ヴァイオリン協奏曲
演奏会の片付けが終わるころ、ドロフェイが迎えに来た。
「馬車を城門に待たせてあるよ」
今日は普通に行くのかと意外に思うと、心を読んだかのようにドロフェイが言う。
「今日の僕は陛下のお遣いだから、ね」
事前にエルヴィン陛下から呼び出しがあったことを皆に伝えてあったが、出かけることを誰かに伝えるべく視線を巡らせるとアロイスと目があった。演奏会の余韻のせいで頬が熱くなる。
「アロイス、陛下の所に行ってきます」
小さく笑みが返されたが、私の横を見たアロイスは笑みを消した。
「よい演奏だったよ。キミがあんな風に演奏できるなんて知らなかったな」
「それはどうも。必ず、無事に返すと約束を」
「もちろんさ」
肩を竦めるドロフェイにアロイスは射るような視線を送った。
「アマネさん、これをお持ちください」
そう言って首に掛けられたのは、非常用に置いてあったホイッスル。
「何かあったら思いきり吹きますね」
「そうしてください」
演奏会前の公開ゲネプロでは、街の人たちも交えて避難訓練を行った。参加した者がホイッスルの音を聞いたら、何かあったと伝わるはずだ。
だが、さすがに今回は何も無いだろうと思う。陛下の名で、しかも詫びを名目に呼び出すのだ。ドロフェイが普通に迎えに来たのもそれを示すためだろう。
「鍵はお持ちになりましたか?」
「はい。大丈夫です」
遅くなるつもりはないけれど、どの程度で解放してもらえるのかわからない。一応、城門の両脇にある塔の鍵を内ポケットに入れてあるのだ。
「やはり心配です。せめてラウロかエドを」
「帰りも僕が送り届けるから心配ないよ」
「それが心配だと言っている。私がお迎えに上がります」
険しい表情のアロイスに対してドロフェイは醒めた表情で受け流す。
「アロイス、私は大丈夫ですから。ソリストが2人ともいないと皆も興ざめするでしょう? 私の代わりに皆を労ってください。ラウロもエドも、頑張ってくれましたから」
不満気な表情を隠そうとしないアロイスに見送られ、私はドロフェイと共に城門へ向かった。
外は良く晴れていたが夕方になって風が出てきたらしく、建物の隙間を時々ゴウと強い風が吹く。
道の駅には未だにちらほらと客が残っていて、遠巻きに私たちを見てきゃあと控えめな歓声を上げていた。
「ドロフェイって人目を引くよね」
ドロフェイは今日は奇妙な服装ではないし、へんてこな化粧もしていない。男性にしては少し長めのプラチナブロンドは品よく整えられ、黒いジュストコールに身を包んだ貧弱ではない細い体躯は、ご令嬢たちが歓声を上げるに値するものだ。
「フフフ、キミ、自分のことだとは思わないのかい?」
「アロイスじゃあるまいし。だいたい私なんて子どもにしか見えないよ」
ちょっとピアノが弾けるからと言って、子どものような見た目の男がご令嬢にモテるとは考えづらい。
「けれど、縁談は殺到するんじゃないかい? 君は渡り人なのだし」
「それはまあ。断りの返事、また書くのか……」
殺到したとしても男装中の私に来る縁談は女性からに決まっている。受けられるはずもないのだ。
門に辿り着いて馬車に乗り込もうとした時、見覚えのある人物が目に入った。見たことがあると思うのだが、それが誰だったのか思い出せない。
考え込む私をドロフェイは馬車に乗るように急かす。
「そもそもどうして男装してるんだい?」
首を捻りながら馬車に腰を落ち着けると、ドロフェイが問いかけてきた。
「今さら? エルヴィン陛下にバラしたのに?」
「隠しているみたいだったから、教えたら面白そうだと思って、ね」
さすが行動の根源が「おもしろそうだから」のドロフェイだ。まさか理由も知らずに吹聴しているとは思わなかった。
「この世界の女の人は外で働く人が少ないでしょう? 音楽家なんて言っても受け入れてもらえないと思って」
「なら葬儀の後に公開してもよかったんじゃないかい?」
「それはドロフェイのせいだよ。陛下の縁談が決まらないと迂闊に公表できなくなったもの」
「ふうん。なるほど?」
わかっているだろうに惚けてみせるドロフェイを睨みつける。
「それならもう公表できるよ」
「エルヴィン陛下のお相手が決まったの?」
驚いて尋ねると、ドロフェイが苦笑した。
「ルシャの姫君さ」
「へえ、ルシャってノイマールグントの北東だよね?」
「今は、ね。300年ほど前は間に別の国があったのさ」
「ふうん。そういえば、フルーテガルトに楽器職人が来たのってその頃かな?」
「ああ、そんな話を聞いたことがあったな」
ドロフェイの話からすると、フルーテガルトの楽器職人たちはルシャが元の国を占拠したことによって逃げてきた人々であるらしい。その後、数回の戦を経て今は半分がノイマールグントの領地になっている。
しかし、聞いたことがあるって……確かにドロフェイは600年は生きていると言っていたが、改めて考えると気が遠くなる話だ。
「これで君が男装する理由はなくなったと思うけど?」
「まあ、そうだけど……今さらじゃない?」
私としては隠すほどではなくなったという認識だ。たまにならともかく毎日長いスカートを着て過ごすつもりはないし、女なのかと聞かれたら女ですと答えるスタンスなのはちょっと前から変わらない。
「じゃあ次に僕が会いに行ったら、ドレスで出迎えてくれるかい?」
「は? なんで?」
「スカートの方が手を入れやすいから」
本気とも嘘ともつかない言い方だが、当然私はそんなことをするつもりはない。というか発言がおやじくさい。さすが600歳超え。
「そんなことを言われてドレスを着るはずないじゃない」
「それは残念。彼……アロイスも喜ぶと思うのだけど」
なぜそこでアロイスが出てくるのか。身に覚えがないわけではないが、ドロフェイはあの時はエルヴィン陛下と一緒に客席にいたはずだ。
「随分熱烈な口づけだったみたいだ、ね」
「…………まさか客席に見えてた?」
「いいや、それはないよ。あんな表情のキミが袖に引っ込めば、そうなるんじゃないかと思っただけさ」
まさかと思って聞いてみれば、どうやら鎌をかけられたようだ。あの時、袖には他にも何人もいたのだし、ステージからは見えていたのだから、今さらと言えば今さらなのだが。
アロイスの演目はブラームスのヴァイオリン協奏曲だった、
オーケストラの調子がとても良くて、私は今回ほどブラームスを演奏したと胸を張って言える演奏は、後にも先にも無いのではないかと思う。一生に一度。そんな演奏だった。
クリストフも絶好調で、第2楽章にオーボエ・コンチェルトだったっけ? というほど長いオーボエソロがあるこの曲を盛り上げてくれた。
アロイスの演奏はと言えば、これ以上なく甘くて心が痛くなるほどだった。指揮をしながら何度唸り声を我慢したことか。恍惚とも苦行とも言える40分だった。
クラリネットの女性は頬を染めて目を潤ませていたし、ヴァイオリンの女性2人も密かに吐く息が熱を感じさせた。
そういう私も人のことは言えなくて、不謹慎ながら耳を犯されるとはこのことかと納得するほどだ。女性演奏家たちの熱っぽい顔が見えていただけに、必死に眉間に皺を寄せて目に力を入れて表情を取り繕ったけれど、少しだけ上気した頬は隠しようがなかった。
ブラームスはロベルト・シューマンの弟子で、ロベルト亡き後はクララを影から支えたと言われている。ブラームスとクララは愛し合っていたのではないかなんて下世話な話があるけれど、私はブラームスの一方的な感情だったのだろうなと思っている。
だってロベルトとクララはめちゃくちゃ仲良し夫婦だったと思うし、ブラームスの性格的にクララに言い寄ったりはしないと思うのだ。
ブラームスは恋愛とか、もっと言えば自分の欲みたいなものを表に出すのが下手で、その分、音楽がエロい……じゃなくて、ええと、音楽に官能が滲んでしまうタイプの作曲家だったのではないかと思っている。いや、もちろん批判ではなくて褒めてます、これでも。
まあ、そんなこんなで前回同様に会場中の女性たちをきゅんきゅんさせ、前回とちょっと違ってモジモジさせたアロイスの演奏は大成功で、会場は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
演奏が終わったという寂しさと達成感の間で、ふわふわと覚束ない足取りで袖に戻った私はアロイスに言った。
「理想のブラームスが演奏できました。アロイスのおかげです」
「アマネさん……っ」
演奏の余韻が抜けきらないのか、アロイスは熱に浮かされたような表情で私を掻き抱いた。
色を感じさせないそれは母にしがみつく子どもみたいだと、なんだか微笑ましい気分になった私だったが、不埒な手が後頭部に回り、食べられるんじゃないかというような勢いで口づけられた時は流石に焦った。
背中を叩いても、すぐ近くにいたエグモントが咳払いをしても、ダヴィデやベルトランが困った顔で肩を叩いても、アロイスは私を解放してくれなかった。
呆れ返ったクリストフに何かを耳打ちされ、アロイスが怒って顔を上げた隙にどうにかラウロに助けられたわけだが、酸欠と羞恥で立っていられなかったのは仕方がないと思う。
そんなシーンを劇場の演奏家たちも当然見ていたわけだが、強制的に男同士のキスシーンを見せつけられた割には苦笑したりニヤニヤしたりする程度で、特に大騒ぎにはならなかったのは幸いと言える。もしかしたらこの世界ではよくあることなのだろうかと首を捻りたくはなったけれども。
「んひゃっ」
「熱い口づけを思い出しているところを悪いのだけど、そろそろ到着するから」
冷たい物が唐突に唇に当てられて身を竦めると、小さな氷を手にしたドロフェイがおもしろくなさそうな顔で私を見ていた。
「……それって水の魔力だよね?」
「そうだよ」
ドロフェイが摘まんでいた氷を見せつけるように自分の舌に乗せる。それが先ほど自分の唇に触れたものだと気付いた私は再び頬を染めた。
「アロイスがあんな風になったのって、ドロフェイの術のせい?」
「フフフ、どうだろう? キミはどんな答えを望むんだい?」
完全におもしろがっているドロフェイを睨みつける。
「そんな顔をしても怖くないけど、いい演奏だったからご褒美に教えてあげよう。あれは僕の術とは関係ないよ。キミの今の状態も、ね」
「ふうん。まあ自分のはいつものことだから、自覚してるけど」
共演のソリストに一瞬だけ恋をしたような状態になるのはよくあることだと言えば、ドロフェイは珍しく目を丸くした。
「そうなのかい? なら今度は僕がソリストに立候補しようかな」
「本当に? え、ピアノ協奏曲だよね? うっわ、楽しみ! 何の曲がいいかな?」
私の食いつきの良さに、ドロフェイは頭が痛いというように片手で顔を覆った。
ほどなくして馬車が停まる。
「ドロフェイ?」
「…………行こうか。陛下がお待ちだ」
結局共演はどうなるのか、答えをもらえないことに首を傾げながら、私は馬車を降りた。