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クロイツェル

 その演奏をアロイスは北館の自室で聞いていた。


 ヴァイオリンとピアノが寄り添うような、それでいて競い合うような演奏。それを聞いていると演奏者たちがどんな表情で演奏しているのか、見ていなくてもわかるような気がした。


 アマネが倒れた時にクリストフに言われたことを、アロイスはずっと考えて続けてきた。


 劇場で初めて彼女を見た時は、確かにかつての自分と妻を思った。王宮で見た時もそうだった。顔色が悪い彼女を心配するユリウスに自分を重ねた。


 音を褒められた時、彼女の指揮する姿からその音楽に対する真摯な姿勢を見た時、いずれも感じたのは尊敬だったと思う。彼女の楽器でありたいと感じたのもこの頃だった。


 懐古と敬愛。この時点でおそらく自分の中には彼女に対する二つの想いが生じたのだろう。


 さらにもう一つ加わるきっかけとなったのは、皮肉にも自分が関わった事件だった。ゲロルトの元で自分が抱き上げた時、恐怖と不安に揺らいだ瞳は今でも覚えている。音楽に関わっている時の彼女を女神のように感じていた自分にしてみれば、彼女のその人間らしい感情はとても意外だったのだ。


 姿を変えた自分を迎え入れた時、慈善演奏会の練習で触れた時、不安定で人間らしい彼女は容易に手に入れられそうな気がした。その時は恋をしているという意識はなかったはずで、どちらかと言えば揶揄いの対象であったはずだったが、今にして思えば様々な表情を見たいと思っていたのかもしれない。


 思わず手を伸ばしてしまったのは慈善演奏会の時だ。あれはユリウスに煽られたということもあったが、叶うならば手に入れたいと思ったのは確かだ。


 三種類の想いはフルーテガルトに来てからも、かわるがわる沸き上がり、そして少しずつ混ざっていった。純粋な気持ちで彼女に恋をしているのかと聞かれれば、否と答えるしかないが、だからと言ってそれが悪いことなのかと開き直るような気持ちもある。


 問題は今後どのように行動すべきかということだった。


 最も強い気持ちは二つ目だ。ずっと彼女の楽器として、彼女の音楽を体現したい。その気持ちは他の二つよりもずっと強い。


 だが、それを貫きたいと思えば、少なくとも三つ目は捨てなければならないだろう。何故なら彼女には想い人がいる。ずっと彼女の側で楽器として奏でられるためには、彼女が不本意だと感じる行動は慎まなければならない。なのに自分では抑えられないのだから困る。


 思い悩んだアロイスは酒を持ってレイモンを訪ねた。相談しようと思ったわけではない。ただ、アマネの想い人であるユリウスに忌避感を持っていない自分が不思議で、なんとなく彼をよく知る人物と話をしてみたくなったのだ。


「ユリウスやお前がアマネに惹かれるのは、仕方がないことなんだろうな」


 酒瓶を手にしたアロイスを前に、レイモンはそんな風に言って軽くため息を吐いた。


「お前は大切な者を理不尽に失ったわけだし、種類は違えどユリウスも理不尽には付きまとわれている。けど、そういう理不尽を一時でも忘れさせてくれるのがアマネの音楽なんだろうよ」


 彼女の音楽を聴いている時、そして演奏している時をアロイスは思い起こす。確かにその一時は音楽だけに酔いしれることが出来た。


「アマネだって似たようなもんだと思うけどな。理不尽にも家族には二度と会えねえ地に飛ばされちまったわけだ。だからな、お前が何をしようと戸惑いはしても遠ざけたりはしねえと思う」

「……あなたは応援しないと言っていたのでは?」

「まあな。それは変わらねえけど、お前はなんだかんだで無理強いしねえからな。そういうのをカッコわりぃって思ってそうだ」


 豪快に酒を煽り、グラスを叩きつけるように置いたレイモンは続けて言った。


「俺が心配なのはお前よりもむしろクリストフだな! あいつが理不尽な思いをしたかどうかは知らんが、もしそんな思いを抱えているんなら、アマネに救われたいと思っても不思議じゃねえ。あいつの場合はそれが下半身に直結してるからな!」

「クリストフはアマネさんをそういう対象として見ることはないと言っていましたよ」

「ハッ! どうだかな。自身にそう言い聞かせてるんじゃねえのか? あいつは」


 一応、友人を庇ったアロイスだったが、付き合いの短いレイモンがクリストフの内面を確信していることに驚いた。


 しかし、クリストフのことはともかくとして、なかなか的確なレイモンの言い分は、自分にとってはありがたいものだった。もちろん「安易に手ぇ出すんじゃねえぞ」と釘は刺されたが。


 アロイスが物思いに耽る間も二人の音楽は続いていく。そして第3楽章に入った頃、扉の向こうからカタリと小さな物音が聞こえてきた。


 アロイスは目を伏せて小さく笑う。


 冬の間は同室だったおせっかいな友人がやってきたのだろう。小さくため息を吐いて扉を開けると、バツが悪そうな顔をしたクリストフが立っていた。


 扉を開けたままクリストフを放置して、再び窓の向こうに耳を傾ける。銀色の猫が本館に向かって駆けて行くのが見えた。


 楽しそうに戯れるヴァイオリンとピアノの音色に、静かに入室してきたクリストフが自分と同じように小さく笑う気配がした。


「まいったね。ユリウス殿がこんなに弾けるとは思わなかったよ」


 演奏が終わるとクリストフが肩を竦めて言った。年若い商人が不機嫌な表情を張り付けて演奏している様子を思い浮かべると頬が緩んだ。


「いい演奏だったね」


 クリストフがぽつりと言う。


「そうだな」

「楽しそうだった」

「ああ。そうだな」

「マイスターは泣いてるかもしれないけど」

「フ、そうかもしれないな」


 涙が零れないように、睨みつけるように眉間に皺を寄せて、口をへの字に曲げて。必死に涙を堪える様子が目に浮かぶ。


「君はそれでいいのかい?」

「あの方が喜んでいるなら本望だ」


 妙にすっきりした気分でそう言うと、クリストフは困ったように笑った。


「君はずるいな。君を心配しているうちに引き摺られてしまった僕は置いてけぼりだよ」

「引き摺られた? その話は聞いてないぞ」


 アロイスは苦い表情で友人を見る。レイモンの言ったことが頭を過る。クリストフは婚約者の件で確かに理不尽な経験をしたことがある。


「本気か?」

「どうだろう? 自分でもよくわからないんだよね」

「ならば違うということにしておけ」

「まあ、その方が楽だってわかってるさ。はあ………恋がしたいな」


 クリストフは盛大なため息を吐いた。






 ◆






「指揮棒を持つ右手では常に拍子を刻みます。演奏者への指示は左手で行います」


 タブレットの音源に合わせて、難しい顔をしたモニカが指を振る。


「うーーーっ、難しいですぅ…………」

「最初は右手を意識しましょうか。正しく拍子を刻むことが基本ですから」


 王都へ向かう馬車の中、私はモニカに指揮を教えていた。ガタゴト揺れる馬車の中では指揮棒は危ないので指だけで練習しているのだ。


 指揮者の重要な仕事は楽譜を読み解くことと、たくさんの演奏家たちの音をまとめ上げることだ。つまり本番以外が重要なのだ。


「お前は顔も使っていたではないか」

「ああ、葬儀の時は怖い顔をされていましたね」

「そうだけど、あれは緊張感を思い出させるために……って、2人は黙ってて!」


 馬車の中には余計な茶々を入れる聴衆が2人。言わずもがなユリウスとアロイスだ。


 今回は客演ということもあるが、発表会を控えた今、レッスンを休むわけにはいかないため、私とアロイスだけの出演となるのだ。とはいえ初めての交響曲だ。他のみんなは交代で聞きに来ることになっていた。


「ええと、何の話でしたっけ?」

「演奏者の音をまとめるというお話でした!」

「そう! そうなんです。音をまとめて音楽にする達成感。それこそが指揮者の醍醐味と言えますが、演奏者というのは本来個性的で主張が強い方が多くてですね、まとめるのが本当に大変なんですよ」


 ふむふむと頷くモニカを前に、半分愚痴が混ざった弁を奮う。


「本番が終わった時のお客様の拍手は、醍醐味ではないのでしょうか?」


 モニカのもっともな意見に私はハッとする。


「そうですね……。この世界には録音がないですもんね」


 指揮者の仕事は演奏会だけではない。聴衆の拍手は指揮者にとっては喜ばしいことだが、私がいた世界では、音楽は演奏会以外に使われることも多かった。


「録音って音を記録することですよね? 録音はどんな使われ方をするのですか?」

「向こうの世界では音楽は様々なものに使われていましたね。映画という戯曲みたいなものを映像に記録したもの、テレビも同じような感じですね、あとはゲーム、CM、マーケットの店内、駅のホーム……」


 指折り数えてみると、音楽が聞こえていない時間は少なかったと思う。電話の着信音、保留音、電子機器の通知音、目覚まし時計……。音楽とまではいかなくても、音はいろんな用途があったのだなと気付かされる。


「そんなにたくさんあるのですね」

「ええ。でもその分、簡素化されたような感じもありますね。オーケストラは少なかったですし、音楽だけで身を立てるのは難しいことでしたね」


 日本の音大に進学した友人たちは就職先が無くて困っていたのを思い出す。最終的には自衛隊の音楽隊を目指した者もいた。自衛隊では武器の代わりに楽器が支給されるのだ。


「ふむ。録音は何度も再生できるから、演奏の価値が下がったということか」

「うーん……どうだろう? それもあったと思うけど、たぶんみんながもっと気軽に音楽を楽しめるようになったんだと思うよ。自分で演奏する人も多かったもの」


 自身が演奏する場合、手入れが大変で高価な楽器は敬遠されるものだ。特にバスーンやオーボエなど、中古車が余裕で買えるような楽器を個人で買う人はなかなかいない。それにダブルリード楽器は消耗品であるリードも高いのだ。バスーンのリード1つがクラリネットのリードを1ダース買える値段だったりする。


「はっ! また脱線したっ! もうっ、ユリウス、邪魔しないでってば! ええとそれで、モニカ、質問はありませんか?」

「はいっ! アマネ先生、指揮者に一番重要なのはなんでしょうか?」

「さきほど言った楽譜を読み解くことですね。それと体力!」


 お前がそれを言うのかという顔をユリウスがしたけれど、見なかったことにする。


「体力ですか……?」

「ええ、体力です。ずーっと立ちっぱなしですからね。それに腕も疲れるんですよ。交響曲を1曲振ってみてください。汗だくになりますから」


 指揮者ダイエット。流行らないだろうか? 痩せるのはたぶん腕だけだけど。






 ◆






「そういえば、フィンがお前に会いたがっているらしいぞ」


 王都まであと少しというところでユリウスが言った。


「フィンが? なんの用事だろう?」

「まゆり嬢のことを聞きたいのではないか?」


 あまり関心がなさそうにユリウスが言う。アロイスやモニカの前であまり詳しい話はできないのでぼかした言い方しかできない。


「まゆりさんも客演を聞きに来るし、一緒に行ってみるよ」

「ああ。マリアも一緒に来るのだったな。その日は俺がマリアと共にいよう」


 フライ・ハイムにマリアは連れて行けないのだ。護衛も近くで待っていてもらうしかないが、あの近辺に詳しいまゆりさんが一緒ならたぶん大丈夫だろう。


「フィンのことって、侍従長? それともリーンハルト様?」

「リーンハルト様だ」


 言伝があったとすれば、フライ・ハイムの会員だろうと思って聞いてみる。


「そういえば、リーンハルト様とアンネリーゼ嬢ってご婚約されたんだよね?」

「そのようだな。ああ、シルヴィア嬢か?」

「うん。女子会で話を聞いたんだよ」


 アンネリーゼ嬢はまだ13歳だ。リーンハルト様は確か25歳だから年の差婚というやつだ。


「あのう、アンネリーゼ・バウムガルト様のことですよね?」


 モニカが遠慮がちに、しかし好奇心は隠せないという感じで聞いてきた。


「そうですね。モニカはアンネリーゼ様を知っているんですか?」

「いいえ、一方的に知っているだけなんです。同い年ですし」


 モニカの言葉に目を瞬く。


「そっか! モニカとアンネリーゼ嬢って同い年なんですね」

「はい。マリアもですよ」

「うわあ、そうですね! マリアもいつかは恋をするとは思っていましたけど、あっという間に結婚しちゃったり……」


 どさり、と音がする方に視線をやれば、手にしていた本を拾い上げるユリウスの姿が見えた。居眠りでもしてたのかな?


「フ……、アマネさん、ユリウス殿の心臓に悪いお話は、その辺りで止めた方がよいですよ」


 アロイスが笑いを堪えるように言った。ユリウスを見ればコメカミがひくひくしている。まあ気持ちはわかるよ。私もショックだし。


「モニカも数年後には結婚しているかもしれませんね」

「私は結婚なんてしません! 私はアマネ先生のように一生独身で通すのです!」

「ええと、私は別に一生独身と決めているわけでは……」


 困り果てる私を見てアロイスが口元を押えた。笑いたければ笑えばいいと思うよ!


「モニカ、そんなことを言ってはフォルカー様が悲しまれるのではないですか?」


 厳格な御父上はもしかすると喜ぶかもしれないけれど。


「でもでもっ、クリストフさんもアロイスさんも、みーんな独身ではありませんか!」


 ほらね。人のことを笑っているからブーメランを食らうんだよ。アロイスはついに声に出して笑いだした。


「くくっ、失礼。モニカ、私は構いませんが、クリストフやエグモント殿の前でそれを言ってはいけませんよ」

「そうなんですか?」

「ええ。食べられてしまいますよ」


 それはどういう意味で食べられちゃうのかな? お姉さんはとっても心配です。しかし、目を見開いて固まっているモニカを見て私も吹き出す。


「ふふっ、そう考えると、アマリア音楽事務所の男性陣ってダメンズばっかりじゃないですか」

「くっ、ははは……ダメンズ、ですか……ふふふ……」

「ダメンズって何ですか? アマネ先生、アロイスさんも、笑ってないで教えて下さいっ!」


 剥れながら私の腕を引っ張ってモニカが聞いてくる。


「ふふふっ、ダンディーなメンズのことですよ。ぶふっ」

「ああ、なるほど! でもどうして笑うんです?」


 首を傾げるモニカがますます可笑しくて笑いが止まらなくなった。


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