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ジゼルのお願い

 5月に入ってすぐ、私はヴィル様のレッスンを行った。


 ヴァノーネの王太子であるヴィル様にレッスンするなんて私は嫌だったのだが、他の講師たちが嫌がるのも無理はない。


 ヴィル様は横暴なことは言わないし懐っこい性格でもあるので、普通にレッスンする分には問題ないのだが、ヴァノーネは海に面していることもあって貿易大国だ。本来ならばこんなちっちゃな街でレッスンを受けるような立場の方ではないのだ。


「ヴィル様、お上手じゃないですか……」

「嗜み程度ですよ。それよりも私はアマネ様の演奏が聴きたいなあ」

「それはレッスンとは言いません!」


 もしかしたら嫌がった面々はこうなることを予想していたのかもしれない。特にヴァノーネ出身のダヴィデは何をされても首を縦には振りませんとまで言っていた。きっとヴィル様の腕前や性格を把握していたに違いない。


「さすがに朗読劇まで滞在することはできないので、せめて渡り人の演奏を聞いて帰りたいのです」


 ワンコのようにつぶらな瞳でお願いされれば、私も頷くしかない。自分のチョロさに泣きたくなる。


 そんな私が演奏したのはドビュッシーのベルガマスク組曲『月の光』だ。月の光を表現した音楽は数多くあるが、中でもこの曲は私の一押しだ。幻想的で美しく、それでいてどこか切なくて懐かしい。


 ドビュッシーの『月の光』は当然ながら『ロマンス作品集』に入れてある。ヴァノーネでも音楽のプロポーズを流行らせるといいよという気持ちを込めてヴィル様への布教活動をしたのだから、チョロいだけではないのだと主張したい。


「いやあ、ええですなあ。私もピアノを習うてみたくなりましたわ」


 フルーテガルトの滞在中にヴィル様とすっかり仲良くなったリシャールは、レッスンを見学していた。詳しくは聞いていないのだが、こうして気安くしているところを見ると、おそらくヴィル様は自分の地位についてリシャールには言っていないのだと思う。


「リシャールさんはいつまでこちらに?」

「そろそろお暇しよ思うてますよ。劇場の客演に間に合うよう戻ってきますけど」

「ええと、リシャールさんはヤンクールの南側にお店があるのですよね? 行き来にどのくらいかかるんです?」

「片道やと半月くらいですわ」


 往復1か月。客演までは2か月あるから間に合うのだろうけれど、そんなに時間をかけてまで聞きたいなんて随分熱心だと思う。


「リシャールが羨ましいです。私は国に戻ればしばらくは出歩けませんから」

「そうや。アマネさん、演奏旅行はせえへんのですか?」

「演奏旅行ですか。行ってみたいものですが、難しいでしょうね」


 音楽を伝えたい私にとっては魅力的な提案だったが、この世界の交通事情を思えば何か月も留守にしなければならないだろう。冬に移動はできないのだし、春から秋にかけて何か月も留守にすれば演奏会が出来なくなる。


「いずれヴァノーネにも来ていただきたいですが、わがままは言えませんね」


 私の心情を察してくれたのかヴィル様が肩を竦めた。






 ◆






「むぅーっ、難しいよー」


 ヴィル様のレッスンが終わって事務所に戻ると、ジゼルが紙を前に苦悩していた。


「ふふっ、それじゃあ鷲じゃなくてヒヨコに見えるわよ」

「うわーん! 描けないよー!」


 ジゼルが描きたいのは、どうやらマーリッツの紋章に使われている鷲であるらしい。


「マーリッツの紋章って……あのボディビルダーみたいなポーズの?」

「ふふふっ、よく見ると変なポーズだったわよね。それで印象に残っちゃったんじゃないかしら?」


 マーリッツ辺境伯のガルブレン様は協奏曲の演奏会にいらしていたのだが、その際に見た紋章の鷲がジゼルの夢に頻出するのだという。


 マーリッツの紋章に使われている鷲は、両腕が力こぶを作るような形で上向いていて、足はそれぞれ王冠と剣を持っているものだった。遠目に見ると強そうでかっこいいのだが、近くでじっくり見ると中途半端にバンザイしながら大の字になっているポーズがシュールというか、失礼ながら変な笑いが込み上げてしまうのだ。


「こういうのはねー、描いたら出て来なくなるんだよー」


 とはジゼルの弁。どういう理屈なのかはわからない。


「目をもっと大きくして吊り上げたらいいんじゃない?」

「ぶはっ、悪そうなヒヨコになった!」

「ひどいよーっ」


 3人で騒いでいると、頬を紅潮させたマリアが数通の封書を大事そうに抱えて事務所に入ってきた。


「アマネさん、手紙、来てたです」


 受け取ったそれはユリウスからだった。


「ふふ、私にも、来たです。カッサンドラ先生、褒めてたって」

「良かったね! マリアはほんと頑張ってたもんね」


 ユリウスから聞かされたマリアをカッサンドラ先生に預けるという話を思い出すが、顔には出さないように気を付ける。もしかすると手渡された手紙にはそのことについて書かれているのかもしれない。


「書斎で読んでくるね」


 内心をひた隠しにして書斎へ行くと、猫型アルフォードがソファで寝ていた。アルフォードは人型でも猫型でも前と変わらず、夜に起きて昼に寝ているのだ。


 執務机に向かって手紙を開封する。


 そこには案の定マリアの件が書かれていた。


 手紙によれば、マリアを取り込もうと画策する貴族がかなりいるらしい。渡り人である私が引き取り、最近よく聞くヴェッセル商会とも懇意にしている少女だ。その実、縁談が随分来ていてパパさんや王都のマルセルが対応に追われているようだ。


 そういえばクレーメンス様も食事会の時に言っていた。ヴェッセル商会に娘がいれば簡単なのだと。あの時はギルベルト様との縁談の話だったし、私が女性であることを知るアーレルスマイアー侯爵との会話だったため自分のことかとヒヤヒヤしたが、よくよく考えてみればマリアだって該当するのだ。


 手紙に書かれていたユリウスの考えでは、様々な思惑から逃れるためにカッサンドラ先生の元は最善であるらしい。カッサンドラ先生はご実家がヴァノーネの貴族で、テンブルグの重鎮に請われ嫁いできたのだという。


 彼女の元であれば、ヴァノーネとテンブルグの両方の庇護が得られるし、テンブルグにはユニオンもいないから狙われる危険もない。さらに音楽の教育も受けられて一石三鳥と言えた。


「でもマリアがいなくなっちゃうなんて…………寂しいよ……」


 わかっている。寂しいと思うのは私の我儘だ。


 ユリウスに最初に打診された時はいきなりすぎて頭に血が上ったけれど、こうして説明されればよくわかる。マリアにとってはテンブルグでカッサンドラ先生の指導を受けた方がよいのだ。


 それでもすぐには頷けない。


 手紙を前に涙する私の膝で、いつの間にかアルフォードが丸くなっていた。






 ◆






「お願いっ、アマネさんっ! 一生のお願いだからーーーっ」


 ユリウスの手紙で落ち込んでいた私の元に、賑やかな来訪者たちがやって来た。


「僕からもお願いするたい」

「そう言われても……」

「なんとか、この通りっ」

「アマネさんーーーっ」


 テオとジゼルともう1人だ。


「ほらー、エドからもお願いしてー!」

「いや、俺は別にやらないならやらないで問題ないぞ」

「そげんこと言わんと!」


 来月に予定している朗読劇について、テオとジゼルがどうしても変えたい部分があるという。


「もともと第2幕は全部演奏する予定でしたから、楽譜に変更はありませんけど……」

「どげんしてもコッぺリウスが見つからん」

「けどフランツはエドがやってくれるって言ってくれたんだよ」

「まあ踊ったりするんでなければ構わんが」


 当初の予定では、第2幕は冒頭のスワニルダと友人たちが屋敷に忍び込むシーンを舞台で演じ、それ以外は2曲ほどジゼルのダンスを入れることになっていた。テオとジゼルも街の人たちに声を掛け、第2幕に登場する人形たちや主役のスワニルダの友だちを演じてもらうという了承を取っていた。


 しかし、どうしても第2幕全体を演じたいのだという。そこでコッぺリウス役とフランツ役も探したらしいのだが、これが難題だった。


 フランツはスワニルダの恋人役で、第1幕や第3幕ではダンスがあるが、第2幕では酔っ払ってほとんど寝ている役だ。とはいえ酔っ払いに至るまでと酔いが醒めてからは多少の演技はあるが、エドがそれを承知しているのかどうかはともかく、やってくれるという返事はもぎとったようだ。


 問題はコッぺリウスだ。コッぺリウスはダンスはないが、かなり重要な役回りで演技力が必要なのだ。


 ちなみに演出によってコッぺリウスの最後はだいぶ変わる。悪者としてざまぁ展開もあれば、悲しみに暮れて終わる場合も、大団円で終わる場合もある。


「予算が取れるかどうかわかりません」

「第3幕の衣装を我慢するから! あとコッペリアの人形も自分で作るから! お願いーーーっ」

「今からお願いしてもスケジュールが空いているかわかりませんよ」

「確認するだけでも構わんたい」


 テオとジゼルはコッぺリウス役を劇場の役者に依頼してほしいということで、私の所に頼みに来たのだった。


 売れっ子の役者は1年でだいたい1000フロルの収入があると聞いたことがある。1回の公演でいくらなのかは聞いてみないとわからないが、300フロルくらいではないかと踏んでいる。


 協奏曲の演奏会でそれなりに収益があったので、予算が足りないわけではない。本当に頼むのであれば、私もまゆりさんにお願いするつもりはあるのだが、問題は役者のスケジュールが空いているかどうかだ。


「頼むだけ頼んでみたらどうだ? この2人も努力している」


 エドがそんな風に褒めるとは珍しいけれど、随分と事務所に馴染んだのだなと私は嬉しくなる。


「練習期間はどのくらい必要ですか? こちらにいつ来てもらえばいいのかを明確にしてください」

「早ければ早いほど!」

「ジゼル、無理言うたらいけん。劇場は月初めにオペラがあるけん、5月中の空いている時に1、2週間来てもろうて、あとは演奏家しゃんたちと同じでよか」


 テオの案が現実的だろうと考える。


「劇場の支配人に打診してみますが、次からはもっと早く言わないといけませんよ」

「ごめんなさいぃぃ……」

「すまんやった……僕がもっと早う台本ば完成させとりゃ良かった」


 朗読劇は初めての試みだし、テオはとても忙しかったのだから仕方がないと思う。けれど一応釘を刺してまゆりさんにお願いし、費用を捻出してもらうことになった。


「ただし、第3幕の衣装は諦めるのよ」

「3幕は結婚式のシーンですからね。省いてしまってもよいのでは?」

「うぅっ、わかった……」


 ジゼルはとても残念そうだったが、結婚式のシーンなのに相手役であるエドは踊るなんて無理だと言うのだから諦めてもらうしかない。


 役者については劇場に予め予算の上限を伝えて問い合わせたところ、売れっ子ではないがベテランの役者を1人出せるという返事があった。コッぺリウスはあやしいおじさんという役どころなので、別に顔にはこだわらないのだから、演技力さえあれば売れっ子でなくても構わないということで依頼することになった。


 朗読劇まであと1か月半。なんだかんだ言って、私も公演が楽しみなのだった。


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