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協奏曲の演奏会

「マリア、テオが呼びに来たら袖においで。ヘレナ、後はお願い」


 開演の直前、最初に演奏する私は楽屋を後にした。まゆりさんやジゼルは来場者の誘導に忙しいため、マリアのことはヘレナにヘルプを頼んでいた。ちなみに律さんはクロークだ。


 袖に向かうとアロイスがいて手を差し伸べてきた。私は躊躇わずにその手を取る。


「貴女の演奏が楽しみです」

「アロイス……見ていてくれますか?」

「ええ、ずっとここにいますから、安心してください」


 アロイスは私の手を両手で包んでくれた。緊張で冷たくなった手にアロイスの熱が伝わってくる。


 すでに演奏家たちはステージの上でチューニングをしている。客席で聞くチューニングの音は大好きなのに、袖で聞くと緊張がいや増す。


 そうっと袖から会場を覗くと、椅子がある観覧スペースにエルヴィン陛下を始めとする王族の方々が座っているのが見えた。


 コツコツという靴音が聴こえ、振り返るとエグモントがいた。


「では、参りましょうか」


 エグモントに促されてアロイスを見上げると、励ますように頷かれた。


 演奏会の開演だ。


 大きく息を吸って、吐いて。足を踏み出す。


 たくさんの拍手に包まれて体を客席に向けるけれど、視線は正面の壁だ。


 王族に、そして客席に一礼をしてピアノの前に座ると、聴こえてくるのはエグモントと演奏家たちのかすかな呼吸音だけになる。顔を上げてエグモントを見ると、その向こうにやわらかそうな黒髪が見えた。この時点で客席は気にならなくなった。


 エグモントの手が上がり、勢いよく振り下ろされる。一音目の弦が聴こえた瞬間、鋭い和音が響いた。


 何も考えなくても手が、指が動く。手首を固くして和音のまま駆け下りる。


 そして、クリストフによるゆったりとしたオーボエの第一主題。いい音だ。ずっと聴いていたい気分になるけれど、手首を柔らかくしてピアノで旋律をなぞる。見なくても弾けるくらい何度も練習した。弦が加わってピアノの音が溶けていく。


 ロベルト・シューマンのピアノ協奏曲の初演は妻のクララ・シューマンだ。クララはこの曲をどんな風に弾いたのだろう。


 第一楽章はアレグロ・アフェットゥオーソ。快速に。そして、やさしく、愛おしく。きっとロベルトはクララのためにこの曲を作った。


 時間どころか世界まで超えてこの曲が演奏されるなんて、仲の良い夫婦は考えもしなかっただろうなと思ったら、なんだか楽しくなった。


 展開部になってクラリネットが美しい響きで奏でられる。劇場の女性演奏家だ。よい腕だなと感心する。冒頭の和音を繰り返してからオーケストラ全体との掛け合いで変奏。今度はベルトランのフルートと一緒に。ベルトランもよい響きだ。再びオーボエとバスーンが第一主題を奏でる。


 そして、カデンツァ。聞かせどころだ。左手のトリルは納得がいかなくて何度も練習した。


 木管が少し走り気味だけど、第一楽章はあとちょっとだから、大勢に影響はない。懸命に指を動かすと弦が鋭く入って第一楽章が終わる。


 一息ついて第二楽章が始まる瞬間、ユリウスが笑ったような気がした。キスの合間にちょっとだけ見せてくれる、慈しむような見守るようなそんな笑顔。


 ユリウス、聞いてくれてるかな? 聞いていてほしいな。


 そう思って弾いているうちに、第二楽章から途切れずに第三楽章に突入し、第一主題を木管楽器が長調で奏でる。


 練習では早くなりすぎていたから落ち着いて、勇壮に、そして軽やかに指を走らせる。スタッカートとスラーが曲を彩る。ダヴィデのコントラバスも重厚な良い響きだ。終盤のトッカータは大好きな個所。


 最後の和音から手を上げると同時に、今まで聞こえていなかった音が急に戻ってきたように大きな拍手と歓声が聞こえてくる。


 終わったのだと思ったら、安心感と寂寥感が同時に込み上げてきた。


 顔を上げるとエグモントと演奏家たちの得意げな笑顔。袖には目を細めたアロイスが見えた。


 ようやく成功の喜びが湧きあがってくる。


 アロイスの横には緊張で強張った顔のマリアとカッサンドラ先生。今度は私が励ます番だ。


 満面の笑みを湛えたエグモントに、飛びつくようにハグをして、コンマスにも言葉で伝えきれない感謝を込めて握手をする。肩をぽふんと叩かれて、涙が零れそうになった。


 何度礼をしても鳴りやまない拍手の中、私はマリアを迎えに袖に入る。


 ぎゅうっとマリアを抱き締めると、後から着いて来たエグモントが私とマリアの頭をポンポンと叩いて下がっていった。


「マリア、聞いて。すごい心臓の音でしょ?」

「アマネさん、私……」

「ふふ、大丈夫だよ、マリア。私も一緒だから」


 引き攣った顔のマリアの手を引いてステージに戻る。鳴りやまない拍手がさらに大きくなって、マリアの肩がひくりと撥ねた。


「お客さんの顔じゃなくて、正面の壁を見てね」


 小声で顔を上げるように促す。見開かれたマリアの目に映っているのは、たぶん正面の最後列に立って手を振っているエルマーだ。


 肩を軽く叩いて再びピアノの前に座ると、会場が静まり返った。不安そうに振り向くマリアに笑顔で頷く。


 一番最初はマリアが一番得意な『側にいることは』だ。


 思い出して、マリア。

 2日前の公開ゲネプロでは、街の人たちが一緒に歌ってくれたよね。フルーテガルトにあの歌を流行らせる作戦はマリアのおかげで大成功だよ。あの時と同じように歌えば大丈夫。今度はノイマールグント中にあの歌を流行らせようって約束したよね。


 心の中でマリアに語り掛けながら前奏を弾き始めた。






 ◆






「あんなに素晴らしい歌を披露されては、次に出る私は演奏しにくいですよ」


 お道化て言うアロイスにマリアの顔が綻ぶ。


「練習の成果がよくでていましたよ。本当にがんばりましたね」


 袖で待機していたカッサンドラ先生も笑顔で讃えてくれた。いつの間にかヘレナも袖にいて、目をウルウルとさせている。


「ヘレナ、ありがとね」

「いいのよ。アマネは次は指揮でしょう? マリア、楽屋で着替えましょう」


 マリアはカッサンドラ先生やヘレナと共に、休憩の間に着替えて客席に移動することになっている。


「アロイスさん、緊張、してる、です?」

「ええ。もう逃げ出したいほどです」


 片目を閉じて軽口を叩く余裕があるアロイスを見て安心したのか、マリアは楽屋へ戻っていった。


「アマネさん、よい演奏でした」


 アロイスが私に微笑む。


 20分の休憩を挟むため、演奏家たちがステージから引き上げて楽屋に戻っていき、エドとラウロがステージからピアノを移動させるべくギードやテオを誘導する声が聞こえた。


「アロイスのおかげでもありますよ。袖にいてくれたの、見えていましたから」


 エグモントの影になってちょっと見えづらかったけれど、ずっと視線を感じていた。ちゃんと見ていてくれてる。そう思ったら肩の力が抜けたのだから、良い演奏が出来たのはアロイスのおかげだ。


「ダヴィデもベルトランもクリストフも、みんな調子が良いみたいですよ」


 楽屋に引き上げていく途中に、私とマリアの頭をぐしゃぐしゃにしていった3人を思い浮かべて笑っていると、見覚えのある門兵が一人、楽屋に駆け込んできた。


「どうかしましたか?」

「いや、大したことではないんだが……」


 門兵は困惑交じりの表情で頭を掻いている。


「さっきまで湖がいつもと違ってなあ。いや、風は相変わらず吹いてねえんだが、音楽が聞こえている間中、ずっと波が立ってたんだ」

「それは……どういうことでしょうね?」


 驚くべき知らせに私も困惑する。見上げるとアロイスも拳を顎に当てて考え込んでいる様子だった。


「いやあ、他の奴らにも聞いてみたんだが、こんな風になったのは誰も見たことが無くてなあ。一応、知らせた方がいいと思ったんだ」


 私がユリウスやアロイスの手を取って音楽を捧げている時に起きる現象を、門兵たちは知らない。あれと同じ現象なのかは不明だが、同じだとすれば音楽が奉納されたということになるのだろうか。


「演奏会が終わったら見に行ってみましょう」


 アロイスの提案に頷く。出来ればドロフェイにも同行してほしいが、エルヴィン陛下を放置するのは難しいだろう。


「知らせてくれてありがとうございます」

「いや。ああ、そういやあ、城の下でハーラルト様が聞いてたぜ」


 意外な人物の名前が出て来て目を瞬く。


 エゴンの教会には10日と開けずに行っている私だが、中に入ったりはしていない。ハーラルトとも手紙の一件以来は顔を合わせていなかった。


「言ってくださればご招待したのに……」


 とはいえ会場には師ヴィルヘルムもいる。もしかすると顔を合わせたくなくて下で聞いているのかもしれない。


 でも、聴きに来てくれたんだなと思ったら嬉しくて顔がにやけた。


 エルヴェ湖のほとりから坂を上って5階のホールまで来てくれたことを労うと、門兵は「たいしたことじゃない」と笑って戻っていった。


 門兵の背中を見送るとアロイスがぐしゃぐしゃの私の髪を手櫛で整えてくれる。ステージを見るとピアノの撤去が終わっていて、いつの間にか袖には私とアロイスしかいなくなっていた。


「楽屋に戻りますか?」

「いえ、楽器は持ってきておりますので」


 倉庫から運び込んだ柱時計を見ると、休憩時間はあと10分くらいある。あと5分もすれば演奏家たちも戻ってくるだろう。


「アマネさん、手を握ってくれますか?」

「アロイスも緊張してるんですか?」


 全然そうは見えなかったので、少し驚いて手を差し出す。先ほどと違ってひんやりとした手が私の手を握る。アロイスはそれを自分の胸に押し当てた。


「こんな大舞台でソリストを務めるとは、1年前には想像すらしていませんでした」

「アロイスなら大丈夫ですよ」


 とくんとくん、とアロイスの鼓動が手のひらから伝わってくる。普段より早いのかどうかはわからないけれど、アロイスはじっと目を伏せていた。


 エルヴェ湖の澄んだ青が開かないのをいいことに、私はアロイスを見つめる。


 整った顔立ちだなと改めて思う。ライナーの時も綺麗な人だと思った記憶はあるけれど、今よりずっと表情が少なくて話しかけづらかった。


 アロイスの音を思い浮かべてきゅうっと心臓が絞られる。


 ドロフェイの術のせいなのかもしれないが、指揮をする時に共演者に対してこんな風にときめくのはよくあることだ。ステージを降りて少し経つと霧のようにいつの間にか消えてしまう感情だけど、演奏の最中はどきどきしてきゅんきゅんすることが多くある。


 惚れっぽいわけではないはずなのだが、共演者が女性でも男性でもそうなるのだから不思議だ。まるで音に恋をしているみたいだ。


「アロイスの音、私は大好きです」


 言うつもりの無かった言葉が口から飛び出て、自分でも驚く。


 ざわざわとした喧騒がこちらに向かってくる。演奏者たちが戻って来たのだろう。そろそろ休憩が終わる。


「光栄です。とても」


 声が少し誇らしげに聞こえて、動揺させなくて良かったと安心する。


 アロイスが私の手を解放してヴァイオリンを手にすると、ちょうど戻って来た3人が今度はアロイスの肩を叩きながらステージに入っていった。


「マリアにも言ったんですけど、客席じゃなくて正面の壁を見ると良いですよ」


 聴衆の視線を感じるとどうしても緊張が高まってしまうので、そうアドバイスすると、アロイスは袖の隙間から客席を見た。


「なるほど」


 と呟くアロイスは、どういう訳だか複雑そうな表情。


「行きましょうか」


 今度は私が先頭に立ってステージに足を踏み入れる。


 拍手が鳴り響く中、正面の壁に視線を向けると、不機嫌そうに眉を寄せたユリウスがそこにいた。


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