけて来たのだろうし、ゆっくりしていくつもりなのだろう。


「おい、行くぞ」

「ええ。ではリシャールさん、オーブリー君、私はこれで」


 ラウロに急かされてふたりに挨拶をする。心なしかラウロがぴりぴりしているように感じられた。


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