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ヤンクールの商人

「いやあ、ホンマに驚いたわ。突然、湖の中から人が浮かんできて。腰抜かしてもうたわ」


 その男はリシャールと名乗った。リシャールは月明かりに誘われて湖畔を散歩していたという。風は少し強かったが、湖は波も立たずに静まり返っていて、不思議に思ったリシャールが中を覗き込んだところ、水中に明らかに自分ではない人の顔が見えてひっくり返ったらしい。


 その顔が水面に浮かびあがり、「助けて」という声を聞いたところで我に返り、慌てて引き上げたそうだ。


「なんや2人おったのもびっくりやったけど、どっちも小さい子ぉで助かったわ。大人やったら引き上げられへんかった」


 エドとアロイスによって保護または捕獲されたリシャールに、着替えを与えたのはクリストフだ。リシャールは引き上げられた2人の介抱中、ずっと放置されていたのだ。


「それにしても何故フルーテガルトに?」


 クリストフが不審を滲ませて男に問う。


「いやあ、即位式の後はヤンクールに帰るつもりやったんですけどな、なんやおもろいイベントがあるて聞いて、ちょっと寄り道したろ思うて」


 リシャールは王宮で迷っていた商人で、クリストフが出口まで案内した人物だった。


 演奏会の打ち上げでいい感じに酒が入ったクリストフは、寝入り端をエドにたたき起こされた。


 アマネがエルヴェ湖に落ちたと聞いて慌てて部屋に駆け付けると、アマネの手を握って項垂れるユリウスと、感情が削げ落ちた目でアマネを見つめるアロイスがいて、まさかと一瞬気が遠くなった。


「んん゛……っ、……あれ? ここ……どこ……?」


 隣のベッドに寝ていた子どもが声を上げ、ハッとしたように周りを見回す。そしてアマネを見つけたとたんに飛び乗ったのを見て、クリストフは目を剥いた。


「ちょっと、キミっ!」

「おねえさん! おねえさんっ!! しっかりして……っ」


 必死の形相で縋りつく子どもに胸が痛み、手を出しあぐねていたところ、唸り声が聞こえた。


「うぅ…………っ」

「はっ! 僕、猫じゃないんだった!」


 一瞬、クリストフには何が起こったのか理解できなかった。アマネの上に乗っていた子どもの姿があっという間に溶けて、気が付けば見覚えのある銀色の猫になっていたのだ。


 目を見開いて固まったクリストフだったが、水を滴らせたリシャールがくしゃみをしたことで我に返り、今に至る。


 唸ったアマネはまだ目覚めていない。苦しそうな呼吸音が聞こえてくるが、大の男が2人も付いているのだ。聞けば医者は手配済みだというし、その男の面倒を見られそうな者は見渡したところ誰もいなかったのだ。


「2人を助けてくれたことは礼を言うよ。だけど、こんな夜更けにあんなところにいたことは、はっきり言って不審だ」

「そういわれましてもなあ。気まぐれですわ」

「周りには誰もいなかったんだろう?」

「そうですけど、茂みの中とかにいたらわからしまへんで。風が強うて音がわからんかったし」


 何度目かのやり取りが繰り返され、クリストフはため息を吐いた。ユリウスに相談しなければリシャールを解放できない。


 気を失ったアマネを引き上げて抱えたということは、性別がバレている可能性がある。それにアルフォードが猫の姿に変わったところも、「おねえさん」と呼んでいたところもリシャールは見ているのだ。


 リシャールにその部屋を使うように言い残して退室すると、廊下にラウロがいた。ラウロは自分と同じように起こされて医者を呼びに行っていたのだ。


「医師は?」

「まだ診察中だ」

「そう……エドはどうしたんだい?」

「東門の詰め所に行った。門兵が眠っていたらしい。何かの薬を仕込まれたのではないかと」


 穏やかじゃない話に眉を顰めたクリストフは、リシャールをラウロに任せて歩き出す。ラウロの話も含めて相談しなければならない。切れ者の男が我に返ってくれていることを祈りながら主の部屋へ向かい、クリストフは愕然とした。


「は? 帰った?」

「ああ」


 クリストフが相談したかった相手であるユリウスは、すでに城を後にしていた。ユリウスがいたはずの場所にはアロイスがいて、眠り人をじっと見つめ、その手を握りしめている。


「……猫君は?」

「いなくなった」


 クリストフは眉を顰める。視線も寄越さず、抑揚のない声で言うアロイスが、以前見た光景と重なって目を伏せた。


「医者はなんて?」

「……朝にまた来ると」


 最低限の灯りでは顔色までわからないが、アマネは苦しそうに浅い息を繰り返している。


「…………目を覚まさないんだ」

「アロイス」

「もしかしたらこのまま……」

「っ、アロイス!」


 クリストフに肩を掴まれたアロイスは、たった今、目が覚めたというように、顔を上げて瞬きを繰り返した。


「あ……ああ。……すまない」

「君は眠った方がいい。ここは僕に任せて休みなよ」

「問題ない。悪いが1人にしてくれ」

「ダメだ。君が休まないなら僕もここにいるよ」


 今のアロイスを一人にしてはダメだとクリストフは確信した。


「演奏後にも言ったけれど、マイスターはフローラではないよ」

「……そうだな」


 クリストフは友人の背中をじっと見つめる。アマネに会ってアロイスは変わった。恋をしたのだと思っていたが、自分の勘違いだったのだろうかとクリストフはため息を吐きたくなった。


「重ねているつもりはなかったが……ユリウス殿とお二人でいる時は、かつての自分とフローラを見ていたのかもしれない」


 アマネをじっと見つめたまま、アロイスが言う。


 クリストフの記憶にあるフローラは、確かにアマネとは似ていない。だが、アロイスの言う通り、ユリウスと共にいるアマネはどことなくフローラを彷彿させた。


「恋ではなかったと? それとも叶わないと感じたから重ねたのかい?」

「……どうなのだろうな……だが、この方の楽器でありたいという願いは、フローラには感じたことがないものだ」


 仕方がないことなのかもしれないなと、クリストフはついにため息を吐く。アロイスとフローラが共にいた時間は長いと聞いている。どうしたって重ねてしまうことはあるのだろう。己の心を制御するのは難しいのだ。


 心とは理解しがたいものだ、とカスパルのようなことを考えている自分に気付き、クリストフはどうせなら彼を起こして連れてくればよかったと肩を竦める。無意識に入り口に目を向けると、扉が音もなく開いた。


「君は……」

「失礼するよ」


 男はクリストフを一瞥して寝台に歩み寄った。


「触れるなっ」

「ちょっと君!」


 クリストフの制止よりも早く、アロイスが鋭い声を上げる。


 その男――宮廷道化師は躊躇わずに寝台に乗り上げ、アマネの寝衣のボタンを外しにかかった。


「やめろっ!」


 アロイスが道化師の腕を掴む。


「謝罪なら後でいくらでもするから、黙っていてくれないか」


 道化師は掴まれていない方の手を休めずにボタンを外していく。


「やっぱり……加護も無しに落ちたのか」


 上から3つのボタンを外して胸元を確認した道化師は、アロイスに片腕を掴まれたまま、もう片方の腕をアマネの唇に近付けた。制止する暇もなく人差し指が口に突っ込まれる。目を見張るクリストフが、止めさせなければと動き出そうとした時、眠っていたアマネが身動いだ。


「ん……っ、んくっ……、んん……っ」


 何かを嚥下するように喉を鳴らしているアマネの目は未だ開かない。咽ないところを見ると、少しずつ何かを飲ませているようだ。口内をまさぐられていることは明らかなのに、クリストフは何故か淫靡さよりも神聖さを感じた。


「ドロフェイ、持ってきたよ」


 子どもの声に我に返る。いつの間に戻って来たのか、寝台の横には銀色の髪を持つ子どもが小さな瓶を持って立っていた。


 ようやく顔を上げた道化師はその瓶を受け取るとアロイスに手渡す。


「目が覚めたら舐めさせるといい。指先ですくって舌に乗せる程度でいいから」


 道化師の腕を解放したアロイスが瓶を受け取る。アマネの様子を見ると、呼吸は落ち着きを取り戻し、深く眠っているように見えた。


「さて、謝罪するのだったかな」


 道化師は悪びれなくそう言いながら寝台から降りる。


「…………ユリウス殿からおおよその経緯は聞いている」

「彼女を送り届けなかったことは僕にも非がある。申し訳なかった」


 いつも通りの飄々とした態度の道化師は、クリストフからすれば気になるところは特になかったが、アロイスは苦いものを飲み込んだような表情をしていた。


「何故ここに?」

「その娘の気配が戻ったから静観するつもりだったけれど、猫が呼びに来たから、ね」


 道化師以外の者は知る由もなかったが、エルヴェ湖の異変に気が付いた道化師が湖に姿を現したのは、アマネとアルフォードがリシャールによって引き上げられている時だった。


「エルヴェ湖に僅かに毒があるのは知ってるかい? 結晶を持っていれば問題ないと思ったのだけれど」


 道化師が示唆するのは水の加護を嵌めこんだロケットのことだ。クリストフには何のことだかわからなかったが、アロイスは理解しているようだった。


「毒とは?」

「常用しなければ体が重くなる程度だよ。この街の者なら知っているはずさ。けれどその娘は渡り人だろう? この世界にまだ体が馴染みきっていないのさ。この世界で採れた物を食べているうちに馴染むはずなのだけれど」


 エルヴィン陛下との今日の食事会でも、アマネが食べた量は少なかったことから、普段も食が細いのだろうと道化師は考えたらしい。


「この瓶は?」

「その娘がナイトにあげた物さ」


 アロイスの問いに道化師は律儀に応える。アマネがユリウスに渡した物なら無害と判断して良いだろうと、2人の会話を聞いていたクリストフは思った。


「僕がここに来たことは外では言わない方が身のためだ。演奏会の直後にこんな騒ぎがあったことは知られない方が良いだろう?」


 道化師はそう言ってクリストフにも視線を向ける。


「リシャールという名前に聞き覚えはないかい?」


 気が付けばクリストフは道化師に問いかけていた。何故この男に問いかけたのか、自身にもよくわからない。


「いいや。知らない名だ。その人物がどうかしたのかい?」

「彼女を助けた者だよ。解放していいのか、ユリウス殿に聞こうと思っていたんだけど、帰ってしまったから」


 言い訳がましくクリストフが言うと、道化師は意外にも食い付いた。


「その男が突き落としたと考えているなら、それはないだろう。そうだとしたら、わざわざ助けたりはしないだろうから」


 道化師はさも当然であるかのように言う。


「まあ、確かに。もう一つ、懸念していることがあってね」

「その娘の性別のことなら、口止めしておいた方が良いだろう、ね」


 アマネは簡単に考えているようだし、おもしろそうだから放っておくつもりだった道化師だが、今回のことに関しては多少反省していた。


「さて、僕はそろそろ失礼するよ。ナイトが動いているから朝には犯人が捕まるだろう」


 そう言うと、道化師は芝居じみた礼をして出ていった。


 閉められた扉から視線を外し、クリストフはアルフォードに目を向ける。


「君がアルプだということはユリウス殿から聞いていたけど、人型になれるとは知らなかったよ。それに彼――道化師のことは怖がっているって聞いていたけど?」

「まあね。でも、おねえさんのことはきっと助けてくれるからって、おにいさんが言ってたから」


 確かに道化師は、王宮でもアマネを助けていたとクリストフは思い返す。自分の主はどうにも癖のある人物から好かれやすくて困ったものだ。道化師が何者なのかは知らないが、先ほどのアマネに何かを飲ませた様子からして、普通の括りに入れることは出来ないし、目の前にいる少年にしてもそうだ。


「ところで、君のことはどうしよう?」

「ああ、僕が猫になっちゃったから? 別にいいんじゃないかな? アルプってバレちゃっても僕は困らないし」


 そんなに軽く考えて良いのかわからないが、本人が言うのだからまあいいかとクリストフは頷いた。


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