銀の光と青の世界
青い世界には月の淡い光が注ぎ込み、ゆったりとした光のひだを作っている。
ぼんやりとそれを眺めながら、体はどんどん沈んでいく。
人の体は水に浮くものだと思っていた私は、湖の淡水がこんなに重たいものだと知らなかった。抗いたくても水を吸った服は重たくて、うまく手足が動かせない。それに水がすごく冷たい。
この美しい場所で死ぬのか。
それも悪くないかもしれないなと目を閉じる。不思議なことに苦しいとは感じない。けれど聞こえてくる僅かな不協和音には心が残った。
◆
時は少し遡る。
アマネが去ったユリウスの部屋には子どもがいた。銀色の長い髪を緩い三つ編みで一つにまとめた10歳くらいの少年か少女かよくわからない子ども。
「おにいさん、追いかけなくていいの?」
子どもの手には見覚えのあるロケット。押し倒した時に外れてしまったのか、チェーンは途中で切れている。
「お前…………アルフォードか?」
「うん」
見知った姿ではなかったが、ユリウスにはその声や仕草に覚えがあった。
「まったく、寝すぎだ」
「スヴァルミューラで長老に頼んだんだよ。僕の姿がみんなに見えるようにしてって。そうしたら時間がかかっちゃったんだ」
吊り気味の大きな目をパチパチ瞬いてアルフォードが言う。
「いつからいたのだ? いや、いつから聞いていた?」
「うーん、たぶん全部知ってると思うよ? 夢みたいな感じだったけど、ずっとお姉さんと一緒にいたもの」
アルフォードはカチリとロケットを開けてみせた。銀色のへらべったい石が入っていたそこは今は空っぽだ。
「それよりおにいさん、追いかけなくていいの?」
「今は話しても無駄だろう。それにエドが追いかけたはずだ」
アマネは気付いていないようだったが、開け放たれた扉の向こうを金色の髪が横切ったのをユリウスは見ていた。
「ふうん。でも結局まだ夢は食べられないのかー……おにいさん、へたれすぎだよー」
「うるさい、バカ猫」
「もう猫じゃないもんねー」
いつも通りの応酬に、ユリウスは苦笑する。アマネがいたらきっと呆れていただろう。
「アマネは……アロイスをどう思っているのだ? 全部見ていたのだろう?」
「気持ちまではわからないよ。夢で見ていただけだもの。それと道化師の声はほとんど聞こえなかったんだよね。あれ、僕がいるって気付いてたのかな?」
アルフォードはロケットの中から世界を見ていたようなものだった。視野は狭かったし、アマネの背後にいたものは見えなかった。それに道化師の声はノイズが入ったような状態でほとんど聴き取れなかったのだ。
「なんだ。役に立たんな」
「ふーん、そんなこと言っちゃうんだ? 僕、アロイスおにいさんの声は聞こえてたんだけどなー?」
「アロイスはアマネが好きなのだろう? そんなことは知っている」
ユリウスがアマネを手伝うように言った時、アロイスは言ったのだ。それでもよいのかと。ユリウスが苦い気持ちを押し殺してアロイスに頼んだのは演奏中にアマネを守る者が欲しかったからだ。それに、先にそれを告げてきた点は、ユリウスにとってはむしろ好印象だった。
「道化師があんなにアッサリ条件を飲むとは思わなかったが」
「うん。僕も驚いたよー」
「ああ、お前はあの時はまだフルーテガルトで寝惚けていたのだったな」
王都支部でアマネが道化師と対峙した時、アルフォードはまだ冬眠する前だった。冬眠する直前にアマネに石を渡したのだから、その後のことしか知らないのだ。
「アロイスおにいさんは、おにいさんとおねえさんが仲良しだと嬉しいんだって。でもおにいさんがおねえさんを泣かせるなら、さらっちゃうんだって」
「泣かせるつもりなどない」
心外だと言わんばかりにユリウスがアルフォードを睨む。
「でもおにいさんの部屋からカミラって女の人が出てきたんでしょう?」
「は? なんだそれは」
「年明けだったかな? 新しい護衛の人がそう言ってたよ?」
アルフォードが説明するとユリウスは顔を顰めた。
「ベルトランが捕まった時なら、俺はギルドで会議に出ていたが?」
「ふーん、じゃあカミラって人が勝手におにいさんの部屋に入ったんだ?」
「……そういうことになるな」
アルフォードは思い返す。ベルトランはカミラがユリウスの部屋から出てきたと言っていたが、ユリウスがその時どこにいたのかは言っていなかった。
「おにいさんは言葉が足りないんだよ! ちゃんとおねえさんに説明しないとだめだよ!」
「仕方ないだろう。そんなことがあったとは今まで知らなかったのだから」
「でもおねえさんはタブレットで……あれ? もしかして、おにいさんはそのことも知らない?」
アルフォードがタブレットの動画について説明すると、ユリウスは唇を噛んだ。
「あの馬鹿……なぜ俺に直接聞かないのだ」
「おねえさんも言葉が足りないよね……でも、あれって本当にあったこと?」
道化師の声が聞こえなかったアルフォードは、あの動画が本当にあったことなのか知らない。だがロケットから見た限り、あれに映っていたのはユリウスとカミラだったと思う。
「見ていないからわからんが、カミラを放置したのは事実だな。ユニオンの件で利用していたからな。……しかし、アロイスが急に動き出した原因は俺にもあったということか」
アロイスがアマネに時々ちょっかいをかけていたことをアルフォードは知っている。だがアマネが拒絶した後は無理に言い寄ることがなかったのも知っている。ユリウスが不在で絶好のチャンスだというのに、どうして動かないのかとロケットからヤキモキしていたのだ。
アルフォードとしてはアマネの夢を食べられれば満足なのだ。出来ればユリウスがそのために動いてくれればいいと思ってはいるが、別にアロイスを嫌っているわけでもない。アマネが嫌がらなければアロイスでもそれ以外でもいいと思っていた。
「おにいさん、ちゃんとおねえさんと話し合った方がいいよ?」
「わかっているが……」
ユリウスは明日テンブルグに向かわなければならない。アマネとのことはユニオンの片が付いてからと思っていたが、マール貿易の件は誤算だった。
「お前、ちょっとヤンクールに行ってこい」
アルフォードがいるなら丁度良いとばかりにユリウスは命じる。
そろそろゲロルトが動き出す頃合いだ。辺境のマーリッツもすでに雪は融け切っているだろう。気になってはいたがユリウスは身動きが取れなかったのだ。
「起きたばっかりなのにー! 僕、まだおねえさんともお話して……」
口を尖らせて抗議していたアルフォードが、突然言葉を切って目を見開いた。
「っ、おにいさんっ!」
「どうした?」
「おねえさんの気配が……消えそう……っ」
アルフォードの言葉にユリウスが息を呑む。
「お城の近く……たぶん、エルヴェ湖!」
「お前は先に行け!」
ユリウスが叫ぶとアルフォードの姿が空に融けた。
◆
ドロフェイはその時、山の中にいた。
目の前には石造りの建物がある。木々の合間にひっそり佇む白茶色の壁に、左右対称の三角形の屋根。家族が住むには小さい造りだが、2人くらいなら住めそうな建物だ。
「ここは相変わらずだ」
辺りは静まり返っていて生き物の気配が全くしない。
それもそのはずで、この建物とその周囲一帯はドロフェイの術で誰も入って来られない。建物があること自体、気付かないように細工されていた。
ドロフェイはその術に多大な労力を払った。おかげでこの辺りにいるとドロフェイは無力だ。術が全く使えないし気配を探ることもできないのだ。
そうまでして守りたかったその建物は、かつて領主の娘が使っていたものだった。
中に入ると右端に古びたテーブルと2客の椅子がぽつんと置かれており、左側には地下へと続く階段がある。
ドロフェイは勝手知ったるといった様子で階段を降りていった。
カツンカツンと靴音が響く。灯りもなく真っ暗闇だというのに、まるで見えているかのように足取りに迷いはない。
急ぐでもなくそうやってしばらく歩くと唐突に空洞が広がる。地下深くに潜ったはずなのに、そこはどうしてだかうっすらと青い灯りに満たされていた。
不審に思う様子もなく、ドロフェイは灯りを目指す。足音はもう響かない。そこは整えられた石畳ではなく、ごつごつとした岩がむき出しになっていた。
歩きにくさを物ともせずに進むドロフェイが、ほどなくして足を止める。その先には静かに水をたたえた湖が広がっていた。
エルヴェ湖と同じ色、そして同じように波もたたないその中央に、一本の木が伸びている。葉もなくつるんとした木肌を晒し、下は水に浸かったまま洞窟の天井を突き抜けている。
ドロフェイはそれを感情のない目で眺めていた。
どれくらいそうしていたのか。ドロフェイが踵を返そうと足を動かした時、異変が起きた。
とぷん、と音がして水紋が広がる。
眉を顰めたドロフェイは急ぎ足でその場を去っていった。
◆
ざわざわとうるさいくらいに木々が音を立てる中、城門の脇にある塔から外に出たアロイスは、坂道を駆け上ってくる人影を認めた。
「…………エド?」
「あ、ああ。アンタか。アマネを見なかったか?」
「アマネさん? 見ていませんが、アマネさんはドロフェイが送ってくると……」
「いや、顧問が迎えに行って店に一度戻ったんだ」
エドはヴェッセル商会を飛び出したアマネの後を追った。通りに面した家々の灯りを頼りに、小さな後ろ姿を見失わないようにするのは、さほど苦労はなかった。それに、そもそもアマネの足取りは重そうで、のろのろとした歩みだったのも幸いした。
そのアマネが東門に立ち寄った時、エドは窓の外から詰め所の様子を見ていた。門兵が2人居眠りをしているのも見ていたし、アマネが声を掛けたり肩を軽く揺すったりしているのも見ていた。
一向に起きる様子が無い門兵を不審に思ったエドは、アマネが東門を出た後、詰め所に入った。テーブルの上には酒が入った瓶が2本とグラスが2つ。エドは迷わず瓶を2本とも手に取りアマネの後を再び追った。
東門を出ると城門まで続く坂がある。坂は緩いカーブを描くものの見通しは良い。詰め所にいたのはわずかな時間で、先を行くアマネの影が見えるはずだったが、視線の先には人影が無く、慌てて坂を上った。
エドの説明を聞いたアロイスは顔を青くする。
「アンタからはアマネは見えなかったか?」
「いえ。外に出たばかりですから。エドはラウロを呼んできてください。私は湖畔を探します」
そう言ってアロイスが坂を駆け下りようとした時、誰かの声が聞こえた。
「おおーい、誰かおるんかー」
随分と暢気な声に聞こえたが、塔の中に入ろうとしていたエドが足を止める。
目を凝らすと両脇に大きな何かを抱えた人影が坂道の真ん中に出てきたのが見えた。
険しい顔つきのエドが抱えていた酒瓶をその場に置き、躊躇いもせずにアロイスを追い越して坂を駆け下りていった。