歓迎できない来訪者
交響曲の定義はオーケストラによって演奏されること、そして、複数の楽章から構成されている曲であることだ。
交響曲の成立に貢献したのはハイドンとモーツァルトの2人だ。特にハイドンは100曲以上の交響曲を書いており、「交響曲の父」と呼ばれている。
この2人の交響曲は基本的に4楽章で構成されている。第1楽章がソナタ形式、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット、第4楽章がソナタ形式かロンド形式だ。
「緩徐楽章はその曲の中でもゆったりとした楽章のことで、この部分は聴衆側からすると居眠りポイントになりがちです」
「ぐふっ」
キリルが思わずという感じで吹き出し、モニカもくすくす笑っている。調子に乗った私は講釈を垂れ流す。
「ハイドンの交響曲第94番はこの緩徐楽章に工夫があって、最初は静かに始まりますけど途中で突然『ジャン!』と大きな音が鳴ります。これには逸話があって、居眠りしている貴婦人を起こすため、なんて言われてますね」
「くふふっ、それで『驚愕』なんですね!」
朗読劇の練習や客演の楽譜起こしに追われる日々の合間を使い、私はモニカやキリルに交響曲のいろはを教えていた。
「客演で演奏する交響曲は古典派にするのですか?」
「まだ考え中です」
講義が終わった後の雑談タイムで、モニカが尋ねてくる。しかしその質問には曖昧に応えるしかない。
古典派の代表としては、ハイドン、モーツァルト、そして、ベートーヴェンなどが挙げられる。このうち、ベートーヴェンに関してはロマン派の先駆けとも言われており、ハイドンやモーツァルトの曲と聞き比べると明らかに違うのだが、初期の作品には共通点を見出すこともできる。
交響曲の選曲について、私は大いに悩んでいた。
「ベートーヴェンでは駄目なのですか?」
「うっ、やはりそう思いますよね」
一度はベートーヴェンをやるしかないと考えた私だが、どうしても踏ん切りがつかない。自分の経験不足に泣きそうだ。
でも踏ん切りがつかない理由はそれだけじゃないことを私は自覚していた。
ユリウスと約束したクロイツェルだ。この世界で最初にベートーヴェンを演奏する時は、ユリウスと一緒に演奏したい。
私ってばそんな乙女なことを考えているのだから、自分でも呆れてしまう。仕事に私情を挟むなんてとか、兄が聞いたら絶対馬鹿にされるだろうとか、26にもなって甘酸っぱすぎるとか、もろもろを考えるとそんな理由を言えるはずがないわけで。
「もうちょっと考えてみます」
そんな答えで誤魔化している日々だが、そろそろタイムリミットは近い。
「ヴァイオリン協奏曲はどうされるのですか?」
キリルのこの質問なら問題なく答えられる。
「メンデルスゾーンですよ。昨日、楽譜が出来ましたから、2人とも後でクリストフから写譜を頼まれると思います」
「わーい。アロイスさんにぴったりですね!」
大喜びするモニカには私も激しく同意する。ハマりすぎて失神する女性が出るかもしれないと秘かに心配していたりもする。
「モニカー! キリル―! そろそろ始めるばいー」
窓の外からテオの声が聞こえ、2人が慌てて筆記用具を片付け始めた。
モニカは朗読劇ではなんとコッペリアを演じることになった。人形なのでほとんど動かないのだが、いつも元気なモニカにとっては動かないことの方が苦痛であるらしく、練習中にモゾモゾしてはテオに怒られている。
キリルは大道具や小道具を動かす黒子に徹するらしい。舞台で使う道具に関してはラウロが活躍しているのは言うまでもないが、おもしろがった楽器工房の職人たちも手伝ってくれており、かなり本格的なものになっていた。
ホールの椅子は門番の子たちや護衛たちも総動員し、ようやく半分くらい運び終わったところだ。残りは平台や箱足が納入されてから入れることになっていた。
「あちーな。水、もらえるか?」
「ザシャ、お疲れ様」
建物内からホールに向かうというモニカとキリルを見送り、書斎から事務所に降りると、手伝いに来ていたザシャがちょうど入り口の扉を開けたところだった。
「なあ、あの女、どうにかなんねえ?」
「そう言われても……」
劇場にお願いした役者さんは先日フルーテガルト入りしていたが、オマケもくっついてきた。言わずもがなカミラだ。
「北館に泊ってんだろ? 追い出せよ」
「寄宿料もらってるのに、そんなこと出来ないよ」
カミラは6月の劇場オペラでは出番がないらしく、朗読劇までフルーテガルトに滞在するのだという。劇場支配人からは扱き使ってくれて構わないと寄宿料と共に手紙が届いていた。
カミラに関してはほとんどクリストフに任せきりだ。アロイスは相変わらず嫌っていますという態度を崩さないし、ベルトランも相変わらず怒っている。緩衝材になりそうだったダヴィデはエグモントから引き継いだレッスンに救貧院の音楽教室、さらに8月の発表会の練習と大忙しで、カミラに構っている余裕はなかった。
「アイツには? ユリウスには連絡したのか?」
「これから手紙を書こうと思ってるけど」
ユリウスはまだテンブルグだ。交渉が難航していることに加え、9月に新しく開校する中等教育学校の準備を手伝わされているらしい。いつ帰ってくるのかわからなかったこともあり、行き違いにならないよう私から返事は書いていなかったのだが、先日届いた手紙では5月いっぱいはテンブルグにいることになりそうだと書かれていたので返事を書くことにしたのだ。
「あれ? マリア、練習始まるって。さっきモニカとキリルが行ったよ?」
「大変! 急ぐです!」
練習室に籠って『子猫のワルツ』の練習をしていたマリアが戻って来たので教えてあげると、慌てて逆戻りしていった。
カミラのこともそうだがマリアのこともちゃんと考えなければならない。マリアの背中をじっと見送っていると、ザシャに怪訝そうな顔をされた。
◆
「大変申し訳ございませんでした」
その女性を前に、私は深く頭を下げた。
「あなたに謝ってもらってもね。クリストフはどうしたのかしら?」
その女性――カミラは両腕を組んだまま私を斜めに見降ろした。
「謹慎させています」
「こういうのって本人が謝るべきじゃない?」
「私はこの事務所の代表ですので」
事の発端は大したことではない。カミラが手にした自分のリードをクリストフが取り返そうとしたところ、手がぶつかってしまった。そんな接触事故のようなものだ。
驚いたカミラが悲鳴を上げて大げさに手を痛がったことから、他の者の知るところとなり、医者を呼んだりクリストフを謹慎させたりする羽目になったのだった。
「怖かったわ。襲われるかと思ったもの」
「クリストフはそのようなことをする人物ではありませんが、怖い思いをさせてしまったことは謝罪いたします」
「だから、あなたに謝ってもらっても仕方ないって言ってるじゃない!」
押し問答にイライラしているカミラだが、私はそんな彼女のことが不思議でならなかった。カミラにしてみればアマリア音楽事務所の中で一番接点があったのはクリストフだ。というか私が押し付けてしまったわけだが。
そんなクリストフに謝らせなければ気が済まないほどのことがあったとは思えない。一体彼女は何がしたいのだろう。
「カミラさん、私はクリストフを信頼しています。ですがあなたが非礼だと感じたのであれば謝罪することは吝かではありません。なのでこうして時間を割いているわけですが、そもそもあなたは何をしにここにいらっしゃったのでしょう?」
「支配人からの手紙があったでしょう? 読んでいないの?」
「拝見しましたよ。手伝わせるようにと書かれておりましたが、貴女の様子を見る限り、自分が客として扱われるのが当然だと考えているような振る舞いに見えます」
ぶっちゃけカミラは手伝いなど何もしていない。クリストフがいれば付きまとい、いなければ所かまわずアイリッシュハープをつま弾いたり、他の者の練習に乱入したりしている。出された食事は残さず食べるが、片付けはしないし、部屋の掃除をしている様子もない。
「寄宿料を払ったんだもの。客でしょう?」
「寄宿料は従業員も支払っております。貴女からだけいただいているわけではございません」
「ふうん。そういうことを言うの? 朗読劇の演奏会はハープはいらないのかしら?」
そういうことを言うのかとはこちらが言いたいセリフだ。
「演奏して頂ければ嬉しく存じますが、必ずしも必要というわけではございません」
カミラの腕前は大したものだとは思う。だがギードもギードの先輩もいるのだから、いなきゃいなくたっていいのだ。
壁に耳を付けてこっそり聞いているのか、「いいぞ! もっと言ってやれ!」というザシャの声が部屋の外から聞こえてくる。頼むからもうちょっと音量下げて!
「っ、なによ。みんなして私を邪魔者扱いにして……っ」
あーあ。ほらね。泣いちゃったじゃないのさ……。
「せっかく来たのにユリウスはいないし、アロイスは冷たいし、渡り人様だって全然お話ししてくださらないし、こんなのってひどいわ……っ」
「カミラさん、落ち着いて……」
「そもそもユリウスだってひどいわよ! ユニオンの件が片付いたら全然連絡くれなくなっちゃって……っ」
それは私に言われても困る。本人に言っていただきたい。
だがまあ、だいたいわかった。カミラがごねているのは要は八つ当たりであるらしい。
「カミラさん、私も出て行けと言っているわけではありません。お給金をお支払いしているわけでもありませんので、無理に手伝っていただかなくても構いません。ですが少しだけ周りの者とも協力していただけるとありがたいです」
「協力って……?」
「食事の片付けとか掃除とかですね。あなたも王都ではご自分でされるのでしょう? それと練習中は声をかけないとか、そういったことだけで構わないのですよ?」
カミラが潤んだ眼をしばたく。はらりはらりと涙が零れるのを見て、綺麗な泣き顔だなと思う。私みたいに鼻水とか出ないし、羨ましい限りだ。
「クリストフのことも悪気があったわけではないと、本当はわかっていらっしゃいますよね?」
唇を噛んで目を伏せるカミラに優しく語り掛ければコクリと頷いた。「許すんじゃねえぞ!」と部屋の外から聞こえるけれど無視だ無視。
「カミラさん、クリストフを許していただけますか?」
「…………わ、私も、勝手に触っちゃったから、悪かったし……すみませんでした」
「クリストフにも伝えておきますから、後で仲直りしてあげてくださいね」
「ええ。わかりました」
なんだ。素直じゃないか。私は彼女の手を取り自室に戻るよう促した。
「あれを御すとはさすがですね」
「すごいね、マイスター。最初から君が彼女の相手をした方が良かったかもね」
カミラが出て行くと、別の扉からクリストフとアロイスが入って来た。ザシャは怒ったまま事務所に降りていったらしい。
「クリストフに丸投げしていたことは謝ります。でも、あなたらしくないですよ? 一体どうしたのです?」
接触事故だったとしても、フォローできないクリストフではないと思う。
「あなたからいただいたリードだったのですよ」
「アロイスっ、……君、言わないでくれよ」
アロイスの言葉にクリストフが慌てるが、やがて諦めたかのように項垂れた。
「ええと、カミラさんから取り返したリードのことですか?」
「協奏曲の演奏会が終わってから、ご褒美に頂いたと聞いていますよ」
「ああ、もうっ、そんなペラペラとバラさないでくれよ!」
前にカミラを押し付けてしまったご褒美をあげるという話をして、クリストフはリードが欲しいと言ったため、私が作ったものをひとつ渡したのを思い出す。クリストフは自分で削っているようだったから、適当に削ってしまったのだけど気に入ってくれていたようだ。
「あなたから頂いたものだからと、チェーンを付けて首から下げているのですよ」
「本当にもう勘弁してくれ……」
それはなんというか……まあ、大切にしてくれているなら嬉しいよね。私に欲情しないと言い切ったクリストフなら疚しい気持ちがあるわけではないだろうし。
私は頭を抱えているクリストフの顔を覗き込んで目線を合わせた。目をじっと見ると照れながらも真剣な色を帯びている。
「…………僕は……君の敬語が気に入っているんだ」
端から聞いたら何のことだかわからないだろうけれど、クリストフもたぶん私と同じように今の距離感に満足しているのだろう。
「私もクリストフが『マイスター』って呼んでくれるの、嬉しいです」
ちょっと耳を赤くして小さく微笑むクリストフに、私も笑みを返した。